1. 【1】
そっ啄の機という言葉がある。得がたい好機の意味で使われる。
比喩であって、もとは、
親鶏が、
孵化しようとしている
卵を外からつついてやる、それと
卵の中から
殻を
破ろうとするのとが、ぴったり
呼吸の合うことをいったもののようである。
2. 【2】もし、
卵が
孵化しようとしているのに
親鶏のつつきが
遅れれば、中で
雛は
窒息してしまう。
逆に、つつくのが早すぎれば、まだ
雛になる
準備のできていないのが生まれてくるわけで、これまた死んでしまうほかはない。
3. 【3】早すぎず
遅すぎず。まさにこのときというタイミングが
そっ啄の機である。
4. 自然の
摂理はおどろくほど
精巧らしいから、ほかにもいろいろな形で
そっ啄の機に相当するものがあるに
違いないが、かえる
卵はもっとも
劇的なものといってよかろう。
5. 【4】われわれの頭に
浮かぶ考えも、その初めはいわば
卵のようなものである。そのままでは
雛にもならないし、飛ぶこともできない。温めてかえるのを待つ。
6. 時間をかけて温める必要がある。だからといって、いつまでも温めていればよいというわけでもない。【5】あまり長く放っておけばせっかくの
卵も
腐ってしまう。また反対に、
孵化を急ぐようなことがあれば、
未熟卵として生まれ、たちまち生命を失ってしまう。
7. ちょうどよい時に、
卵を外からつついてやると、
雛になる。【6】たんなる思いつきが、まとまった思考の
雛として生まれかわる。
8. われわれはほとんど毎日のように、何かしら新しい考えの
卵を頭の中で生み落としている。ただそれを自覚しないだけである。これがりっぱな思考に育つのは、
実際にごくまれな
偶然のように考えられている。
9. 【7】
卵はおびただしく生まれているのに、
適時に
殻を
破ってくれるきっかけに
恵まれないために、
孵化することなく、
闇から
闇へ
葬り去られているのであろう。∵
10.
逆に、外から
適当な
刺激が
訪れて、
破るべき
卵の
殻がありさえすれば、
孵化が起こるのにと思われるときもすくなくなかろう。【8】ところがそういう時に
限って、皮肉にも頭の中にちょうどその
段階に達している
卵がない、ということが多い。せっかく、ついばむ力が外から加わっているのに、こうしてむなしく機会を
逸してしまうことになる。
11. 【9】頭の中に
卵が温められていて、まさに
孵化しようとしているときなら、ほんのちょっとしたきっかけがあれば、それで
雛がかえる。この千に一番のかね合いが
難しい。それで
そっ啄の機が
偶然の
符合のように思われるのである。【0】古来、天来の
妙想、インスピレーション、
霊感などといわれてきたのも、それがいかに
稀有のことであるかを物語っている。
12. たとえ
稀有だとしても、起こることは起こっているのである。人間ならだれしも
霊感のきっかけの
訪れは受けるはずで、それをインスピレーションにするか、流れ星のようなものにしてしまうかの
違いにすぎない。これには運ということもある。いくら努力してみても運命の女神がほほえみかけてくれなければ、着想という
雛はかえらないであろうと思われる。もっともどんなに運命が味方してくれても、もとの
卵がないのでは話にならない。人事を
尽くして天命を待つ。
偶然の
奇蹟の起こるのを
祈る。
13. すこし話が
神秘的になってきた。もっと
日常的な次元で考えてみよう。
14. 何でもない人間と人間とが、たまたま知り合いになる。
互いに不思議な
感銘を
与え合って、それがきっかけになって、めいめいの人生がそれまでとは
違ったものになるということがある。出会いである。一期一会だという。
15. ほかの人たちとどれほど親しく交わっていても得られなかったものが、何気ない出会いで
与えられる。ここにも
そっ啄の機が
認められる。われわれはそれと気付かずに、そういう
偶然を一生さがし求∵めつづけているのかもしれない。
16. それにめぐり会えたとき、
奇蹟が起こるというわけだ。
17.
難解な本は一度ではよくわからない。それに
絶望しないで、くりかえし読んでいると、そのうちに
理解できるようになる。読書百
遍意おのずから通ず。古人はそう教えた。思考も同じことで、初めから全体がはっきりすることはすくない。何度も何度も考えているうちに、自然に形をあらわしてくる。
18. 人間にとって
価値のあることは、大体において、時間がかかる。
即興に生まれてすばらしいものもときにないではないが、まず
普通はじっくり時間をかけたものでないと、長い生命をもちにくい。
寝させておく。温めておく。そして、決定的
瞬間の
訪れるのを待つ。そこでことはすべて一挙に
解明される。
19. 『
論語』の
冒頭にある
一句「学ビテ時ニ
之ヲ習フ、
亦説バシカラズヤ」も読書百
遍と同じように考えることができるかもしれない。勉強したことを機会あるごとに
復習していると、
知識がおのずからほんものになって身につく。それが
愉快だというのである。学んで時にこれを習う、
そっ啄の機はいつやってくるかしれない、折にふれて立ち返ってみる必要がある、と教えているのであろうか。