長文 4.1週
1. 【1】たとえば
粗大ゴミのゴミ
捨て場へ行くと、まだまだ使えるものがいっぱい
捨ててある。それは
環境を
汚染するわけです。そんなことならばもうちょっと高くても
品質のいいものを買って、おじいさんから孫まで生活の思い出の残るものをずっと伝えていけば家具なども
捨てなくていい。【2】そうすればゴミ
捨て場もそれだけよけいな
負担を
背負わずにすむわけです。けれども、日本人は使っては
捨て、使っては
捨てという生活に
疑問を持っていません。
2. 【3】何年も
寸法ひとつ
狂わずに、引き出しも
扉もピッタリとしている家具への愛着は、毎日の
暮らし、人生、自分の世界をつくっていたものへの愛でもあり、そういう年月に
耐えるものをつくった人の
腕前に対する
尊敬でもあるわけです。
3. 【4】たとえば何代も読みつがれる名作といわれる文学作品は、アブクのように消えるいわゆる「よみもの」よりも多くの人に長く愛され、
尊敬されているでしょう。いつまでも
本棚に置いておきたいと思うでしょう。【5】そこから得たものは、それぞれの
人格の中に深くはいりこんで、読者の人間を
豊かにしたでしょう。すぐに
忘れ去る一過性のよみものとは、
違うものだと思います。それはモノに対しても同じであるはずなんです。
4. 【6】では、ほんとうの
豊かさ、なんとなく
豊かな気持ちで毎日が送れる時とはどういうときかと考えてみますと、『パパラギ』という本をお読みになった方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、南のある島の
酋長が書いた本です。【7】その中でこういうことを言っている。人間というのは頭だけで生きているのではない。足だけで生きているのでもないし、手だけで生きているわけでもない。心もあるし、身体もあるし、頭もある。【8】頭も手も心で感じることも、目も耳も全部が同時に満足することが必要だ、ひとつに
統一された満足感が必要だ。そういう生活が人間として幸せで
豊かな生活なんだと言っている。
5. 頭だけあるいは手だけを
酷使して、ほかのところを
顧みないと、人間は必ず病気になり、健康な心と身体を失う、と言っています。∵【9】つまり人間は、全体で生きていて、全体を働かせ、全体を楽しませ、全体がひとつとなって幸せになることが
豊かなのだと言っているのです。一部分だけが満足している
状態は、病気だと言っているのです。【0】
6. 同じことは教育の中にもあります。教育は全
人格的
発展、人間としての成長を
促すものですが、
現在、日本の教育は
偏差値の点をとる教育になっています。だから学校は楽しくない。人間の子として楽しくないのです。
7. また、日本は労働時間が
非常に長いです。残業をすれば残業手当てももらえます。お金だけ、あるいは
企業の中で出世することだけを考えれば、頭と
職業に必要な手、目だけを働かせて「
職業バカ」になることもできる。それが日本ではたいへんいいことだと考えられている。あの人は会社のために
妻も子も
忘れ、一身を
捧げて、ただただ会社のために
尽くしてきた。
企業にとってはいい社員であるのですが、そういうのは
豊かではないと『パパラギ』は言っている。
8. つまり、会社人間は、ある
専門的なことについてはベテランになっていくし、お金も
儲けるかもしれません。しかし、もしその人が学校を出てからまともな本を一
冊も読んでいない。自分の仕事にかかわるものは読んでいるかもしれないが、人間の土台になる教養というものは、何も身につけていない。会社で働くだけで、それこそ図書館にも行かないし、山登りもしないし、音楽会にも行かないし、
地域社会のために何かをするということもしない。ただ会社で働くだけ。だとしたら、まったく
豊かではありません。それは人間としての生活ではないからです。
9.(
暉峻淑子『ほんとうの
豊かさとは』「岩波ブックレット」より、一部改変)
長文 4.2週
1. 【1】あることがらや出来事を
私たちが他の人に伝えたいと思った時、大きくわけてふたとおりの方法が考えられます。一つはそれを写真やビデオに写して見てもらうということです。もう一つの方法は、手紙を書いたり電話をしたりして、読んだり聞いたりしてもらうということ」です。【2】かりに、前者を「
映像による伝達」、後者を「言葉による伝達」と
呼ぶことにしましょう。
2. さて「
映像による伝達」と「言葉による伝達」を
比較した場合、どちらが、ことがらや出来事を正しく伝えることができるかと
質問されたら、みなさんはどう答えますか。
3. 【3】最近は、テレビやビデオなどの目覚ましい発達にともなって、
映像の力を
私たちもいやというほど見せつけられることがしばしばです。特に、
衛星放送が
可能になってから、
私たちは、世界で起きている出来事をいながらにして同時
中継で見ることができるようになりました。【4】ごく最近の中国の天安門
事件の時も、そこに集まった
群衆の
熱狂的な
