長文 7.1週
1. 【1】「ロシア語は取っ付きにくい、
難しそう、つい
敬遠してしまう」
2. そういう人たちが一番にあげる理由が例のロシア文字。【2】英語、フランス語、ドイツ語など
圧倒的多数のヨーロッパ
諸語が
採用しているラテン文字、いわゆるローマ字ではなく、同じギリシャ文字をお手本につくられたものの、なじみのない
形状のも
混じったキリール文字である。【3】西ローマ教会(カトリック)
圏に
組み込まれた
地域がラテン文字を
採用したのに対し、東ローマ教会(正教)
圏に入った国々(ロシア、ブルガリアやセルビアなど)はキリール文字を使う。
3. それにしても、ロシア語の場合、その数わずか三十三。【4】大文字小文字両方あわせても、たかだか六十三である。ひらがな、カタカナ五十字ずつに加えて、三千字前後の漢字を書けて、五千字以上の漢字を読めることになっている日本人が、
怖じ気付き、覚えるのを
億劫がるような数ではない。【5】その気になりさえすれば一時間で覚えられる量だろう。
4. それを思えば、むしろ
同情と
敬服に
値するのは、日本語を学ぶ
非漢字
圏の外国人ではないだろうか。
5.(
中略)
6. 【6】表音文字だけの英語やロシア語のテキスト、あるいは漢字のみの中国語テキストと
違って、日本語テキストは
基本的には意味の中心を成す語根に当たる部分が漢字で、意味と意味の関係を表す部分がかなで表されるため、
一瞬にして文章全体を目で
捉えることが
可能なのだ。
7. 【7】アメリカ生まれの速読
術なんて表音文字
対応だから、ほとんど日本語には役に立たない。むしろ日本語のかな漢字
混合文それ自体が実にみごとに速読に
適していたのである。
8. 【8】すっかりこの発見に
有頂天になった
私は、様々な種類の文章の、日本語
版とロシア語
版を時間を計りながら
黙読してみた。【9】会議の同時
通訳という仕事は、先週の前半は
遺伝子工学のセミナー、∵後半は歴史学者のシンポジウム、今日は
大統領の
釈明演説、明日からは
環境会議、という具合に日々くるくる
顧客とテーマが変転していく。【0】そのたびに一テーマあたり一〜三
冊の電話帳に
匹敵する
資料と
格闘し、その
専門分野の入門書を事前に読んでおくものだ。だから、千差万別さまざまな分野のテキストに日ロ両語で
接するのは
日常茶飯なのだが、それを実験対象にしたのである。それに、日本語の小説とそのロシア語
訳、ロシア語の小説とその日本語
訳をいくつか時間を計りながら
読み比べてみた。
9. そして、活字にして
断言できるほどの自信満々な
確信を持つにいたった。
黙読する
限り、日本語の方が
圧倒的に早く読める。
私の場合
平均七・六倍強の早さで、
私の母語が日本語であることを差し引いても、これは大変な差だ。
10. 子どもの
頃から文字習得に費やした時間とエネルギーが、こんな形で
報われているとは。世の中の
帳尻って、不思議と合うようになっているんですね。いや、これからは
収支を黒字に転ずるために、どんどん読まなくては
損てことだろう、と
意地汚く本を
貪る今日
この頃である。
11.(原万里
著/日本エッセイストクラブ
編「漢字かな
混じり文は日本の
宝」(『九九年ベスト・エッセイ集「木炭日和」』
12.(
文藝春秋)
所収))
長文 7.2週
1. 【1】
意志は、具体的には、
我慢をすることから強くなるのではないかと思います。大きなことを
我慢するということは、なかなかできませんが、小さな
我慢ならば、わりとたやすくできるでしょう。
2. 【2】昔の人は、たとえば、
武者修行、
滝に打たれるということをしました。あれは一つの大きな
我慢だったと思います。
私たちは、そんなことは、とても続かないと思います。
3. 【3】小さな
我慢をし続けることによって、だんだんと大きな
我慢ができるようになります。
4. そして、それによって、
私たちは、
意志が強められると思うのです。【4】小さな
我慢ができないものが、大きな
我慢ができるはずがないのです。
5. 人間の人間らしさといいましたが、たとえば、わかっているけれどもできない、悪いことだと知っていてもやってしまう、ということについては、こういう言い方ができるでしょう。
6. 【5】「
私たちが、やりたいと思うこと、
善(いいこと)はできない。そして、やりたくないと思う悪はしてしまう」
7. この、人間としての
嘆きは、
私たちすべての人の心からの
叫び、
嘆きなのです。
8. 【6】また、
私たちが、
後悔する、しまったなと思うということは、自由
意志がある
証拠だと思います。
9.
