ニシキギ の山 8 月 2 週
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○自由な題名
○がんばったこと
○私のくせ、つまみ食い
○私の好きな遊び
 水と緑と土は

 水と緑と土は、もともと一つでした。なぜなら「水のないところ」といえば、どこでしょうか。さばくや、はだかの岩山ですね。そこには緑も土もありませんね。では「緑のないところ」はどこでしょう。やはりさばくやはだかの岩山ですね。そこには水も土もありません。「土のないところ」といってもおなじです。水と緑と土は、そんなかんけいにあったのです。
 土があってこそ、そこから緑がはえました。緑がはえれば、木や草の根は、土をしっかりと大地につなぎとめました。木の葉も枝も、土に返されて、土があつくなりました。土があつくなれば、そこからもっとたくさんの緑が、大地をおおうようになりました。緑がゆたかになれば、それはまた土に返されて、いよいよ土をあつくさせました。森の中でくらす動物たちも、みんな土になりました。土から生まれたものが土に返されて、いよいよ土はあつくなり、それがさらに、あたらしい生命をはぐくみました。
 そうした自然のじゅんかんが、きちんとくりかえされてこそ、土は、雨や風にはぎとられることもなく、大地につなぎとめられて、たっぷりと、水をすいこんでくれたのです。水をすいこんだ土は、もっとたくさんの緑をそだてました。
 エジプトやメソポタミアに、大むかし、文明がさかえたのも、そこにゆたかな緑があり、土があり、水がながれていたからです。その文明がほろびていったのも、土をうしなったからでした。水をうしない、食糧をうしなって、人間は生きていけなくなったからでした。
 土をやしなうということは、なんとたいせつなことでしょう。ふった雨も、土からもらったものも、土に返すということは、なんとたいせつなことでしょう。
 土をそまつにしてきたわたしたちの社会は、いま、いっぽうで水をあばれさせ、いつぽうで水がたりなくて、こまっています。いまのこのしゅんかんも、こうずいはつくりだされています。森林をあれさせたり、山の手入れをしなかったり、水田をつぶしたり、道路をほそうしたり、下水で雨水をすてたりすることが、みんなこうずいにつながっているのです。そのぶんだけわたしたちの国土は、かわいていきます。そのぶんだけわたしたちは、水をうしなっていくのです。

「川は生きている」(富山和子)より抜粋編集

★花の絵を描き始める時(感)
 【1】花の絵を描き始める時、心は画用紙のように真白でありたいと思っている。同じ名前がついている花でもよく見ると、一つ一つが人間の顔が違うように、それぞれの表情を持っているからである。【2】また同じ花でも、朝と昼ではほんのわずか色が変わっている場合が多い。
 いくら見なれた花でも「この花はこういう形をしているんだ」などと先入観をもって描き始めると、花にソッポを向かれてしまうことがある。【3】花屋さんでは、開きすぎたものは売り物にならないようだけれど、開きすぎて雌蕊や雄蕊がとび出したものも、時にはハッとするくらい美しい表情を見せてくれることがある。【4】花びらが一、二枚落ちてしまったのも、虫が食っているのもいいなあと思う。咲き終わって花びらが茶色くなってしまったのも……、それは決して死んだ花ではなく一生懸命生きて、いま実を結び始めた最もすばらしい時期を迎えているのではないだろうか。
 【5】風で折れてぶらさがっているのもあれば、病気か何かでゆがんで咲いているのもある。日向(ひなた)で勢いよく咲いているのもあるが、根元の方では雨の日に土のはねかえりを受けて、うすぎたなくなったのもある。そういうのを見ていると、人間の社会と同じだなあと思ったりする。【6】頭の良いのもいれば、悪いのもいる。美しい人も、そうでない人も、病気の人も、健康な人も……、いろいろな人がいる。
 しかし、私自身、「あいつは、ああいうやつなんだ」とほんのわずかしか知らないうちに決めつけてしまうことが、なんと多いのだろう。【7】花の色が一日にして変化するのだから、まして心を持っている人を見るとき、自分のわずかな秤で決めつけてしまうのなんて全く間違っていると思う。
 いま私の前には、みごとな菊の大輪(たいりん)が咲いている。【8】菊は比較的長い期間咲いている花だけれど、それでも人にその花をほめられている時期はほんとうにわずかである。【9】花の下にある葉の一つ一つを、さらにその下にある土の中の根の美しさを、花びらの中に描けるようになりたいと思っている。【0】
(『風の旅』星野富弘(とみひろ)著)