姿や、その後の軍隊の出動の様子などは、まるで
私たちがそこにいるかのような
錯覚を
与えるほど生々しいものでした。【5】そうした、生々しいリアルな
映像に
接すると、その
迫力に
圧倒されてしまい、「
映像による伝達」の前では、「言葉による伝達」も
影がうすくなってしまうように思えます。そして、さきほどの
質問にも、
文句なしに「
映像による伝達」に軍配をあげることになりそうです。【6】昔から「百聞は一見にしかず」ということわざもあり、「
映像による伝達」の
優位は、
疑えないことなのかも知れません。
4. しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。ほんとうに「言葉による伝達」は、おとっているのでしょうか。【7】たとえば、みなさんのことを全く知らない人に、みなさんの家族の
紹介をしようという時、家族全員のそろった写真をとって送れば、一番てっとり早いし、なによりも分かりやすいように見えます「しかし、それで、ほんとうにみなさんの家族を相手の人によく
理解してもらえるでしょうか。【8】なるほど家族それぞれの顔や
姿などは、言葉で説明する∵より分かりやすいでしょう。そして、家族全体の持っている
雰囲気のようなものも、
ある程度はその写真によって伝わることでしょう。しかし、それ以上のことになるとどうでしょうか。【9】その写真ではみんなニコニコ笑っていても、ひょっとしたら、兄と弟は口もきかないような関係にあるかも知れません。父は、
実際には病気がちで、家族のみんなが心配しているような
状態にあるかも知れません。【0】母は、心の中では、夫の病気や
子供たちのことをいつも気にして、
疲れぎみかも知れません。そうした、少し入り組んだことは、やはり一
枚の写真では
表現することはできないでしょう。その写真をみた人は、「ああ、幸せそうな家族だな」というふうに
理解して、それで終わりということになりかねません。
5. それに対して、言葉で書いた文章では、家族の顔や
姿を十分には伝えることはできないでしょうが、家族の中のかなり
複雑な問題でも、説明することができます。それによって、写真では伝わらない家族のほんとうの
姿を相手に伝え、
理解してもらうことができるのです。
6.
映像は
瞬間的に人をとらえ、その中に引きこみます。その
魅力を
私たちはよく知っています。そして何よりも、
映像はリアルです。しかし、そこに
落とし穴があることも事実なのです。つまり、
私たちはしばしば、
映像を「
現実そのもの」と思ってしまうというあやまちをおかしてしまうのです。
7.(
中略)
8. 「
映像による伝達」と「言葉による伝達」では、いちがいにどちらがすぐれているとは言えないでしょう。しかし、「
映像の時代」などと言われる
現代社会では、
私たちは、ともすれば「
映像による伝達」を
過信しがちです。「文章のウソ」以上に「
映像のウソ」は
危険なのです。
私たちは、そういう「
映像による伝達」の
危険性をよくわきまえて、
常に真実とは何かを考えるように心がけなければなりません。
長文 4.3週
1. 【1】われわれが歩いたり、走ったりする運動を考えてみましょう。足を前後に
往復させて前進します。犬や馬もそうです。足は四本ですが、やはり
往復運動です。鳥はどうでしょう。
烏も羽を上下に動かして進みます。【2】カエルが泳ぐのも
往復運動ですし、魚も
尾びれを左右に
往復させて
推進力を生み出しています。神様がお
造りになった生物は、みんな
往復運動で前進します。
2. それでは、人間が作った道具はどうでしょうか。【3】ノコギリも手で使うノコギリは、前後に
往復させて板を切ります。しかし、これでは
能率が悪いということで、回転ノコが考え出され、
製材所などでは大変なスピードで木を切っています。
3. 【4】ジェームス・ワットが発明し、産業
革命のもとになった
蒸気機関も、そこから取り出せた力は
往復運動でしたが、
蒸気機関車は、ピストンの
往復運動を回転運動に変えて使っています。回転運動をフルに利用したものに自動車があります。
4. 【5】回転運動がふえるのは、速いからです。自動車と動物の走るスピードを
比べてください。いかに速い競走馬でも、
大衆車のスピードにもかないません。このことは、自動車の方が馬よりはるかにすぐれているかのような印象をあたえます。【6】人間の
知恵は、とうとう神様の
知恵を追いぬいたと考える人もいるかもしれません。
5. たしかに、車輪の発見は
技術の発達史上における大きな発見で、四本足で走る馬より、回転する車の自動車のほうが楽だし、速くもあります。【7】しかし、
実際に走ってみると、楽に走れて速いのは平らで道のよいところだけで、山あり谷ありといったデコボコ道では、必ずしも楽ではありません。道のないところは車では進めません。人間や動物なら、川は泳いで
渡りますし、ガケもよじ登ることができます。【8】やはり人間の
知恵は神様の
知恵にかなわないわけです。
6.