私たち人間は、自動
販売機のようなものではないのです。【7】百円を入れたら、ポンとジュースが出てくるというようなものではないのです。やってもいいし、やらなくてもいい。でも、
悔む、
後悔する――ということがあるのはなぜでしょうか。【8】
私たちに自由
意志があるからなのです。
私たちの行ないが
不可抗力的なことであるなら、
私たちは、
後悔し、
悩むということはないと思います。
10. 【9】たとえば、スイッチを入れれば電灯はつくのです。「ついてみたくない感じ」そんなものはないのです。スイッチを入れればつくのです。その電灯は
後悔もしないでしょう。
善もしないでしょう∵が、悪も行ないません。
11. 【0】
私たち人間は、すばらしい自由
意志を持っていますが、それはある意味で大変
恐ろしいことです。それは
善をしないで、悪を行ってしまう
可能性が
常にあるからです。
12.
私たちが一日の終わりに、あれはしまった、とか、
嫌だったな、とか、思うことの多くは、やることができたのに、やれなかった、言わないでもすんだのに一言多すぎた、あるいは、言わなくてもいいことを言ってしまった、ということです。
不可抗力ではなく、
私たちにはできたのです。しかし、やらなかった、ということなのです。
13. 『
私たちは、「それは
不可能だ」とか、「できない」とか、「そんなことは無理です」というようなことを、よく言うが、その
原因は何か。それはそのことを心の底から望まないからだ』
14.――これは、ある人の有名な言葉です。
15.
確かに、
私たちは心の底から石にかじりついてもやりたいと思うことがあります。
逆にどんなことがあっても、これはやらない、とほんとうに心の底から望んだ時には、やってはいけないことは、やらないですむ、と思うのです。問題は、心の底から望んでいるかどうかでしょう。ほんとうに心の
豊かな、良い人になりたいと望んでいる人、すなわち、強い
意志を持っている人は、それができると思います。
16.(
浜尾 実の文による)
長文 7.3週
1. 【1】
我が身をつねって人の
痛さを知れ
2. 自分の苦しさ
痛さを思い出して、人の苦しみや
痛みを思いやれ、ということわざです。自分自身のこととして人のことを考えよということです。古くから言い伝えられてきたことわざのひとつです。
3.【2】「同病相
憐れむ、
同憂相救う」(『
呉越春秋』)
4. 右の、特に
上の句は、聞いたことがあるでしょう。
彼も病気、自分も病気、それなら
苦痛はそのまま同じだから、そのつらさはよくわかります。【3】「つらいだろうな。自分もこんなにつらいもの」と。この言葉全体は、同じ
境遇にある者同士は、
苦痛や気持ちがよくわかり、いたわりあい助け合うことができるということです。
5. 【4】表題のことわざは、意味がちがう。
痛いのは相手の方で、自分はなんでもない。人間はそういう時には相手の
痛みになかなか
同情が持てないものです。そこで、自分も同じように
我が身をつねってみたら、というのです。【5】「
痛かったでしょう。だからあの人の
痛いこともわかるでしょう」と言っているのです。
6.
