ニシキギ2 の山 7 月 2 週 (5)
★意志は、具体的には(感)   池新  
 【1】意志は、具体的には、我慢をすることから強くなるのではないかと思います。大きなことを我慢するということは、なかなかできませんが、小さな我慢ならば、わりとたやすくできるでしょう。
 【2】昔の人は、たとえば、武者修行、滝に打たれるということをしました。あれは一つの大きな我慢だったと思います。私たちは、そんなことは、とても続かないと思います。
 【3】小さな我慢をし続けることによって、だんだんと大きな我慢ができるようになります。
 そして、それによって、私たちは、意志が強められると思うのです。【4】小さな我慢ができないものが、大きな我慢ができるはずがないのです。
 人間の人間らしさといいましたが、たとえば、わかっているけれどもできない、悪いことだと知っていてもやってしまう、ということについては、こういう言い方ができるでしょう。
 【5】「私たちが、やりたいと思うこと、善(いいこと)はできない。そして、やりたくないと思う悪はしてしまう」
 この、人間としての嘆きは、私たちすべての人の心からの叫び、嘆きなのです。
 【6】また、私たちが、後悔する、しまったなと思うということは、自由意志がある証拠だと思います。
 私たち人間は、自動販売機のようなものではないのです。【7】百円を入れたら、ポンとジュースが出てくるというようなものではないのです。やってもいいし、やらなくてもいい。でも、悔む、後悔する――ということがあるのはなぜでしょうか。【8】私たちに自由意志があるからなのです。私たちの行ないが不可抗力的なことであるなら、私たちは、後悔し、悩むということはないと思います。
 【9】たとえば、スイッチを入れれば電灯はつくのです。「ついてみたくない感じ」そんなものはないのです。スイッチを入れればつくのです。その電灯は後悔もしないでしょう。善もしないでしょう∵が、悪も行ないません。
 【0】私たち人間は、すばらしい自由意志を持っていますが、それはある意味で大変恐ろしいことです。それは善をしないで、悪を行ってしまう可能性が常にあるからです。
 私たちが一日の終わりに、あれはしまった、とか、嫌だったな、とか、思うことの多くは、やることができたのに、やれなかった、言わないでもすんだのに一言多すぎた、あるいは、言わなくてもいいことを言ってしまった、ということです。不可抗力ではなく、私たちにはできたのです。しかし、やらなかった、ということなのです。
 『私たちは、「それは不可能だ」とか、「できない」とか、「そんなことは無理です」というようなことを、よく言うが、その原因は何か。それはそのことを心の底から望まないからだ』
――これは、ある人の有名な言葉です。
 確かに、私たちは心の底から石にかじりついてもやりたいと思うことがあります。逆にどんなことがあっても、これはやらない、とほんとうに心の底から望んだ時には、やってはいけないことは、やらないですむ、と思うのです。問題は、心の底から望んでいるかどうかでしょう。ほんとうに心の豊かな、良い人になりたいと望んでいる人、すなわち、強い意志を持っている人は、それができると思います。

(浜尾 実の文による)