現代社会は、言ってみればどこも平らですが、それは人間が作ったもので、自然ではありません。平らなところがふえたので、世の中すべてが平らであると思いこむ人がふえてしまったようです。∵
7. 【9】
舗装道路を車ですっ飛ばすように、世の中を
突っ走れると思っていたところに、つまずきを生じたのが
環境破壊であり、エネルギー
危機だったといえます。
8. 自動車もスピードを出しすぎたので
事故がふえました。【0】そこで、高速道路でも
事故の多いところは少しデコボコをつけることが一部で考えられています。人間の
知恵から
再び神様の
知恵に帰ろうというのでしょうか。
9. 人間の
知恵にはおのずと
限界があることをわれわれは十分に
理解しなければなりません。人間の作ったものは、たいへん便利で
能率的ではあっても、場合によっては案外落としあながあるものなのです。そういう意味で、われわれはもう一度、神様からあたえられた自然を見直す必要がありそうです。
長文 4.4週
1. 【1】電車や飛行機の中で、
乗務員に対して理由もなく
横柄な人がいる。こっけいだ。乗せてもらわなくては
困るくせに、何をいばっているのだろう。
旧国鉄の内部には「乗せてやる」という言い回しがあったそうで、それもひどい
勘違いだと思うけれど。
2. 【2】「いや、お客は
偉い。買う時は、だれもが王様になる」という考え方もあるだろう。しかし、それだと無用のストレスが社会に広がりそうで、
賛同しかねる。王様や
お姫様の気分にしてあげることを目的とした一部のサービス業を例外として。
3. 【3】
子供のころ、
駄菓子屋でキャラメルを買う時や、食堂で親が
精算をしている時、「買ってやったぞ」とお客様面をしていた。高度
経済成長期に育ったので、小学生でもいっぱしの消費者として
扱われた結果と言える。【4】そんな
私が
現在のように「転向」したのは、自分が社会に出て
接客の
現場にいたせいだろうが、それに先立つ
経験もある。
4. 中学生になるかならずかという夏休み。両親の
郷里である高松で
過ごし、
源平合戦で有名な屋島に遊びに行った。【5】三つ年下の弟と二人だったように思う。平日のことで山上に人は少なかった。
蝉しぐれの遊歩道を
散策した
私は、ある光景に出くわす。
5.
休憩所の店先に
帽子をかぶったおじさんが立ち、中をのぞいていた。五十代ぐらいの人だったのではないか。【6】連れはいなかった。うどんでも食べて店を出ようとしていたらしい。おじさんは
財布を
片手に、店の
奥に向かって言った。「ごちそうさまぁ」
6. 意外な言葉だった。代金を
払おうとしているのに店員の
姿が見当たらない場合、とりあえず「すみませーん」と
呼びかけるものだと思っていた。【7】いや、それしか思いつかなかった。なのに、このおじさんは無料でもてなされたかのように「ごちそうさま」と言う。
一瞬だけ
違和感を覚えた後、
私の内に変化が起きた。
7. 自分のために料理を作ってくれたのだから、お客として
代価を
支払うとしても「ごちそうさま」と言うのが
礼儀にかなっている。∵【8】考えたこともなかったけれど、それはそうだと
納得し、お客は
偉いわけではない、と知ったのだ。
8. 後日、食堂だかレストランだかで食事をして店を出る時に、
私は小声でぎこちなく「ごちそうさま」と言ってみた。【9】すると、照れくさい気もしたが、それだけのことで一歩大人に近づいたように感じた。以来、店側に不始末がないかぎり「ごちそうさま」を言い
添えている。
9. 屋島で見た何でもないひとコマが、
私を少しだけ変えた。あのおじさんには、今も
感謝している。【0】先方は、
すれ違っただけの少年に何事かを教えたとはゆめゆめ思っていないだろうが、大人の言動が
子供にあたえる
影響は、かほど大きいのだ。
平素から心しておかなくてはならない。
10. 書店員をしていて、いろんな人と
遭遇した。ブックカバーをつけただけで「どうもありがとう」と言ってくれる人ばかりではない。ささいな
行き違いで
激昂し、アルバイトの大学生に「おれは客やぞ。社長に電話したろか!」と金切り声でさけぶ小学生をなだめたこともある。
根性の曲がったガキだな、と思いつつ、君はろくな大人と会ったことないんだね、とかわいそうになった。
11.(
有栖川有
栖「お客は
偉くない」『二〇〇七年七月二十九日
日経新聞文化面コラム』)
長文 5.1週
1. 【1】自分が好感をもっていない相手と話さなければならないことほど気の重いことはない。しかし、これは
職場や学校、近所付き合いなど、あらゆる
日常生活の中で
私たちがしばしば
避けては通れない
現実といえる。その
解決策はただ一つ。それは
我慢することである。
2. 【2】
嫌いだからといって、皮肉やイヤミを言えば、よけいに
不愉快な思いをすることになるし、わざとらしくニコニコ親しげにふるまうのもかえって不自然である。
不快な
感情を表に出さないように注意し、ごく自然に
対応するのがベストということになる。
3. 【3】しかし、初対面で
嫌な感じの人と思っていても、付き合っているうちにだんだん相手を見直すことも時にはあろう。人間には案外
隠された部分が多いものだ。一度や二度会った
程度では、その人のすべてがわかったとは言いがたい。
4. 【4】
私がラジオの人生相談をしていて思ったのは、人間の観察
眼はそれほど
確かなものではないということだった。たとえば、「夫がこんな人間だったとは思いませんでした。」と言ってくる人は、観察
眼が足りなかったということになる。いいと思った人が
嫌になる。【5】だからその
逆で、
嫌な人間が
嫌でなくなる
可能性もあるということだ。
5.
