長文 1.1週
1. 【1】アフリカの
田舎を自転車で
訪れると、
珍客が来たということで
歓迎され、村にあるとっておきのゴリラ、サル、
芋虫、ナマズ、ヤマアラシなど
貴重な食べ物でもてなされた。
2. 【2】ある日、目的地の村に
到着して
泊めてもらうことになり、いつものように
晩ご飯を待っていたが、日が
暮れてもいっこうに声がかからない。おかしいな……、と思いながら
お腹が空いていたので手持ちの食料を食べた。
3. 【3】そのときの体験を小学校の子どもたちに話して、「どうしてご飯を出してもらえなかったんだと思う?」と聞く。すると子どもたちは
一生懸命考えて、
4. 「村にご飯がなかったから」
5. 「知らない人だからご飯を出さなかった」
6. 【4】「ご飯を出さないで、達さんがどんな
反応をするか見ようと思ったから」
7. 「
獲物を
獲りに行っていたから」
8.という答えをくれる。相手に理由や
原因がある、という考え方だ。
9. ところが
質問をしていると、ひとりの男の子が小声で「自分の
挨拶が足りなかったから」と答えたことがあった。【5】これはとても大切な考えだと思う。自分の方にも何か
原因があったかもしれない、何かできることがあったかもしれない、という考え方だ。
10.
僕の
前述の問いに対する答えは、「毎日ご飯を食べさせてもらうのがいつの間にか当たり前になってしまって、
感謝の気持ちがなかった。【6】だからそんな人にはご飯を出さない、と思われたのかもしれない」というものだ。
主張するのも大事だが、人の家で食べさせていただくのに
感謝の気持ちがなかった、きちんと
挨拶していなかった、相手に失礼なことをしたなど、もしかしたらこちら側に問題があったかもしれないと考えることを伝えたい。【7】なんでも人のせいにしていると最後にはなにも見えなくなり、
夢や目標があっても
実現させることができなくなってしまう。
僕がそう話すと、子どもたちは静まり返って
真剣な顔で聞いている。∵
11. 【8】自転車世界一周というと自分には関係のない話だと思われるかもしれないが、きちんと
挨拶したり、自分の行動に
責任を持ったりする点では
普段の生活と変わらない。子どもたちはこの辺を
敏感に感じ取ってくれる。【9】そして、「これからは
挨拶をきちんとしよう」とか、「人のせいにするのはやめよう」という感想文をくれ、先生方も「子どもたちが前より
挨拶するようになりました」と言ってくださることがある。
12. 【0】また中高生になると、受験も、
就職も、クラブも、人間関係も、
無意識でも最終的には全部自分で決めている、と話すことがある。
挨拶したらどうなるか? お礼をしなかったらどうなるか? 自分にできることはなかったか? いい答えを聞きたかったらいい聞き方をしなくてはいけないなど、自分の行動一つで
展開に大きな
違いが出てくることを体験から伝える。つまり未来は自分次第でいくらでも変わるという考えだ。
13.
僕も最初はギニアで
井戸を
掘るのは相当
困難だと思っていた。
経験も
知識もネットワークもない自分が、ほとんど部族語しか通じない山村でひとりでプロジェクトを起こすのだから。
14. でも目的を持ってできることを一つずつやっていたら、いろんな出会いや出来事に
恵まれて
井戸掘りが
実現に向かった。小さな行動を積み重ね、あきらめなければいろんなことができる。
15.(坂本達『やった。』より)
長文 1.2週
1. 【1】
私たちはヒトという動物である。この動物は
何故かやたら自分だけが他の動物と
違うと思いたがる。いわく、
理性をもつのはヒトだけだ、他の動物は
本能のおもむくままに生きているに
過ぎない、いわく、言語をもつのはヒトだけだ、【2】他の動物の声は
情動のおもむくままに発せられているに
過ぎない、いわく、自分のしていることがわかるのはヒトだけだ、他の動物はそんなことを
意識していない、うんぬん。こういうヒトだけに
与えられた
特権のおかげで、ヒトは全地球を
支配するに
至った、ヒトは
偉い、と。
2. 【3】本当にこんなに自信満々でいいのだろうか。
3. ヒトは
確かに他の動物とはいろいろな点で
異なっている。四足動物なのに二本
脚で歩く。体に
比べて
妙に頭が大きい。
ほ乳類の一種なのに、体毛が極めて
薄い。体に
似合わない
巨大な巣を作る。【4】動物界の中では
確かに変わり種かもしれない。しかし、だからといってヒトは
偉いということにはなるまい。動物界を
探せば、変わり種なんぞ、それこそゴマンといる。
4. なぜヒトは自分たちだけが他の動物と
隔絶した
存在だと思いたがるのだろう。
5. 【5】
私が小学生だったとき、クラスに
双子の転校生がやってきた。
一卵性双生児で、とてもよく
似ている。いつも同じ服を着ており、どうにも区別がつかない。
担任の先生も、
座っている席で区別していただけだ。向こうがその気になれば、だますのはいとも
簡単である。【6】ところが、一
ヶ月もすると、二人の
微妙な
違いがわかるようになり、そのうちに、
一瞬で見分けられるようになった。別にホクロのありなしとか、そんな
特徴で覚えたわけではない。毎日
一緒に遊んでいるうちに、なんとなくわかってきたのである。【7】いったんそうなってしまうと、今度は二人を見分けられない人の方が不思議に思えるようになった。
6. 同じような
経験はたぶん
誰にもあるのではないだろうか。
慣れた∵目でみると、どんな小さな
違いでも大きくみえる。【8】
逆に
見慣れないものはどんなに大きな
