1. 【1】
明快な文章を、というのは、ただわかりやすければいいというのとはすこし
違う。戦後ずっと、わかりやすく書けと言われてきたけれども、そのわりに文章は平明にはならなかった。字づらはやさしくても、ふにゃふにゃして、とらえどころのないような文章がふえた。【2】
明快な文章は、
骨を持っていなくてはならない。
筋道が通っている必要がある。つまり、
論理的であって、しかもわかりやすい、それが
明快な文章ということになる。
2. 【3】この
論理的というのが問題である。どこかに客観的な
論理なるものがあって、それに
則ってものを書き、言うことのように考えている人がすくなくない。それなら、イギリス人の
論理もエジプト人の
論理も、日本人と同じでなくてはならない。【4】たしかに、ごく
基本的な次元では世界中が同一原理に
支配されている。しかし、
論理にはもっと人間的な
論理もある。言葉で
表現される
論理は、一プラス一が二になるような数式に
比べてはるかに
柔らかい論理で、
柔らかい論理は、民族の文化や言語によって
微妙に
違うのがむしろ
正常である。【5】だからこそ、完全な
翻訳ということがむずかしい。数学の式なら
翻訳を要しない。
3. 一方、日本語の文章がわけのわからぬものになりやすいのも事実である。【6】
論理的にできるものなら
論理的にしたい。それかと言って
筋道さえ通っていればいい、
明快ならよろしい、という文章観で
割り切ってもらってもわびしい。
4. 【7】川の水が
濁っている。底が見えない。この
濁りをすっかり取ってしまえ、というので清水にしてしまったらどうか。
透明にはなるだろうが、清水に魚すまず、川かならずしも水の清さをもって
尊しとせず、である。【8】文章も同じこと。あまりごたごたしていれば、一度
蒸留水のようにすっきりしたものにしてみたいと思うのは
人情であろう。方向としては
結構だが、それがそのとおり
実現し∵たら、ことである。「
過ぎたるはなお
及ばざるがごとし。」である。
5. 【9】古来、われわれの言語
表現は、
含みを重んじてきた。「
言い尽くして何があろう。」と言った
芭蕉も、魚のすめなくなるような清水ではしかたがないと考えたのである。【0】古くからあいまいを美学としていた。にもかかわらず、われわれはいま
芭蕉の考えを
捨てて、
表現を
透明にすることに関心を向けている。おそらく、これは、それほどむずかしいことではなかろう。たしかに、よけいなものを取ってしまって、ぎりぎり言いたいことだけ言えば、いわゆる名文にはなる。だが、文章をそんなふうに
裸にしてはみっともない。
適当に着物をきせている方がおもしろいのである。
6.(
外山滋比古「日本の文章」より)