映画評論家の
淀川長治さんは、十六
歳の時に見た
映画の「
俺はなあ、
嫌いな
奴に今まで会ったことがねェ。」というせりふに感動したという。【6】それ以来、
淀川さんは、「いまだかつて
嫌いな人に会ったことがない。」という
信条をもつようになった。
6. 相手が失礼なことをしたり、
非常に冷たいとき、昔は
怒ったが、ある時期から
腹が立たなくなった。【7】それはその人が失礼なことを失礼だと思っていないことに気が付いたからだという。「人間はみんな根がよい人ばかりなのだから、
嫌だと思ってはいけないんです。自分が相手に
愛情を
抱けば、きっと向こうもそれを感じてくれるはずです。」と、
淀川さんは言っている。∵
7. 【8】他にも、
俳優の
森繁久弥さんは、人と付き合う時はその人の長所だけを見てそこだけ
認め合った付き合いをするという。どんな
嫌いな相手にも必ず長所はある。【9】欠点を見てそれをどうこう
批判するのではなく、その長所の部分のみでかかわりあえばいいということである。
8. 人付き合いというものは、こちらの気持ち次第でかわっていくものなのである。【0】
9.(
斎藤茂太『心のうさの晴れる本』より)
長文 5.2週
1. 【1】しばらく
影をひそめていた教養という言葉が、またもや人々の注意をひくようになった。かわいた
海綿のように人々はできるだけたっぷりと教養を身に
吸いこませようとあせっている。【2】
結構なことだと思うが、教養という言葉については
従来から一つの
誤解が広く行われているように
私には思われる。というのは、
雑誌や書物、ないしは
講演などで、いわゆる教養
講座といわれているものを見ると、そのほとんどが、多種多様な
知識の、しかもその
断片の
紹介に終始しているように見えているからである。【3】そうして世間でも、いろんなことを
雑然と心得ていて、どんな話題にでも口を出せる人を、教養の高い人と
簡単にきめてしまっている。
2. しかし、教養と
知識とは決して同じものではないのである。というよりは、
知識はそのままでは決して教養にはならないのである。【4】いくら絵かきの名前をたくさん知っていても、美に対する感覚がちっともみがかれていないような人は、
美術の教養のある人ということができない。作家や作品に広く通じていても、人間の
感情生活や人生の
諸問題に
粗雑な考察しかめぐらすことのできないような人間には、文学は少しも教養とはなっていないのである。
3. 【5】もちろん教養には
知識や学問が必要である。いかに耳の感覚の
鋭敏な人でも、ベートーヴェンもショパンもきいたことのないような人を音楽の教養のある人ということはできない。【6】つまり教養とは、その人の血となり肉となり、その人の
人格を内部からしっかりと
支えているような
知識を指すのであり、教養によってその人の
天性の感覚や
人格がますますみがかれ、深められ、高められて行かなければならないのである。【7】
知識が
人格と
没交渉な
状態にある場合には、真の教養は決して生まれることができない。無知無学の人を教養ある人間ということはできないが、
博識の学者にも教養のない人間は少なくないのである。
4. 【8】次に注意しておきたいことは、教養を身につけるということは、知的
貴族になることでは決してないということである。例え∵ば、
美術の
鑑賞眼を養うことによって、
普通の人々には感じえない深さにまで絵画や
彫刻の美しさを感じえた場合、【9】自分か
一般の人々よりは
一段と高尚な人間になったような
誇りをいだくことは有りがちのことであるとしても、そのような
誇りをいだくために、またそのような
特権階級とならんがために、教養を深めようとするのであるとすれば、その人はついに真の教養を身につけることはできないであろう。【0】なぜなら、くりかえして言うように、教養の目的は、あくまで
自己の人間完成の上に置かれなければならないからである。
5.(
河盛好蔵『愛・自由・幸福』より)
長文 5.3週
1. 【1】表面的な生活の上では、人間というものは、案外に早く
適応するものだ。二十年前のことなど、すっかり
忘れて、今の生活にどっぷりつかることが
可能である。
2. しかし、心の底のほうは、それほど早くは、変われないのではないだろうか。【2】さらに、人間たちの心の共通の底、いわば人間たちの文化と力とか、
情感とかいったものは、それほど変われないのではないだろうか。
3. これも、表面的には
風俗はめまぐるしく変わる。流行のうつり変わりは早い。それにともなって、生活
態度も変わる。【3】表面的に見るかぎり、人間の
価値観が、どんどん変わっているように見える。
4. とくに
若者の場合、古いものを持たないだけに、その時代の
表層感覚をものにすることは
簡単である。いつでもおとなたちは
若者を特別の目で見ようとする。【4】ぼくの
若い時代だってアプレ(戦後
派)と
呼ばれたものだ。
5. それでも、
表層意識ではなくて、人間たちに共通の、
深層の
無意識にとっては、時間の流れは意外におそいのではないだろうか。それが、文化といった形になるには、ゆっくりとした時間が必要なのではないか。【5】それで、あまり急速な変化は、
深層の
無意識によって
裏ぎられたりする。
6. ぼくはなにも、いままでの
秩序感覚を
絶対的なものと、考えるわけではない。それも、
表層のもので、
秩序感覚なんてのは、どんどん変わったところで、人間はそれに
適応できるものだ。【6】たとえば、都市化が進めば、たいていの人間は、とくに
若者は、都市的な感覚で
暮らせるようになるものだ。都市には都市なりの
秩序感覚が生まれる。それでもぼくには、その
深層の
無意識は、そんなに急には変わらないのではないか、と思えるのだ。