違いがあっても区別のつかないことがある。
7. ヒトが自分たちだけが
隔絶した
存在だと考えたがるのは、結局これと同じことではなかろうか。自分たちは自分たちの仲間の
微妙な
違いがわかる。【9】そういう目でみれば、サルや
類人猿は、ヒトとはとんでもなく
違っている。
逆に他の動物
相互間の
違いはほとんど
見過ごされてしまう。チンパンジーとゴリラの区別のつかない人は多い。きっとチンパンジーからみれば、
逆にチンパンジーだけが他の動物たちと
隔絶して見えるに
違いない。
8. 【0】そういう問題じゃない、ヒトは
賢いのだ、というかもしれない。ヒトが自分たちは
偉い、と
自慢するとき、決まって引き合いに出すのがこの「頭の良さ」である。だがこれとて
怪しいものだ。たとえばもし
知能検査の
項目に、問題に答えるまでの時間があったとしたら、ヒトは
絶対にチンパンジーには勝てない。チンパンジーの
反応時間はヒトに
比べると
圧倒的に速いのである。ヒトにはほとんど区別のつかない二
枚の写真の
微妙な
違いを、ハトはすぐに見つけることができる。何をもって「頭が良い」とするかによって、順位は当然変わってくる。ヒトは自分たちに都合の良い
項目を「頭の良い」の指標に選ぶからこそ、一番でいられるのだ。
9. ミツバチは生まれたときから自分の仕事を知っている。働きバチは生まれてからの
日齢に
応じて巣の
掃除や
幼虫の世話や食物調達などの仕事を次々とこなしていく。ヒトはといえば、いい年にもなって、いまだに自分の仕事が見つけられずにブラブラしている
輩もいる。生まれてから大量の
情報を
吸収して、学習に学習を重ねてやっと半人前になれる動物と、何もしなくても自然にその種としての行動を始める動物と、どちらが
賢い生き方なのか、
判断は
難しい。
10.(
藤田和生の文章による)
長文 1.3週
1. 【1】ゴッホ(有名な画家)の絵は、
彼が生きているあいだは
一般大衆にはもちろん、セザンヌ(有名な画家)のような同時代の大天才にさえ、こんな
腐ったようなきたない絵はやりきれないとソッポをむかれました。当時はじっさい美しくなかったのです。【2】それが今日はだれにでも
絢爛たる
傑作と思われます。けっしてゴッホの作品自体が
変貌したわけではありません。むしろ色は日がたつにつれてかえってくすみ、あせているでしょう。だがそれが美しくなったのです。【3】社会の
現実として。こんなことはけっしてゴッホのばあいにかぎりません。受けとる側によって作品の
存在の根底から問題がくつがえされてしまう。
2. こうなると作品が
傑作だとか、
駄作だとかいっても、そのようにするのは作家自身ではなく、味わうほうの側だということがいえるのではありませんか。【4】そうすると
鑑賞――味わうということは、じつは
価値を
創造することそのものだとも考えるべきです。もとになるものはだれかが
創ったとしても、味わうことによって
創造に参加するのです。【5】だから、かならずしも自分で筆を
握り絵の具をぬったり、
粘土をいじったり、あるいは
原稿用紙に字を書きなぐったりしなくても、なまなましく
創造の喜びというものはあるわけです。
3. 【6】
私の言いたいのは、ただ
趣味的に受動的に、
芸術愛好家になるのではなく、もっと積極的に、自信をもって
創るという感動、それをたしかめること。作品なんて結果にすぎないのですから、かならずしも作品をのこさなければ
創造しなかった、なんて考える必要もありません。【7】
創るというのを、絵だとか音楽だとかいうカテゴリーにはめこみ、
私は詩だ、音楽だ、
踊りだ、というふうに
枠に入れて考えてしまうのもまちがいです。それは、やはり
職能的な
芸術のせまさにとらわれた古い考え方であって、そんなものにこだわり、自分を
限定して、かえってむずかしくしてしまうのはつまりません。∵
4. 【8】それに、また、絵を
描きながら、じつは音楽をやっているのかもしれない。音楽を聞きながら、じつはあなたは絵筆こそとっていないけれども、絵画的イメージを心に
描いているのかもしれない。つまり、そういう
絶対的な
創造の
意志、感動が問題です。
5. 【9】さらに、自分の生活のうえで、その生きがいをどのようにあふれさせるか、自分の
充実した生命、エネルギーをどうやって
表現していくか。たとえ、定着された形、色、音にならなくても、心の中ですでに
創作が行なわれ、
創るよろこびに生命がいきいきと
輝いてくれば、どんなにすばらしいでしょう。
6. 【0】だから、
創られた作品にふれて、自分自身の
精神に
無限のひろがりと
豊かないろどりをもたせることは、りっぱな
創造です。
7. つまり、自分自身の、人間形成、
精神の
確立です。自分自身をつくっているのです。すぐれた作品に身も
魂もぶつけて、ほんとうに感動したならば、その
瞬間から、あなたの見る世界は、色、形を変える。生活が生きがいとなり、今まで見ることのなかった、今まで知ることもなかった
姿を発見するでしょう。そこですでに、あなたは、あなた自身を
創造しているのです。
8.(
岡本太郎『今日の
芸術』より)
長文 1.4週
1. 【1】二〇〇六年のトリノ・オリンピックで日本
勢は
低迷を続けていたが、ようやく最後の最後になって、
荒川静香選手が女子フィギュアで金メダルを
獲得し、一気に
盛り上がりを見せた。
2. 【2】「静かなる湖の朝」を思い起こさせる
荒川選手の
演技は、
跳んだりはねたりする「元気なフィギュア」のスタイルに対して、みごとに「別の
