長文 2.4週
1. 【1】たとえばサッカーのワールドカップを観る。多くの日本人がスタジアムやスポーツ・カフェや、あるいは自宅じたくなどで応援おうえんをしている。そして日本人がゴールした瞬間しゅんかん、その興奮こうふんと喜びは一瞬いっしゅんにして全ての日本人の間をかけめぐります。【2】特にスタジアムにいる人などは、みごとに嬉しいうれ  という感情かんじょうで一つになる。これは、感情かんじょうというものが非常ひじょうに伝わりやすい性質せいしつを持っているからです。
2. 感覚とか考えていることとかは、なかなかダイレクトには伝わりません。【3】ところが感情かんじょうのうという垣根かきね越えこ 瞬時しゅんじに伝わっていく。この性質せいしつについては人間も他の動物も変わらないようです。
3. さてそれでは、この感情かんじょうが伝わるということがすなわち分かり合えるということなのか。同じ感情かんじょうさえ共有すれば人は互いにたが  優しくやさ  なれるのか。【4】もちろんそれは出発点ではあるかもしれませんが、単にそれだけのものではない。他人の気持ちが分かるというのは、それほど単純たんじゅんな図式ではないのです。ただ、この共感回路というものがベースになっていることは確かたし でしょう。【5】人が苦しんでいるのに何とも思わないほどに共感回路が働かなければ、それは優しやさ さとはかけ離れ  はな たものになります。
4. 今もし、人の気持ちが分からない人が増えふ ているとしたら。優しやさ さが失われつつあるとしたら。それはきっと共感回路の機能きのうが低下しているからと言えるでしょう。
5. 【6】他人の心が分かるということが、なぜにこれほど難しいむずか  ことなのか。感情かんじょうなどが瞬時しゅんじに伝わるという共感回路を持ちながらも、なかなか他人の心を理解りかいすることができない。実はその理由は、人間にしか持ち得ないある特性とくせいがあるからです。
6. 【7】その特性とくせいの正体はポーカー・フェイス。つまり心に抱いいだ ている感情かんじょうと、表に出てくる顔の表情ひょうじょうにくい違いちが があるということです。他の動物は感情かんじょうの動きと表情ひょうじょう常につね 一致いっちしています。怒っおこ ている時はキバをむき出しにするし、喜んでいる時は体でそれを表現ひょうげんする。【8】要するに互いたが の顔や目、あるいは体の動きを見るだ∵けで相手の心が理解りかいできます。
7. ところが人間は、心の動きを表に出さず、隠しかく てしまうことができます。本当は悲しいのに笑顔をつくることができる。ものすごく怒っおこ ているのに、冷静な表情ひょうじょうをつくることができる。【9】あるいは置かれた状況じょうきょう応じおう て、その場に合った表情ひょうじょうをつくることもできます。たとえば葬儀そうぎの場所などではそうです。亡くなっな   た人のことを大して知らなくても、また大した悲しみを覚えていなくても、意図的に悲しい表情ひょうじょうをつくることができる。【0】なかには本物のなみだを流せる人もいるでしょう。
8. こうしたポーカー・フェイスがあるからこそ、互いにたが  気持ちが分かり合うことが難しくむずか  なる。また、分からないことによって誤解ごかいが生じたりするのです。まずはこのポーカー・フェイスの存在そんざいをよく認識にんしきすること。他人の心というものは、必ずしも見かけとは一致いっちしないということ。そのことをよく理解りかいしておかなくては、社会生活は成り立っていきません。
9. 他人を思いやる気持ち。互いにたが  分かり合おうとする気持ち。それはまさに、見かけと違うちが 心の状態じょうたいをいかに推測すいそくできるかということになるでしょう。そしてこの推測すいそくする力の高い人ほど、人間関係力も高いということが言えるのです。
10. では、そうした力はどうすれば高めることができるのか。やはりそこには「感動」というものがあるような気がします。新しいものや美しいものに触れふ て感動するというだけでなく、人間関係の中での感動を味わうこと。他人と心が通い合うことで、静かな感動を体感することが大切です。

11.(茂木もぎ健一郎けんいちろう『感動するのう』「PHP研究所」より)