長文集  3月4週  ○じっさい、日本人にとって  ne2-03-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/10/15 16:18:08
 【1】じっさい、日本人にとって、いちば
ん使いにくい言葉は「ノー」なのである。む
ろん、日本人も「いいえ」とか「いや」とか
いうが、どんな否定の言葉も、「ノー」のよ
うに、はっきりしていない。「ノー」という
のは、きっぱりと否定することである。【2
】はっきりと断わることでもある。ところが
、日本人はどうもそれが苦手なのだ。げんに
「きっぱりと断わる」というような表現がそ
の間の心情をよく語っている。
 断わるというのは、そもそも「はっきりと
断わる」ことではないか。【3】それなのに
、「きっぱり」とか「はっきり」などという
限定詞をつけるのは、日本人にとって「断わ
る」ということが「きっぱり」「はっきり」
した否定を意味していないということを語っ
ている。もし、そんなふうにきっぱり断わっ
たなら、相手はつれないと思うだろう。【4
】「すげなく断わられた」と思われるにちが
いない。そんなふうに思われたらやりきれな
いので、まずは一応断わっておくのだ。つま
り、いくばくかの可能性を残しておくわけで
ある。そして、徐々に相手にこちらの否定の
意志を感じとらせるというやり方を取る。

(中略)

 【5】ある販売会社の壁に、こんな標語が
貼ってあるのを見かけた。「セールスは断わ
られたときに始まる」。それを見て私は、あ
っぱれな精神!と大いに感心したのだが、同
時に、なんと日本的なスローガンだろうか、
と思った。【6】なぜなら、この標語は「日
本人にとって断わるということは、けっして
きっぱりと断わることではない」といってい
るように思えたからである。もし断わること
が、きっぱり断わるのと同義であるなら、こ
んな標語は成り立つわけがない。【7】いく
ら説得しても、客は最後まで「ノー」という
であろうからだ。ところが、こうしたスロー
ガンが立派に通用し、社員を鼓舞∵している
ところを見ると、日本人の否定は完全な否定
ではなく、あくまで一応の否定であって、そ
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の否定はいつか肯定に転じる可能性を持って
いることが、わかる。【8】別言すれば、日
本人にとってきっぱり断わること、最後まで
「ノー」といいつづけること、それがいかに
困難であるか、この標語が見事にいい当てて
いるのである。
 【9】このように、日本人は完全な否定を
言明することをためらい、つねにいくばくか
の肯定の余地を残すのを美徳と考えるから、
外国人とのあいだでしばしばトラブルが起き
る。たいていの民族 は、否定は否定、肯定
は肯定と、それこそイエス、ノーをはっきり
と区別している。【0】否定だか肯定だかわ
からないと、いらいらし、勝手にどちらかに
きめて行動する。すると日本人はびっくりし
て、じつはそうではないんです、などと訂正
する破目(はめ)になる。外国人のあいだで
通念のようになっている日本人は不可解だと
いうイメージは、このような日本人の否定の
あいまいさに大半をおうている。

(森本哲郎『日本語 表と裏』「新潮文庫」