選択肢」を見せてくれたのではないかと思う。【3】得点にはあまり
貢献しないとされても、観客を
魅了する「イナバウアー」にこだわった
荒川選手の
快挙は、単に金メダルにとどまらない意味を持つ。
3. 「金」「銀」「
銅」を「一」「二」「三」と言い直してみればわかるように、メダルとは、つまりは参加した選手の中での順位=「数字」である。【4】よく言われることだが、勝者が出るためには、敗者が
存在しなければならない。全員に「一」という順位の数字をプレゼントすることはできないのだ。
4. 一方で、
競技をしている選手たちにとっては、「順位」では
捉えきれないさまざまなよろこびがあるのは当然のことである。【5】自分を少しずつ高めていくこと。今までできなかった
技ができたこと。ケガを乗りこえたこと。
5. 人間の
脳でつくり出される「うれしさ」は、さまざまであり、他人と
比べてどうかということとは、本来関係ないのである。
6. 【6】人間の
脳は他人との関係
性から多くのよろこびを得るが、その
本筋は
誰かの役に立つことができたとか、心が通じ合ったという点にある。
7.
競技もまた関係
性の一種であり、そこで一番になったということは、本当は副次的なことなのだ。
8. 【7】強いて言えば、一番になることで「人に
認められる」「ほめられる」ということがうれしいのかもしれない。それでも、けっして、「一番」という数字自体に人間関係における
根源的な意味があるわけではないのである。∵
9. 【8】
荒川選手は、「ポイント(=数字)につながらなくても、人がよろこぶことをやりたい」という思いを強く持っていたと伝えられている。
10. そのような、いわば
脳にとっての「うれしさ」の
本筋が金メダルにつながったのだから、これほどすばらしいことはない。
11. 【9】
本質を見極めずに、単に順位にこだわるのは、「数字フェチ」とでも言うべきだろう。
12.
年収、
偏差値、
年齢。人間を
惑わせる数字はたくさんある。数字にこだわるまいと思っても、ついつい左右されてしまうのが人間である。軽い数字フェチは、進化の
過程でそれなりに役に立ったらしい。
13. 【0】
確かに、人間は
皆、
ある程度、数字フェチなのである。うれしいことがあったときに活動する
脳の「
報酬系」は、「これだけの
額のお金をあげます」などといった
抽象的な
刺激でも
活性化する。数字は、もともと人間の
脳にとってはきわめて
抽象的な
概念である。その
現実から
離れた
存在に自らのよろこびを
託すことができるということが、人間ならではの「クセ」らしい。
14. 学校の
成績や、お
小遣いの
額や、一国の
経済成長
率。数字に
一喜一憂する人間は、動物たちから見れば、かなり
奇妙な
存在である。ときには、
俺たちはずいぶんヘンらしい、と反省することが必要だろう。
15.
荒川選手の金メダルは、数字フェチたる人間のよろこびを、「他人をよろこばせる」という生きることの
根源に結びつけてくれたのである。
16.(
茂木健一郎『すべては
脳からはじまる』「中公新書ラクレ」)
長文 2.1週
1. 【1】商品化された「いれもの」を買うときのわれわれは、ときとして、そのなかにはいるものを買うときよりも
慎重である。 たとえば、小麦粉だの
砂糖だのは、
日常の
必需品であって、べつに
銘柄を指定することもないが、それらの食品をいれるキャニスターを買うときには、あちこちの店を歩きまわって、よいデザインの品物をさがす。【2】
値段が多少高くても、うつくしいものを手にいれようと一生けんめいになる。
2. タンスなどもそうだ。
値段と実用
性からいえば、デパートの
特価品売場にたくさんタンスがならんでいるから、そのなかからえらべばそれでよいのだが、ながく使う家具、と思うと、なかなか実用一点ばりで気軽に買う気にはなれない。【3】使われている材料だのデザインだのを
吟味して、いいタンスをさがしまわる。
3. つまり、「いれもの」は、たんなる「ものいれ」ではないのである。「いれもの」はそれじたいの
価値をもつのである。まえにあげた
女性のハンドバッグなどもその一例だ。【4】実用的
機能からいえば、
財布だの
化粧品だのといった小物がそのなかにはいればそれでよいので、
極端にいえば、
丈夫な
紙袋だって間にあう。しかし、そうはゆかない。ハンドバッグは、「ものいれ」なのではなく、それじしん、うつくしい「もの」でなければならないのである。【5】だから、ハンドバッグその他の
袋ものに、高いおカネを
払う。
4. そればかりではない。「いれもの」がうつくしい「もの」であることによって、そのなかにはいるものの
価値もすっかりかわってしまうからふしぎである。そのことが
如実にわかるのは食器という名の「いれもの」だ。
5. 【6】たとえば、ここに、一丁のなんの
変哲もない
豆腐がある。これを
湯豆腐にして食べよう、と思う。そして、
湯豆腐をつくるための「いれもの」は、いろいろある。
6. もしも、安上りにやろうと思ったら、
雑貨店に行って、小さなアルミのナベを買ってきたらよい。【7】このナベの底に
昆布を
敷き、
豆腐を入れて火にかければ、やがて
湯豆腐はできあがる。味もそうわるくはない。学生街の食堂などで
湯豆腐といえば、だいたい、こ∵んなふうに安上りの「いれもの」にはいったもののことを意味する。【8】わたしも、しばしば、そういう学生食堂の
湯豆腐を食べてきた。
7. だが、それだけが
湯豆腐の「いれもの」なのではない。高級な
