長文集  1月4週  ○二〇〇六年のトリノ・オリンピックで  ne2-01-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/10/15 16:06:58
 【1】二〇〇六年のトリノ・オリンピック
で日本勢は低迷を続けていたが、ようやく最
後の最後になって、荒川静香選手が女子フィ
ギュアで金メダルを獲得し、一気に盛り上が
りを見せた。
 【2】「静かなる湖の朝」を思い起こさせ
る荒川選手の演技は、跳んだりはねたりする
「元気なフィギュア」のスタイルに対して、
みごとに「別の選択肢」を見せてくれたので
はないかと思う。【3】得点にはあまり貢献
しないとされても、観客を魅了する「イナバ
ウアー」にこだわった荒川選手の快挙は、単
に金メダルにとどまらない意味を持つ。
 「金」「銀」「銅」を「一」「二」「三」
と言い直してみればわかるように、メダルと
は、つまりは参加した選手の中での順位=「
数字」である。【4】よく言われることだが
、勝者が出るために は、敗者が存在しなけ
ればならない。全員に「一」という順位の数
字をプレゼントすることはできないのだ。
 一方で、競技をしている選手たちにとって
は、「順位」では捉えきれないさまざまなよ
ろこびがあるのは当然のことである。【5】
自分を少しずつ高めていくこと。今まででき
なかった技ができたこと。ケガを乗りこえた
こと。
 人間の脳でつくり出される「うれしさ」は
、さまざまであり、他人と比べてどうかとい
うこととは、本来関係ないのである。
 【6】人間の脳は他人との関係性から多く
のよろこびを得るが、その本筋は誰かの役に
立つことができたとか、心が通じ合ったとい
う点にある。
 競技もまた関係性の一種であり、そこで一
番になったということは、本当は副次的なこ
となのだ。
 【7】強いて言えば、一番になることで「
人に認められる」「ほめられる」ということ
がうれしいのかもしれない。それでも、けっ
して、「一番」という数字自体に人間関係に
おける根源的な意味があるわけではないので
ある。∵
 【8】荒川選手は、「ポイント(=数字)
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につながらなくても、人がよろこぶことをや
りたい」という思いを強く持っていたと伝え
られている。
 そのような、いわば脳にとっての「うれし
さ」の本筋が金メダルにつながったのだから
、これほどすばらしいことはない。
 【9】本質を見極めずに、単に順位にこだ
わるのは、「数字フェチ」とでも言うべきだ
ろう。
 年収、偏差値、年齢。人間を惑わせる数字
はたくさんある。数字にこだわるまいと思っ
ても、ついつい左右されてしまうのが人間で
ある。軽い数字フェチは、進化の過程でそれ
なりに役に立ったらしい。
 【0】確かに、人間は皆、ある程度、数字
フェチなのである。うれしいことがあったと
きに活動する脳の「報酬系」は、「これだけ
の額のお金をあげます」などといった抽象的
な刺激でも活性化す る。数字は、もともと
人間の脳にとってはきわめて抽象的な概念で
ある。その現実から離れた存在に自らのよろ
こびを託すことができるということが、人間
ならではの「クセ」らしい。
 学校の成績や、お小遣いの額や、一国の経
済成長率。数字に一喜一憂する人間は、動物
たちから見れば、かなり奇妙な存在である。
ときには、俺たちはずいぶんヘンらしい、と
反省することが必要だろう。
 荒川選手の金メダルは、数字フェチたる人
間のよろこびを、「他人をよろこばせる」と
いう生きることの根源に結びつけてくれたの
である。

(茂木健一郎『すべては脳からはじまる』「
中公新書ラクレ」)