7. 【7】たとえばぼくは、月に何回かは、東京と京都を日帰りで
往復するような生活が
表層では自然なようになってしまった。しかし、∵なにかしら
深層では、そうした時間でそれだけの
距離を
往復することへの
抵抗がある。【8】
移動が
可能になった便利さへの
抵抗、そんなものを感じてしまうのである。
8. もっとすごい人だと、昨日はパリ、今日は東京、明日はニューヨーク、なんて人もあるかもしれない。そのうちに、それが
珍しいことでなくなるかもしれない。【9】しかしそれは、何万年もの間、自分の目のとどく
範囲をテリトリー(なわばり)として生きてきた、このヒトという生物にとって、
異様なことのような気がしないか。
9. それほどでなくても、東京の友人と、電話で話すことは、いまではなんでもなくなった。【0】これだって、二十年前だと、「
長距離電話」はかなり
特殊なものだったわけで、ずいぶん便利になった。しかしこれだけの
距離の人間がいつでも声をかわしうるということは、いくらか
異様なことである。
10. 飛行機による
遠距離の
移動とか、電話による
遠距離の交信とか、そうした文明の
利益を、べつになんの気なしに受けながら、ときにぼくには、心の底のヒトが、なにか
抵抗しているような気がする。
11. 山であったところが、町に変わる。ぼくは山の緑が好きだが、そうしたことを別にしても、あれだけの山林が、これだけの時間に、市街に変化してよいのだろうか、いつもそんな気がする。
12. 戦後の日本にしても、農村から都市への人の流れが、あまり急速だったような気がする。ひとびとの生活はそれに
適応しているが、文化がそれにおいつけないでいるのではないだろうか。戦後日本の
物質的変化のスピードに、
精神的変化はおいついていないような気がぼくにはするのだ。
13. たぶん、社会の急速な変化は、いろいろとチグハグなものをもたらすのだろう。そのチグハグがおもしろいとも言えるし、そうしたものが進歩へのブレーキの役を果たすとも考えられよう。そうしたものが見えてきたのも、いまの時代である。
14.(森
毅の文章より)
長文 5.4週
1. 【1】
樹木は生命の
危険を感じると早く子孫を残さなければと多くの種子をつける。
実際、
柿の実やどんぐりが
豊作になるようにと子どものころ木の
幹を思いっきり
蹴飛ばした
経験がある。
2. 戦後せっせと植えたスギも、林業が
儲からなくなって手入れがされなくなった。【2】とくに
間伐がされていないスギ林は、スギ同士の
過酷な
生存競争でひょろひょろな木となり、ストレスが大きくなっている。こんな
環境によって、スギの木も生命の
危険を感じ、種子をたくさん残そうと
雄花をたくさん付け、花粉を大量に
撒き散らしているということなのではないだろうか。
3. 【3】九州の
熊本から九州自動車道を南下すると、八代インターチェンジを
過ぎてから道路は山間に分け入っていく。多くのトンネルと急カーブが続き、全長約六キロメートルの
肥後トンネルを
抜けると、九州で有数の林業地である
人吉盆地に入る。【4】道路の両側は
急峻な山地が空を
狭め、森林が天に
伸びている。しかし、近年、その風景に変化が
現れている。何気なく通る多くの人たちは気付くことはないのかもしれないが、
職業柄、
私にはどうしても気になってしまう。【5】それは、
至るところでかなりの面積にわたり森林が
伐採されていることだ。戦後、せっせと先人たちが植林したスギの林がようやく
伐採できるまでになって、利用されるようになったという意味では好ましい
現象だが、問題なのは、
伐採された
箇所に植林された
形跡がないことだ。
4. 【6】
私たち、森林・林業にかかわるものからすれば、「
伐ったら植える」が
常識である。しかし、今やこのような
常識が
常識でなくなってきている。それどころか、これら植林
放棄地の
状況をみると、森林所有者が森林を土地ごと手放すケースが
増えている。【7】これは、森林を買う木材生産業者が、木材
価格の下落に
伴い、
採算性を
維持するためにより大きな面積の森林を買い入れようとする意∵向があり、これが森林所有者の森林を所有することへの
負担感と相まって、土地ごとの
売却を
後押ししているようだ。
5. 【8】日本の文化は森と木の文化であるといわれる。
6. 森林に
恵まれた国土で、その
資源を
巧みに利用してきたというのは当たり前だが、とくに日本では、森林を形づくる
樹木の種類が
豊富であることから、
樹種の
違いによる木材の
性質も様々であり、その
違いを上手に使い分けてきた。【9】住まいや身の回りの道具に
至るまで、こんなものにはどの木を使うという
知恵は、すべての人がもっていた。
お櫃にコウヤマキ、まな板にイチョウ、つまようじにはクロモジ、
下駄やたんすはキリ、家の土台はクリなどだ。【0】
7. また、木材を
無駄なく使うということにも意を用いてきた。まさに、日本人は木とともに生き、木によって生活を
維持し、木の上手な使い方をあみ出してきた民族である。
8. しかし、ここ数十年、木の文化は急速に失われつつある。
安価で
均質に大量生産できる石油化学
製品などの
代替品が
私たちの
日常に
氾濫するようになったからだ。木材にしても、外国からやってくるものが八
割以上を
占めるようになっている。このままでは、日本の木の文化は、
文化財や
美術品などの
特殊な
伝統文化に残されるだけになるのかもしれない。
9. こうなると、国内の木材はますます使われず、
価格も下落していくだろう。結果、国内の森林を守ってきた林業も立ち行かなくなる。そして、
間伐などの手入れもされず森林の
放棄が
拡大していくことになる。
10.