湯豆腐の店では、京都の「たる
源」でつくられた、小型の湯ぶねのようなたるで
湯豆腐の料理をしてくれる。【9】木のにおいがぷんとして、たいへんに
清潔だ。そして、とてもおいしい。おいしいかわりに、学生食堂のアルミ・ナベの
湯豆腐のねだんの数十倍のおカネを
払わなければならない。
8. このふたつの
湯豆腐は、どうちがうか。【0】材料として使われている
豆腐にも、もちろん、ちがいがあるだろう。ひとくちに
豆腐といっても、いろいろつくりかたのうえでのコツだの原料の大豆の
質だのがちがうから、上等の
豆腐と、ふつうのそれとはおなじだとはいえない。
9. しかし、より大きなちがいは「いれもの」のちがいなのである。すくなくとも、わたしのような味のシロウトは、「いれもの」で、完全に
降参してしまう。「いれもの」がよければ、それだけで、中身がおいしく感じられ、「いれもの」が
貧弱だと、あんまり
食欲もわかない。
10. じっさい、日本の料理は、「いれもの」の
芸術なのである。サトイモとエンドウ豆の
煮つけ、といった、ごく
素朴な料理でも、それが古九谷のうつくしい
鉢にすこし
盛りつけられて、サンショウの葉などがあしらわれていると、天下の
珍味とみえ、ギンナンをホウロクで
煎ったものが、黒ウルシの皿で出されたりすると、これも、すばらしい食事だ、と感じられる。まさしく、ここにあるのは、「いれもの」の
魔術である。
11.(
加藤秀俊『
暮しの思想』による)
長文 2.2週
1. 【1】相手あっての文章という考えに立つと、文章は料理のようなものだということがわかってくる。
2. 料理は作った人も食べる。味見や毒味もする。しかし、料理は食べてくれる人がなくては
張り合いがない。【2】料理の先生が、
独り暮しの自分のマンションではインスタント・ラーメンを食べているという話がある。教わりたい人がいるから、先生にもなる。うまいと感心してくれる人がいるからこそ、
腕を
振るってめんどうな料理もこしらえる。【3】自分ひとりだけ食べるのでは、とてもそんな手間ひまをかける気がしないというのであろう。
3. 文章は料理、とすると、まず、食べられなくてはいけない。何を言っているのか、わからない。これでは料理ではない。スープなのか、
みそ汁なのかわからないのでは食べる方は
迷惑である。
4. 【4】
若い人の書く文章に、
誤字、
脱字、当て字が多いと言われる。ご飯の中に石が入っているようなもので、石が歯にカチッと当たるのはたいへん気になる。そういう
混ざりものをなくさないと、せっかくの料理も台なしになってしまう。【5】文章が料理だとすると、
ある程度、栄養があり、ハラもふくれないといけない。見てくれだけの料理というのもあるが、本当に相手のことを考えていない。文章で言うと、しっかりした
内容があることであろう。【6】いくら
表現にこってみても、中身がなくては
困る。何を言っているのかが読む側にはっきり伝わり、なるほどと
納得するのがいい文章となる。
5. 料理で、いちばん大切なのは、おいしい、ということである。いくら栄養があっても、うまくなくては落第。【7】つい食べ
過ぎてしまうようなものが上手な料理というものである。もうやめておきたいと思いながら、つい、もうすこし、もうすこし、と後を引くような
ご馳走を作るのが本当の名コックだ。
6. 文章もその通り。
7. 【8】いくら、りっぱなことが書いてあっても、三行読んだら、あとはごめん、と読者が思うようなのではしかたがない。先、先が読みたくなって、気がついてみたらもう終わっていた。ああ、おもしろかった。こういう文章ならいくら読んでもいい。【9】そういう気持を
与えたら名文と言ってよい。∵
8. いまの文章は、多く、読者に対するそういうサービスの
精神に欠けているように思われる。自分の書きたいことを一方的にのべる。身勝手なのである。同じことなら、おもしろく読んでもらおうという親切心が足りない。
9. 【0】いま、クッキングスクールで料理の勉強をする人はたくさんいるが、文章の料理を教えるところは、ごくすこししかない。おもしろい文章を書こうと思う人がすくないからであろうか。
10. ちょっと
断っておかなくてはならないのは、その「おもしろさ」である。
11. おもしろいというと、すぐ、おもしろおかしく、
吹き出したり、ころげ回って笑ったりすることを連想しがちである。そういうおもしろさもないわけではないが、ここで言っているおもしろさは、相手の関心をひくもの、といったほどの意味。読まずにはいられない、放ってはおかれないという気持を読む人に
与えるもの、それがおもしろさである。
興味深いもの、知的な
快い刺激を感じさせるものは、すべて、おもしろいものになる。どんなに固い
学術論文でも、こういう意味ではきわめておもしろい、
興味しんしんの文章でありうる。
12. 文章は料理のように、おいしく、つまり、おもしろくなくては話にならない。
13.(
外山滋比古 「料理のように」 一部改変)
長文 2.3週
1. 【1】人間には、他人と
違っていることを
非常にいやがる気持ちと、他人とどこかちがっていないと満足出来ない気持ちとがからみ合っているようであります。【2】かなり小さい時でも、ほかの
子供とちがった身なりをしていることはいやなことでありまして、たとえ自分がほかの
子供よりも上等な服を着ていましても、それを
一刻も早く
脱ぎたいことを
大概の人が何かの折りに
経験していると思います。【3】そうかと思いますと、一様の
制服を着せられている女学生などが、