想像力の弱さが
同情心の足りなさになるのではないでしょうか。少し話が
飛躍しますが、日本人は金の力にまかせて、
発展途上国の
資源を買いあさり、原住民を苦しめていると言われています。【6】日本人自身は、さしあたって
痛まないし、どうして相手国の
痛みを
想像できるかというわけです。日本人が
我が身をつねって、
途上国の
痛さを知ることは、とてもむずかしそうです。なぜ、日本人はこう
想像力がにぶくなってしまったのでしょうか。
7. 【7】
若い人が電車の中で
腰かけていました。そこへ赤ちゃんをおんぶした母親が、重そうな荷物を
抱えて乗ってきました。青年には席をつめて、
腰かけやすくしてあげる気配もありません。【8】この青年の心の声が聞こえてきました。「おれは満席の時は
腰かけたいと思ったことはない。また立っていて
苦痛だと思ったこともない。この母親もおれと同じ気持ちにちがいないから、心をつかうことはない∵よ」と言っているようでした。【9】わが身をつねらなくても、相手の
苦痛がわかる
想像力と実行力がよみがえってほしいものだと先日、思ったことでした。【0】
8.出典・
稲垣友美『ことわざに学ぶ生き方(東洋
編)』
長文 7.4週
1. 【1】アメリカ人が日本にやって来ると、日本人のあいさつはうるさくて仕方ない、と思うようだ。例えば思いがけないところで知っている人とバッタリ会う。「どちらにお出かけですか」と
尋ねる。アメリカ人はうるさいと思う。【2】「どこに行こうと
俺の勝手だ。
俺の
秘密を
探ろうとしているのだろうか」。日本人は何もそういうつもりではない。「こんなところでお目にかかるとは思いがけないことだ。あなたの身の上に何か大変なことがおこったのではないだろうか。【3】もしそうだったら、
一緒に心配してあげましょう」とこういう気持ちで聞くわけである。
2. 「先日は失礼しました」。これもよく
私たちが口にするあいさつである。アメリカ人はびっくりする。【4】「
確かに先日この男に会った。しかしそのときにこの男は
俺に何にも悪いことはしていない。するとこの男は、
俺の知らない間にとんだことをしてくれたのではないか」と心配になるという。日本人の気持ちはそうではない。【5】「先日あなたにお目にかかった。
私としては失礼なことをした覚えはないけど、
私は不注意な人間である。もしかしたら失礼なことをしたかもしれない。もしそうだったらおわびする」。こういうことを言っている。【6】そういう言葉でも分かるように、
私たちは
謝ることが
非常に好きである。
感謝することよりも、
謝ることを
尊ぶ。
3. みなさんがバスに乗っている。おばあさんが乗ってきた。
誰かが席をゆずる。【7】おばあさんは何というか。「ありがとうございます」とお礼を言う人もいるが、「すみませんねえ」と
謝る人の方が多いだろう。おばあさんの気持ちはこうである。【8】「
私がもし乗ってこなければ、(あなたは
座っていられた。
私が乗ってきたばかりにあなたは立たなくてはならない。)すみません」とこういう
論理で、日本人は
謝ることを
非常に喜ぶ。
4. 【9】アメリカで
暮らしていた次男の話だが、次男の家にいるお手伝∵いさんが台所で働いていて、手からコップが
滑り落ち割れてしまった。日本人ならこういうとき「
私がコップを
割りました」と言う。【0】でもアメリカの人はけっしてこういうことは言わないそうだ。「グラスが
割れたよ」と言ってきた。「お前が
割ったんじゃないか、なぜ自分が
割ったと言わないのか」と言ったら、ビックリしていたという。英語で「
私がコップを
割った」というとどういう意味になるか。
壁か何かにコップをわざとぶつけて
割った、という意味になってしまうようだ。コップがあやまって手から
滑って
割れたときはコップが
割れたんであって、
私が
割ったんじゃない、と
頑張るそうだ。
理屈を言えば
確かにそうである。なぜ日本人は、手から
滑り落ちたコップに対して「
私が
割った」と言うか。これは日本人の
責任感だと思う。つまり日本人はこう考えるのである。自分の手からコップが
滑り落ちて
割れたのは、自分が
油断していたからだ。自分がしっかりしていたならばこのコップは
割れなかった。自分がうっかりしていたからコップが
割れた。このことの
責任は自分にある。だから「コップを
割りました」という言い方になるのである。こういう考え方は日本人の
美徳であると
私は考える。
5.(金田一