私たちにとってなくてはならない森林が、今、
危機に
瀕している。
11.(矢部
三雄『
恵みの森
癒しの木』(
講談社+α新書)より)
長文 6.1週
1. 【1】この国から一つの種が消えていくことは、たとえていえば
私たち自身の未来へつながる糸が、一本切れてしまうことにほかなりません。
裏返せば、種の多様
性を大切にすることこそが、
豊かで安全な人間の未来を約束しうるのです。【2】さらに、どれだけ多くの生きものがいるかということは、森林の生産力の
豊かさを
示す一つのものさしになります。森林の
価値は、たんに木材などの
経済的
価値だけでなく、そこに
暮らす生きものの種類や数も、そのものさしとして
含めて考えるべきです。【3】これが、人間と自然の
共存、共生をめざす新しい考え方です。
2. 人の思想・
信条や
価値観が画一化された時代が
危険であったようにそれは自然についても同様のことがいえます。【4】たとえば、九州のスギノザイタマバエなどによるスギ
枯れのように、
単一樹種で
構成されている人工林は一度病虫害が発生すると、いっきに広がり大きな
被害をもたらします。とはいうものの、今や日本中の自然林が、スギ、ヒノキの単一
経済林にとってかわろうという
勢いです。【5】その土地の風土にあった自然林こそあらゆる
危険に対して、実はもっとも強いのだということを
忘れてはなりません。
3. ブナの森にかぎらず、北海道の
亜寒帯林から
沖縄の
亜熱帯林にいたるまで、多様な自然林を守り、健全な
状態で次の世代に
手渡していきたいというのが
私たちの願いです。【6】そして、長い間こうした自然林が、風土に根ざした地方文化を育む一つの
母胎ともなってきた歴史的事実も
忘れてはらないでしょう。
4. 最近、日本中で、土地土地の固有の自然林が消え、その土地に
縁もゆかりもない「緑」が
造り出され、それが当り前の光景となっています。【7】そうしたことをなんの
抵抗もなく受け入れてしまう自然観の
欠如をおそろしいと思います。土地の固有の自然を大切にするということはそれを
舞台にした土地の文化を守ることでもあります。
裏返せば、この国の多様な自然こそが、多様な地方文化を
支え∵ているのです。【8】その意味で、緑の量を
増やすこともさることながら、むしろ、その土地の風土や歴史的必然
性に根ざした緑の
質、自然の
質を問うことのできる
眼を養いたいものです。
5. 【9】その上で、たとえば人知のなせる
技ともいえる京都北山の人工スギ林もはるか
縄文の昔から受けつがれてきたブナなどの自然林も、ともにすばらしいと言わしめるような、そんなしなやかな
感性とバランス感覚を、しっかりと次の世代に伝えておきたいと願わずにはいられません。【0】
6. ブナの森は遠い
祖先からの
贈りものであり、そして子孫からの借りものでもあります。
私たちは二十一世紀へ
手渡すべき
遺産の一つとして、この森の
将来に歴史的
責務を負っていることを
忘れてはならないと思います。この国が、母なる森――ブナ原生林を失ったとき、それは
私たちが
孤児になるときです。なぜならば人間もまた、自然の子なのですから。
長文 6.2週
1. 【1】世の中がすべてインスタント化しているのです。インスタント食品はちょうど昭和三〇年代中ごろから出はじめました。そしてそれ以来ずっと
私たちの
暮らしを取り囲んでいます。【2】かつては自分で努力をして手をつくして時間をかけて、待っているあいだ心ときめかせて楽しんで、そして結果を得るというので生活が完結しました。ところが、お金を出して始まり、ものを得て終わりといったら、そのあいだは
瞬間になる。【3】待たないわけです。高度
経済成長期に入って、待つことが消えていってしまいました。カップラーメンの
宣伝に「三分間待つのだぞ」というのがありましたが、みなさんは
ご存知ないでしょうね。いまは三分待たなくても、すぐできるんでしょうか。【4】あるいは、三分は、もうちっとも短い時間じゃなくなったのかもしれません。三分も待つのーと
逆に売れなくなってしまうのかもしれないですね。世の中めまぐるしく速く動いているのですからね。
2. ものごと万事、
欲望がすぐ結果に
短絡するようになってしまっている。【5】本当は何かを願望することと、願望したことが満たされるあいだが実は最も楽しい時間であって、満たされてしまったらもうおしまいなのだというところがあるでしょう。わかりやすくいえば、
恋愛なんかまさにそうです。【6】もちろん、好きだと言ってから、それから先もまた楽しみはありますが、好きになっていくプロセスそのものが実はものすごく、苦しくても楽しい世界ですよね。【7】