殆ど目につかないところに一本
襞を入れるとか、
胸を少しばかり広くあけるとかして、みんなと
違ったところを
創り出そうとしていることが見受けられます。【4】世の中の
服装の流行は、目まぐるしく変りますが、学生の
制服でも細かい流行があります。どんどん新しい流行が生まれるのは、他人と同じではいやだというところと、それに
遅れて自分だけが流行おくれのなりをしては大変だということが
微妙にからんでいるようであります。【5】
服装などの流行は、大部分表面的なもので次々と
移り変って行きますけれども、
私が
先程真似をするといいと申しましたのは、もう少し深い意味を
含めていたつもりなのです。つまり
真似をして、どうしても
真似られないところに
突きあたった時に自分自身の
創造する力、
創り出す力、それを発見することを
含めていたのです。【6】自分には
独創性というものがないのではないか、最初は
誰もがそう思うのですけれども、何か一つの活動を
真剣になってやっていれば、必ず自分の
独特の力量というものが発見される
筈です。それですから
真似をすることは一つの
手段であります。【7】
手段といいますよりは、
私どもを動かすいわば原動力であります。したがって、うまく
真似ることが出来たと思ってそこで満足をしてそれで終わってしまっては何にもなりません。
2. そこで
私は
真似の仕方に上手下手があると思います。【8】ひょっこり大金が手に入ったような時に、ある人は、それまで
漠然と夢みていたハイカラな生活をしてやろうとして、何でもかまわずお金持∵ちの持っているものを買い集め、
舶来のもの、高いものを求めます。【9】そしてよく話にあるとおり、洋服
箪笥や
長椅子が家の中に入らなかったり、
大騒ぎをしてそれで
夢がさめるのです。
真似るためにはもっと
慎重な
態度が要るのでして、
真似をしてもそれを自分なりに
充分こなせることを順に選んで、そして心身ともに楽しい、進歩の感じられるような生活に切りかえて行くのが上手な
真似の仕方だと思います。【0】これは
個人の場合でもはっきりしていますが、少し気をつけて考えてみますと、社会生活の上にも、考えなしに外国の生活の
真似をしてしまって、そしてそれが
真似に終わって、ちぐはぐな、ぎこちない、具合の悪いものがいっこうに改良されずに残っているものがずいぶん
私たちの周囲にはあります。明治のころのあの文明開化で、無反省に取り入れてしまったのは、ズボンをはいて
座布団に
座らなければならない生活にも残っていますし、また、戦争後、文化国家ということになった日本が外国から仕入れた多くの電気器具やその他の
立派な道具などで、冬の停電の時に何ともいえず味気ない
姿をさらしているものもあるわけであります。あれほど多くの人が
尊んでいる
独創性が生まれてこないのは、一つは
真似の仕方が下手だということにもあるようです。
3.(
串田孫一の文章による)
長文 2.4週
1. 【1】たとえばサッカーのワールドカップを観る。多くの日本人がスタジアムやスポーツ・カフェや、あるいは
自宅などで
応援をしている。そして日本人がゴールした
瞬間、その
興奮と喜びは
一瞬にして全ての日本人の間をかけめぐります。【2】特にスタジアムにいる人などは、みごとに
嬉しいという
感情で一つになる。これは、
感情というものが
非常に伝わりやすい
性質を持っているからです。
2. 感覚とか考えていることとかは、なかなかダイレクトには伝わりません。【3】ところが
感情は
脳という
垣根を
越えて
瞬時に伝わっていく。この
性質については人間も他の動物も変わらないようです。
3. さてそれでは、この
感情が伝わるということがすなわち分かり合えるということなのか。同じ
感情さえ共有すれば人は
互いに優しくなれるのか。【4】もちろんそれは出発点ではあるかもしれませんが、単にそれだけのものではない。他人の気持ちが分かるというのは、それほど
単純な図式ではないのです。ただ、この共感回路というものがベースになっていることは
確かでしょう。【5】人が苦しんでいるのに何とも思わないほどに共感回路が働かなければ、それは
優しさとは
かけ離れたものになります。
4. 今もし、人の気持ちが分からない人が
増えているとしたら。
優しさが失われつつあるとしたら。それはきっと共感回路の
機能が低下しているからと言えるでしょう。
5. 【6】他人の心が分かるということが、なぜにこれほど
難しいことなのか。
感情などが
瞬時に伝わるという共感回路を持ちながらも、なかなか他人の心を
理解することができない。実はその理由は、人間にしか持ち得ないある
特性があるからです。
6. 【7】その
特性の正体はポーカー・フェイス。つまり心に
抱いている
感情と、表に出てくる顔の
表情にくい
違いがあるということです。他の動物は
感情の動きと
表情が
常に一致しています。
怒っている時はキバをむき出しにするし、喜んでいる時は体でそれを
表現する。【8】要するに
互いの顔や目、あるいは体の動きを見るだ∵けで相手の心が
理解できます。
7. ところが人間は、心の動きを表に出さず、
隠してしまうことができます。本当は悲しいのに笑顔をつくることができる。ものすごく
怒っているのに、冷静な
表情をつくることができる。【9】あるいは置かれた
状況に
応じて、その場に合った
表情をつくることもできます。たとえば
葬儀の場所などではそうです。
亡くなった人のことを大して知らなくても、また大した悲しみを覚えていなくても、意図的に悲しい