春彦『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川oneテーマ二十一)による)
長文 8.1週
1. 【1】お世辞とか外交辞令というのはいやなものです。心にもないことを言われるのは気持ちが悪いという人もあります。しかし、出会いがしらに、
2.「お顔の色が悪いようですが、どうかなさいましたか」
3.などという親切を受けてはたまりません。【2】たとえ、すこし顔色がさえないとは思っても、
4.「お元気そうですね、みなさんお変わりありませんか」
5.と言われた方がよほどうれしい。ウソを言われて喜んでいる。【3】それでは
深刻な人生は送ることができないとしかられるかもしれませんが、こんなところで
深刻さを味わわされなくて
結構だというのがふつうの人の感想です。
6. 【4】本当のことを言うと当たりさわりがあって、聞く人の心に
傷をつける心配がある。お世辞だとかあいさつのことばは、ことばを
真綿にくるんで、
痛みを
与えないようにするのがやさしさになるのだということを発見したときに生まれた生活の
知恵だったのです。
7. 【5】このごろの
若い人は、
8. 「ウソも方便」
9.を
認めるという
調査があります。【6】
若いのに世間なれしていやだね、と言う人がいますが、ことばに
傷ついた苦い
経験が重なって、人を
傷つける真実よりも、
傷つけないウソの方がよろしいということに気がついたのだとしたら、これはたいへんな感覚です。
10. 【7】このごろの
若いものはことばを知らなくて……などと言っている年ぱいの人が案外、「ウソも方便」ということを知らないで、本当のこと、あまりにも本当のことを言って人をくさらせるのは皮肉です。【8】年ぱいの人の方が「ウソも方便」を
認める人がすくなくなっているのです。
11. われわれはどうも正直教育をうけすぎたようです。いつも本当のことを言わなくてはいけないと教えられてきました。【9】それでときどき正直の上になにかつくようになってしまいます。
12. 正直な話にはしばしばとげがあります。正直の
美徳を行うのに気をとられて、そのとげが相手の心をつきさすことを
忘れがちです。【0】同じ正直でも、言い方によってとげが出たり出なかったりします。∵
13. いい年をした男が青年のような
服装をしてあらわれたとします。
14.「これはまたずいぶん
派手ですね」
15.と言えばかどが立ちます。
派手であるのはまちがいないとして、
派手だと言ってしまえば、
非難していることになります。聞いた方ではうらみに思うでしょう。うらみに思ったことばはめったに
忘れないものです。同じことを言うにしても、
16.「これはまたずいぶん
若々しいですね。さっそうとしていらっしゃる」
17.とすれば、言われた方では内心いい気になるでしょう。
派手ではないかとちょっぴり不安に思っているのを、ほめてくれた、あいつはなかなか気のきくやつだ、となるでしょう。
18. 毎日朝から
晩まで使っていることばです。いくら気をつけても、どうしても、とげのあることばが口から出てしまいます。本人はそのつもりでなくても、相手が勝手に
傷ついてうらむということもあります。それをいちいち
後悔していては生きてはいかれなくなります。しかし、正直なことばには時にはとげがあるのだということを心におけば、ことばで人を
傷つけることはずっとすくなくなるにちがいありません。
長文 8.2週
1. 【1】
知恵がつくられる場所である人間の
脳は、また、コンピューターなどと
違って、物事を
幅をもってみつめ、考えることができるようにできている。つまり
寛容な思考
態度をとることが人間にはできるのだ。
2. 【2】人間の
脳にあるこの
寛容性は、ものを考える上でも
発揮される。その一つは連想である。文章、特に詩とか
格言のようなものを読む時、その中の言葉から連想される
異なった言葉を、思いつくまま列記しておくとする。【3】その列記された言葉のいくつかを組み合わせて新しい文章をつくってみる。こうしたあとで、もう一度、元の文章を読み直すと、意味の
理解が深みと
新鮮さをもつものだ。連想は、言葉の意味と感じに
幅をもたせてみるという
脳の
寛容性から生まれる。
3. 【4】このように、人がものを考える時は、
幅をもった考え方をするものであり、またそれでこそ、思考は
発展性をもって深まっていくのだ。
4. 【5】