彼女は本当に
僕を好いてくれているのかと心配になったり、その時期があるから、好きだということが
確認できたときうれしいわけです。もし手軽に得られたら、それはいいかえれば手軽にすてられる世界にもなります。【8】これはゴミの問題と同じです。手軽に得られるから手軽にすてることができるのです。それではつまらないですね。
3. 自然のものも、たとえばイチゴなんていまは年中あります。トマトも年中あります。でもかつて
旬のときしか食べられなかった。だから、待ち遠しかった。
4. 【9】待つ喜びがあったわけです。そして、たとえば
旬の初ものを食べると
寿命が
延びるなどということもいいました。初ものを食べると
寿命がのびる気がするほどうれしいから、そういう言葉か∵出てきたんでしょうね。【0】あるいは去年食べたときから一年
寿命があったことを実感できるという幸せがあったから、そういう言葉で表したのかもしれません。
5. レジャーにしても、お金を出して得るレジャーに流れていく生活というのは、山の緑、自然の鳥や花と
触れる、そういう喜びとは別なんですね。お金で
与えられる喜びの世界に身をゆだねていくことが、季節の喜びを待つ世界をも
希薄にしているんです。
6.
困ったことですが、
余暇さえもがお金もうけ、金主
主義のわなの中にはまってしまったようです。商品化され、
密室化されてきました。子どもたちはゲームセンターに、大人たちはパチンコ屋に、
孤独な時を
非自然の空間に
閉じこもって遊びます。「野外での健康的なスポーツ」としてゴルフが
宣伝されていますが、その会員
権は何千万、一億円などという投機の対象であり、ゴルフ場は緑の山をけずって人工的に草を植えた農薬づけの世界なのです。「花と緑」といえば美しい自然を連想させてくれますが、緑の森をつぶして遊園地に作り変えた「花の万博」。高い入園料を
払って外国から
持ち込んだ植物を無理な気候の中で育てている不自然を見ることになる。あちらこちらとあわただしく交通機関を利用して動きまわれば、一万円はすぐに飛んでしまうしくみのようです。ゆったりと自然の花と緑をたのしむというようにはなっていないのも、お金の世のかなしさなのでしょう。お金によって手軽にということなのです。
7. いまのインスタントな時代というのは、
欲望が
充足されている点だけを見れば幸せそうにみえるけれども、実は大事なものを失っている。本当は不幸な時代かもしれません。
8.(
槌田劭『地球をこわさない生き方の本』より)
長文 6.3週
1. 【1】ゴミの問題は、
限りある
資源をどのように
有効に使うかという大きな課題にもつながっている。ゴミは、物の持ち主から、「おまえはもう役立たずだ。」という、お
払い箱
判決を受けたものだ。【2】しかし、ある一人の人の、ある一つの目的にはもう役に立たなくなっても、ほかの目的には、あるいはほかの人には、じゅうぶんに役立つことがある。例えば、
木製のいすは
壊れてしまえば、それに
座るという目的は達せられない。【3】しかし、いすに使われている木はじゅうぶんに
乾燥していて、
狂いがこなくなっている。木工の材料としてみたら、なかなか
値うちのあるものである。木工の仕事をしている人にとっては、ぜひとも
欲しくなるほどの材料だといってもよい。【4】それなのに、いすの持ち主がこれはもう要らないと
判決を下すと、それがゴミとして集められて、
焼却されてしまうというのでは、ずいぶんむだをしていることになる。【5】こういうむだをできるだけ小さくしていくこと、つまり、一つの目的には役に立たなくても、それが役立ちそうなほかの
用途を見つけ出して、物をできるだけ長く生かしてやること、これは、ゴミを少なくするだけでなく、
資源を
有効に使うことにもなるわけである。
2. 【6】もちろん、物を
捨てることにもプラスの面がないわけではない。古いものは不要だと考えて、次々に新しいものに
替えていくという
新陳代謝が
盛んであると、次々に
需要が生み出されて、
経済活動が活発になる。【7】これはこれでプラス面である。しかし、その反面として
怖いのは、みんなが「
使い捨て式」で物を
捨てていくならば、
経済の中に
蓄えられていくものがなくなるということである。【8】せっかく作り出した物、せっかく買ったものをすぐ「不要だ。」と
判決を下して
捨ててしまうのでは、また同じ物を作ったり買ったりすることに
精力を使わなくてはならない。【9】一度作り出したり買ったりしたら、今度は別の物を作ったり買ったりするのに
精力を使ってこそ、物は本当に
豊かになっていくのである。何も
蓄えられた物がなくて同じ物を
繰り返し繰り返し手に入れようとあくせくするようでは、生活に進歩は生まれない。【0】∵