表情をつくることができる。【0】なかには本物の
涙を流せる人もいるでしょう。
8. こうしたポーカー・フェイスがあるからこそ、
互いに気持ちが分かり合うことが
難しくなる。また、分からないことによって
誤解が生じたりするのです。まずはこのポーカー・フェイスの
存在をよく
認識すること。他人の心というものは、必ずしも見かけとは
一致しないということ。そのことをよく
理解しておかなくては、社会生活は成り立っていきません。
9. 他人を思いやる気持ち。
互いに分かり合おうとする気持ち。それはまさに、見かけと
違う心の
状態をいかに
推測できるかということになるでしょう。そしてこの
推測する力の高い人ほど、人間関係力も高いということが言えるのです。
10. では、そうした力はどうすれば高めることができるのか。やはりそこには「感動」というものがあるような気がします。新しいものや美しいものに
触れて感動するというだけでなく、人間関係の中での感動を味わうこと。他人と心が通い合うことで、静かな感動を体感することが大切です。
11.(
茂木健一郎『感動する
脳』「PHP研究所」より)
長文 3.1週
1. 【1】
甘いおしるこを食べているとだんだん
甘さを感じなくなります。これは、味覚が
疲労して
甘みの感度が落ちたからだとも考えられます。
途中に塩味の強い
漬物を食べるのは、味の
対比を作って、
甘味の感覚を
再覚醒させるためです。
2. 【2】トイレの
臭いは好ましいものではありません。しかし、しばらくすると、何も感じなくなって、平気で入っていられるようになります。
嗅覚は
非常に
疲労が速いので、トイレに入っても
臭いを気にせず、新聞を読んでいられるのです。【3】人間は一分間に二〇回も
呼吸しているので、
呼吸のたびごとにくさい
臭いをかいでいたのではたまりません。感覚器はむしろ自らの
疲労によって、
脳の
疲労を
防いでいるのです。このことから考えてみると感覚が
疲労しはじめているのに無理に同じ仕事を続けることは、あまりよいことだとは言えません。(
中略)
3. 【4】毎日同じ仕事を長く続けていると、それほど苦労しないのに
職場での仕事が楽になり、上手になってきます。このような人は
熟練工と言われ、大切にされます。人間
国宝と言われる人も、その道の
熟練工として、くり返しによって身についた
能力が土台になっているのでしょう。
4. 【5】同じ仕事を
繰り返していると、「もう分かっている」とか「またか」という
状況になるので、努力しないでも
習慣的に行動ができるようになります。これが
馴れの
現象であり、頭を使わなくてもすむので、頭を
経済的に働かせることができ、
脳に
余裕が生まれるのです。【6】
脳を休ませることによって、いざというときにはいつでも仕事ができるように、待機しているのです。
5. さまざまな
刺激にいちいち真正直に
反応していたのでは、
脳も
忙しすぎて
疲れてしまいます。【7】例えば、まじめな部下が細かいことまでいちいち
報告してきたら、上司はそのために
疲れて、
適切な
判断を下すことも
困難になってしまいます。そこで感覚器の方も「またあの人がきたか、どうせ同じことを言うだけだ」と
門前払い∵をしようとします。【8】はじめのうちはちょっと
呼んでもすぐ返事をしていましたが、またかと感ずると返事もしなくなります。返事をしてもらうためには、もっと大きな声で
呼ばなければなりません。すでに分かっている場合には、
脳に
負担をかけないために、むしろ
常套的な行動をとってしまうのです。【9】こうした感覚感度をみるのに
閾値という言葉が使われます。
閾とは、
越すか
越さないかの
境目の
値のことで、この
値を
越してきたものが
反応に
値する刺激の強さとなるのです。【0】
6. 「
馴れ」ている
事柄に対しては
誰もあまり気を使いません。これも
神経系の
疲労を
防ぐ方法なのです。
馴れていることはあえて努力しなくてもなしとげられるものなのです。
7. 四季の変わり目には
敏感だが、やがて真夏の暑さと、真冬の寒さに
耐えられるようになることを、気候順化と言います。同じことが身体にも起こります。四季の変化に対してもはじめのうちは
敏感ですが、
徐々に感覚が
鈍くなるのは、
刺激に対する
閾値が上がったことを意味しています。
8. はじめて
腕時計をはめたり入れ歯を入れたときは気になるものですが、やがて何も感じなくなります。これは
触覚の
馴れであり、やはり感覚
疲労の
効用と言えましょう。
9.(
渡辺俊男『人はどうして
疲れるのか』より)
長文 3.2週
1. 【1】手紙を書く機会が
減った。
現在では、手紙は、
基本的に
礼状や
冠婚葬祭の
挨拶状や案内
状くらいにしか使われていないのではあるまいか。ほとんどの人が、電話で用を
済ませる。
2. が、もっと手紙を書くべきではなかろうか。手紙には長所がたくさんある。【2】第一の長所は、よく言われるとおり、電話と
違って
暇な時間に読んでもらえることだ。電話は他人の時間を
邪魔する。相手は
風呂に入っているかもしれない。家庭内で問題を
抱えているかもしれない。いつも、人とおしゃべりをする
余裕があるとは
限らない。【3】手紙であれば、電話ほどの
押しつけがましさがない。
3. しかし、手紙の長所がこれだけだと思われてしまうのは、
私としては心外だ。ほかに、いくつもの手紙の長所があるのだ。
