1. 【1】書物はいつの世にもゆっくりと読むべきものだと
私は思う。こんなにも本がたくさん出ているのに、と言うかもしれない。しかし、同じようにレコードだってたくさん出ている。【2】
展覧会もいたる所で開かれている。だからといって、音楽を
能率的に
聴き、絵画を急いで見る人はいまい。それなのに、こと本に関する
限り速読を目指すのはどういうわけなのだろう。【3】おそらく、書物というものが
鑑賞するというより
知識の伝達の
媒体と思われているせいであろう。
確かに本とレコードでは
違う。本の方がはるかに多目的である。【4】
鑑賞するというよりは、
情報を得たいために読まれる本の方がずっと多いだろう。そんなことは十分
承知の上で、なおかつ、
私は
遅読を
勧める。
2. 【5】速く読むということは一見
能率的のように思えるが、結局は
損をすることになる。
私も必要に
迫られて急いで読まざるを得ないことがある。ところが、急いで読んだ本に
限って、あとに何も残っていない。【6】そこで、もう一度読み直さなければならないことになる。そして、改めてゆっくり読み直してみると、最初に読み飛ばしたそんな読書が何の意味も持っていないどころか、まったく読み
違えていたことに
驚くのである。【7】こうなると、速読するよりは読まない方がましである。なぜなら、
誤解は無知よりも有害だからである。
3. そんなことを言っても、必要に
迫られて読まなければならない場合が多いではないか、と言うかもしれない。【8】しかし、必要に
迫られたらなおのことゆっくり読むべきである。必要に
迫られる以上あくまで
誤解は
許されないからだ。【9】たとえ明日までにどうしてもこの一
冊を読み上げねばならないという必要に
迫られた場合でも、ゆっくりと読み、読めるところまで読んで本を
閉じたらいい。その方が、
いい加減に
斜め読みをするよりは、はるかに得るところが大きい。
4. 【0】
遅読を
勧めるもう一つの理由は、いくら速く読んでみたところ∵でたかが知れているということである。どんなに速読の
技術を身につけたところで、二倍のスピードで読めるものではない。
仮に二倍の速度で読めたとしても、そうした速読から読み取ることができるのは、ゆっくり読んだ時の二分の一にすぎない。つまり、半分しか読み取らないのだから二倍の速さで読めるわけだ。しかも、その半分が前に
述べたように
誤読に
陥りやすいとすれば、速読というものがいかに無意味であるかに気づくであろう。
実際、本というものはそんなにたくさん読めるものではない。わずかな本しか読めないからこそ、何を読むかその
選択が大切になる。つまり、ゆっくり読むことは、それだけ良書を選ばせる
効果を持つのである。
5. わずかな本しか読めなかったなら、それだけ
視野はせまくなり、とても
現代に追いついて行けないと言うかもしれない。
確かにそういった不安が
現代人を速読へと
駆り立てている。だが、そんなことは決してない。十
冊読む人よりも五
冊読む人の方が
視野が広く、
立派な
見識を身につけているというようなことはざらにあるのだ。読書の
価値は何
冊読んだかで決まるのではなく、どんな本をどのように読んだかで決まるのである。