3. 日本のことわざに、「
捨てる神あれば拾う神あり。」という。これをもじっていえば、わたしたちはどんどん紙を
捨ててゴミを作り出しており、「
捨てるカミ(紙)」がいっぱいなのだから、そういうゴミを「拾うカミ(神)」がいてくれなくては
困るのである。
4. しかし、そういう神様は、どこか空の高い所に住んでいるのでもなくどこかの
ほら穴に
潜んでいるのでもない。人間が
知恵を出して生み出さなければならないものである。
5. 物を作るときには、
再生利用することを初めから考えて作るというのも、神様を生み出す方法の一つになるだろう。できるだけ長持ちする
製品を
割安にするようにくふうするのも、その一つだろう。今いろいろな
知恵を出し合って、ゴミをできるだけ少なくし、
資源を
有効に使うようにしないと、やがて人間そのものが地球から
捨てられてしまうかもしれないのである。
6.(岸本
重陳の文章より)
長文 6.4週
1. 【1】大学だけでなく、各地の
保育園や
幼稚園に
講演に行く機会もかなりあって、参観に来た母親と子どもの様子をそれとなく観察してきました。
極端にことば数が少ないお子さんの場合、母親のタイプは二通りに分けられるのではないかと思います。
2. 【2】一つは、お母さん自身も無口で
引っ込み思案、
自己主張が少なく、ウサギのようにほとんど声を出さないというケースです。おしめを
換えるにも、
授乳するにも、
靴をはかせるにも、すべて
黙々と行っている。【3】
気質の
遺伝などもあるでしょうが、子どもの側からすれば、どういう局面でどういうことばを用いるのか、
模範を
示してもらうチャンスが少ないのですから、自分のことばが出てくるまでに、時間がかかるのは当然かもしれません。【4】ようするにこれは、マザリーズのところで
述べた「くりかえし」の不足だと思います。
3. もう一つは
逆に、母親がひどくおしゃべりで、子どもの自発
性を生かす「間」が不足している場合です。子どもは家で四六時中ことばのシャワーを浴びているはずなのに、なぜこんなに無口なのか。【5】ほんとにこれがあの母親の子なのかと、わが目わが耳を
疑うことがあります。でも長い目で見ると、やはり、
因果関係の
釣り合いが、ちゃんと
保たれているのかもしれません。ふだんはほとんどおしゃべりしない子が、ある日
突然、母親のいないときにかぎって、
堰を切ったように話しはじめる。【6】いったいこの子、どうなってるのと、まわりの人はびっくり。しばらくすると、ピタッとおさまって、何事もなかったかのようにまた無口な子どもにもどります。そういう子はえてして、大人になってからも、ふだんは
寡黙な、はにかみやと見なされている場合が多いようです。
4. 【7】母親との語らいが子どもの
脳を
活性化するという川島さんの実験データは、じつに
興味深いものがあります。だとすれば、
臨界期の中心に位置すると思われる大切な時期に、
魔法使いであるはずの母親が
魔法の力をふるうことを
怠れば、
刷り込みの力ははたらかないわけです。∵
5. 【8】「三つ子の
魂百まで」ということは、三
歳までに学んだことが、百年分に
匹敵する決定的な
影響を
与えるということではないでしょうか。ですから、もし母親が一分間、赤ちゃんに話しかけるとすれば、
単純計算だけでもその約三十三倍、つまり三十三分間話しかけただけの
効果を生みます。【9】十分間話しかければ、三百三十分、五時間以上話しかけただけの
質的な
影響力をもつことになります。
6. すでにマザリーズのところで
述べたように、母親の話しかけには、くりかえしだけでなく「間」が大切ですが、間を生かすためには、母親の心がその場に
居合わせることが
肝心だと思います。【0】
授乳しながら赤ちゃんに
優しく話しかければ、赤ちゃんは体の栄養分だけでなく、同時に「
魂の
糧」も
吸収しているわけです。もしその時、母親が
片手間に新聞を読んでいたり、テレビの画面に
夢中だったり、赤ちゃんから気がそれていたりしたらどうでしょう。そこには気持ちのキャッチボール、つまり心と心の対話が
欠如しているのではないかと思います。赤ちゃんはおそらく、母親の気持ちが自分に、向けられていないことを感知し、心のどこかで
欲求不満を覚えているにちがいありません。
7. ことばと心は、深いところでしっかりつながっています。育児や、家事、
職業、
趣味などの
明け暮れで、どんなに
忙しい母親でも、子どもに
接するときは一期一会、目を見つめながら、心をこめて話しかけたいものです。
8.(川島
隆太・安達
忠夫「『
脳と音読』「
講談社現代新書」
所収による」)