4. 二番目の長所、それは、電話よりもまとまったことが一方的に語れるということだ。【4】電話の場合、どうしても、相手とのやり取りになる。一人で一〇分間しゃべることはできない。もし、そんなことをしたら、
不躾者という
評判が立つのがオチだろう。すぐに返事が必要で、相手と相談しながら
結論を出さなければならないときには、電話が便利だが、そうでなければ手紙が好ましい。【5】手紙なら、一定時間、自分の文章に
釘づけにできる。長い間、自分の言いたいことに耳を
傾けてもらえる。
5. 第三の長所、それは手紙の場合、じっくりと書き直せることだ。口で言うと、その場で返事が返ってくるのは便利な反面、自分の言葉を
吟味できない。【6】言い直しにくい。頭の回転の速い人ならいいかもしれないが、
私レベルの頭の回転だと、言った先から、「しまった、こんなこと言うんじゃなかった」と思う。しかも、話をするときには、相手の
反応を予想してじっくりと
対策を立てることができない。【7】だが、手紙なら、一度書いたあとしばらくしまっておいて、もう一度読み返すことができる。相手の立場になって考え直すことができる。文体を練り、書き直せる。
6. 第四の長所、それは、手紙は
理性的になれることだ。【8】とりわけ、
誰かに
抗議をしたいような場合、口で言うと、けんかになる場合がある。
微妙な問題の場合、売り言葉に買い言葉ということにな∵りかねない。ところが、手紙であれば、冷静に考えることができる。【9】相手の言い分を言い負かそうと書いているうちに、相手の言い分にも正しい面があることに気づいたりする。あるいは
逆に、もっと
的確な自分の考えを見つけ出すこともできる。両者ともに
納得するアイディアを思いつくこともあるかもしれない。【0】時には、書くうちにますます熱を帯びることもないではないが、その場合も、書いた後には冷静になることも多い。したがって、書きおわった後、すぐに
投函しなければ、
理性的に考えることができる。
7. もう一つ、手紙の長所がある。それは、相手が
繰り返し読むことができることだ。もちろん、それは短所にもなる。不用意なことを書くと、それがのちのちまで
尾を引くことになりかねない。そうならないように細心の注意が必要だ。だが、楽しい手紙であれば、
繰り返し読むことになる。そうなることで、手紙は人と人との関係をいっそう
緊密にすることができる。意地の悪い言い方をすれば、手紙をうまく使えば、面と向かって話をすると気まずくなる人とでも、心のふれあいができるのだ。そして、それをきっかけにして、良い関係を作ることもできるだろう。
8.(
樋口裕一『ホンモノの文章力』より)
長文 3.3週
1. 【1】
若い人たちにとっては、自分の
才能がどこにあるのかとか、はたして自分になんらかの意味で
才能というものがあるのか、ということは
非常に大きな問題だろうと思います。【2】それで、世の中で成功した人を見ていると、はじめから
才能が満ちあふれていて、何もまよいなくその道にずっと
邁進してきたように見えるかもしれない。
2. いや、なかにはそういう人もいるだろうと思います。【3】モーツァルトとかベートーベンとか、あるいはゴッホとか、たしかにいるとは思いますが、しかしそれはほんとに何億人に一人の希有な例であって、ほとんどの人はそうではない。
3. 【4】
現に例えば、音楽家で、あるいはシンガーとして成功しているとか作家として成功している、あるいは大会社の社長になっている、
証券界でディーラーとして何百億円もの
利益を上げているとか、そういうふうに成功している人をみると、【5】何か
揺るぎないものがあるようにみえるけれども、しかし、そういう
彼らにしてからが、おそらく、十代のころとか、大学を出てから数年の間のいわゆる
若い時代というのは、きっと、はたして自分はこの道に進んでよかったのだろうかとか、【6】ほんとは自分は別のところに
才能があるんじゃないだろうかとか、もっと自分にとってよい人生がどこかに用意されているような気がする、とかいうような気持ちの
揺れというかまよいのようなものは、かならずあったに
違いないんです。
4. 【7】だから、はじめから自分の
才能はこの
程度だ、とかいうふうに、自分で自分を決めつけてしまうことは、一種の敗北
主義で、もう
闘わずして敗れているようなものです。
5. 【8】一つの目安としては、三十
歳までに一つの方向が見えてくれば、その人にとっては、見極めは早いほうだ、とそのくらいの
巾で考えておくといいだろうと思います。
6. 【9】昔のように、例えば、小学校を出たらすぐ社会に出て、
丁稚奉公からはじめて、というようなことであれば、これは二十
歳にな∵るころには相当社会
経験を積んだ、一人前の社会人になり得るということだけど、いまは大半が大学まで行くような世の中になってきたので、おのずから
状況が変わったんです。
7. 【0】つまり、大学の卒業まではモラトリアムですから、とくに何も決めなくても
構わない。
8. そうすると、大学卒業が間近となるまで、あるいは
就職というものが目の前にぶら下がってくるまでは、
誰も、はたして自分の
才能はいずこにありや、なんていうことはそれほど切実に考えないですむわけです。
9. ほんとうに切実に考えるのは、卒業が間近になったころ、あるいは、卒業して
実際に社会に出てから、何かで
挫折感を味わって、そこではじめて、ウームこれでよかったのかと考えるチャンスがやってくる。つまり二十
歳から三十
歳の間ぐらいのところが一番いろいろ
揺れ動くところじゃなかろうかと思うんですね。
10.
