長文集  7月1週  ○「ロシア語は取っ付きにくい  ni2-07-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/06/14 17:59:14
 【1】「ロシア語は取っ付きにくい、難し
そう、つい敬遠してしまう」
 そういう人たちが一番にあげる理由が例の
ロシア文字。【2】英語、フランス語、ドイ
ツ語など圧倒的多数のヨーロッパ諸語が採用
しているラテン文字、いわゆるローマ字では
なく、同じギリシャ文字をお手本につくられ
たものの、なじみのない形状のも混じったキ
リール文字である。【3】西ローマ教会(カ
トリック)圏に組み込まれた地域がラテン文
字を採用したのに対し、東ローマ教会(正 
教)圏に入った国々(ロシア、ブルガリアや
セルビアなど)はキリール文字を使う。
 それにしても、ロシア語の場合、その数わ
ずか三十三。【4】大文字小文字両方あわせ
ても、たかだか六十三である。ひらがな、カ
タカナ五十字ずつに加えて、三千字前後の漢
字を書けて、五千字以上の漢字を読めること
になっている日本人が、怖じ気付き、覚える
のを億劫がるような数ではない。【5】その
気になりさえすれば一時間で覚えられる量だ
ろう。
 それを思えば、むしろ同情と敬服に値する
のは、日本語を学ぶ非漢字圏の外国人ではな
いだろうか。
(中略)
 【6】表音文字だけの英語やロシア語のテ
キスト、あるいは漢字のみの中国語テキスト
と違って、日本語テキストは基本的には意味
の中心を成す語根に当たる部分が漢字で、意
味と意味の関係を表す部分がかなで表される
ため、一瞬にして文章全体を目で捉えること
が可能なのだ。
 【7】アメリカ生まれの速読術なんて表音
文字対応だから、ほとんど日本語には役に立
たない。むしろ日本語のかな漢字混合文それ
自体が実にみごとに速読に適していたのであ
る。
 【8】すっかりこの発見に有頂天になった
私は、様々な種類の文章の、日本語版とロシ
ア語版を時間を計りながら黙読してみた。【
9】会議の同時通訳という仕事は、先週の前
半は遺伝子工学のセミナー、∵後半は歴史学
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者のシンポジウム、今日は大統領の釈明演 
説、明日からは環境会議、という具合に日々
くるくる顧客とテーマが変転していく。【0
】そのたびに一テーマあたり一〜三冊の電話
帳に匹敵する資料と格闘し、その専門分野の
入門書を事前に読んでおくものだ。だから、
千差万別さまざまな分野のテキストに日ロ両
語で接するのは日常茶飯なのだが、それを実
験対象にしたのであ る。それに、日本語の
小説とそのロシア語訳、ロシア語の小説とそ
の日本語訳をいくつか時間を計りながら読み
比べてみた。
 そして、活字にして断言できるほどの自信
満々な確信を持つにいたった。黙読する限り
、日本語の方が圧倒的に早く読める。私の場
合平均七・六倍強の早さで、私の母語が日本
語であることを差し引いても、これは大変な
差だ。
 子どもの頃から文字習得に費やした時間と
エネルギーが、こんな形で報われているとは
。世の中の帳尻って、不思議と合うようにな
っているんですね。いや、これからは収支を
黒字に転ずるために、どんどん読まなくては
損てことだろう、と意地汚く本を貪る今日こ
の頃である。

(米原万里 著/日本エッセイストクラブ 
編「漢字かな混じり文は日本の宝」(『九九
年ベスト・エッセイ集「木炭日和」』
(文藝春秋)所収))