才能というものは、
実際はブラックボックスのようなもので、本人が、
俺はこれに
才能があると思っているにもかかわらず、全然
才能のない場合もあり、本人は思いもかけないのに、たいへんに
才能があるという場合もあって、かならずしも、
自己評価と、人から見た
評価とは
一致しないものです。そこに
才能というものの、やっかいにしてしかしおもしろいところがあります。
11. だから、
私の意見はこうです。
12.
才能がどこにあるかは今すぐ自分だけでは分からないし、また、どの
程度の
才能であるかも
測れないけれども、しかし、たしかにそれぞれの人にはそれぞれの人の
才能というものがあり、得意・不得意、得手・不得手というものがあることも動かない事実です。そうでしょう?
13.(林望『
魅力ある
知性をつくる24の方法』による)
長文 3.4週
1. 【1】じっさい、日本人にとって、いちばん使いにくい言葉は「ノー」なのである。むろん、日本人も「いいえ」とか「いや」とかいうが、どんな
否定の言葉も、「ノー」のように、はっきりしていない。「ノー」というのは、きっぱりと
否定することである。【2】はっきりと
断わることでもある。ところが、日本人はどうもそれが苦手なのだ。げんに「きっぱりと
断わる」というような
表現がその間の
心情をよく語っている。
2.
断わるというのは、そもそも「はっきりと
断わる」ことではないか。【3】それなのに、「きっぱり」とか「はっきり」などという
限定詞をつけるのは、日本人にとって「
断わる」ということが「きっぱり」「はっきり」した
否定を意味していないということを語っている。もし、そんなふうにきっぱり
断わったなら、相手はつれないと思うだろう。【4】「すげなく
断わられた」と思われるにちがいない。そんなふうに思われたらやりきれないので、まずは
一応断わっておくのだ。つまり、いくばくかの
可能性を残しておくわけである。そして、
徐々に相手にこちらの
否定の
意志を感じとらせるというやり方を取る。
3.(
中略)
4. 【5】ある
販売会社の
壁に、こんな標語が
貼ってあるのを見かけた。「セールスは
断わられたときに始まる」。それを見て
私は、あっぱれな
精神!と大いに感心したのだが、同時に、なんと日本的なスローガンだろうか、と思った。【6】なぜなら、この標語は「日本人にとって
断わるということは、けっしてきっぱりと
断わることではない」といっているように思えたからである。もし
断わることが、きっぱり
断わるのと
同義であるなら、こんな標語は成り立つわけがない。【7】いくら説得しても、客は最後まで「ノー」というであろうからだ。ところが、こうしたスローガンが
立派に通用し、社員を
鼓舞∵しているところを見ると、日本人の
否定は完全な
否定ではなく、あくまで
一応の
否定であって、その
否定はいつか
肯定に転じる
可能性を持っていることが、わかる。【8】別言すれば、日本人にとってきっぱり
断わること、最後まで「ノー」といいつづけること、それがいかに
困難であるか、この標語が見事にいい当てているのである。
5. 【9】このように、日本人は完全な
否定を言明することをためらい、つねにいくばくかの
肯定の
余地を残すのを
美徳と考えるから、外国人とのあいだでしばしばトラブルが起きる。たいていの民族は、
否定は
否定、
肯定は
肯定と、それこそイエス、ノーをはっきりと区別している。【0】
否定だか
肯定だかわからないと、いらいらし、勝手にどちらかにきめて行動する。すると日本人はびっくりして、じつはそうではないんです、などと
訂正する
破目になる。外国人のあいだで通念のようになっている日本人は
不可解だというイメージは、このような日本人の
否定のあいまいさに大半をおうている。
6.(森本
哲郎『日本語 表と
裏』「
新潮文庫」)