私は、人生には、深くものを考えなければならない時期があり、その深い思考力をつちかうことも勉強の目的の一つだ、と前にいった。これはいいかえれば、勉強してこそつくられる「
知恵の深さ」である。【6】勉強しない人の
脳は、人間特有の
幅をもった思考のレッスンをしないから深くものを考える力、つまり「
知恵の深さ」が身につかないのだ。
5. 【7】
知恵には「広さ」があり、「深さ」があり、また「強さ」というものがある。「
知恵の強さ」とは、すなわち
決断力である。
6. 【8】
私たちが人生で当面する問題には、クイズやテストのようにあらかじめ答えが用意されているものはない。【9】クイズの問題は
解答を見つけるだけの問題だが、人生の問題は、相当の時間をかけなければ問題そのものの真意もつかめないし、とうてい真の
解決には
至らない
難問ばかりである。【0】だから、長い年月をかけて、すべ∵てを知らなければ何の行動も起こせないという
姿勢にだけ
固執していては、この世は
渡っていけない。
7. 医者が、
現在の医学の
水準ではある病気について数パーセントしか
解明されていなくても、目の前で苦しんでいる
患者に何らかの
診断をくださなければならない時があるように、それがいかに
未解決の
難問であろうと、どこかで
決断しなければならないのである。
飛躍しなければならないのである。
8. 人間の
脳は、不連続のものから連続したものを
導き出す寛容性をもっている、と
私はいった。いいかえれば、実は
飛躍であることを
飛躍でないととらえられるのが、人間の
脳である。だから、人間は
飛躍ができる。コンピューターやロボットには、それができない。
9.
決断できる力、どこかでエイッと
飛躍できる力、
知恵のそういう「強さ」も、人生とは
直接かかわらないように見える勉強を積み上げていく中で、身についていくものなのだ。
10.
知恵には、以上
私が
述べたほかにも、いくつかの側面があるはずだ。いずれにせよ
私は、「人はなぜ学ばなければならないのか」の答えがあるとすれば、「それは
知恵を身につけるためだ」と、答えるほかないのである。
11.(広中
平祐氏の文章による)
長文 8.3週
1. 【1】書物はいつの世にもゆっくりと読むべきものだと
私は思う。こんなにも本がたくさん出ているのに、と言うかもしれない。しかし、同じようにレコードだってたくさん出ている。【2】
展覧会もいたる所で開かれている。だからといって、音楽を
能率的に
聴き、絵画を急いで見る人はいまい。それなのに、こと本に関する
限り速読を目指すのはどういうわけなのだろう。【3】おそらく、書物というものが
鑑賞するというより
知識の伝達の
媒体と思われているせいであろう。
確かに本とレコードでは
違う。本の方がはるかに多目的である。【4】
鑑賞するというよりは、
情報を得たいために読まれる本の方がずっと多いだろう。そんなことは十分
承知の上で、なおかつ、
私は
遅読を
勧める。
2. 【5】速く読むということは一見
能率的のように思えるが、結局は
損をすることになる。
私も必要に
迫られて急いで読まざるを得ないことがある。ところが、急いで読んだ本に
限って、あとに何も残っていない。【6】そこで、もう一度読み直さなければならないことになる。そして、改めてゆっくり読み直してみると、最初に読み飛ばしたそんな読書が何の意味も持っていないどころか、まったく読み
違えていたことに
驚くのである。【7】こうなると、速読するよりは読まない方がましである。なぜなら、
誤解は無知よりも有害だからである。
3. そんなことを言っても、必要に
迫られて読まなければならない場合が多いではないか、と言うかもしれない。【8】しかし、必要に
迫られたらなおのことゆっくり読むべきである。必要に
迫られる以上あくまで
誤解は
許されないからだ。【9】たとえ明日までにどうしてもこの一
冊を読み上げねばならないという必要に
迫られた場合でも、ゆっくりと読み、読めるところまで読んで本を
閉じたらいい。その方が、
いい加減に
斜め読みをするよりは、はるかに得るところが大きい。
4. 【0】
遅読を
勧めるもう一つの理由は、いくら速く読んでみたところ∵でたかが知れているということである。どんなに速読の
技術を身につけたところで、二倍のスピードで読めるものではない。
仮に二倍の速度で読めたとしても、そうした速読から読み取ることができるのは、ゆっくり読んだ時の二分の一にすぎない。つまり、半分しか読み取らないのだから二倍の速さで読めるわけだ。しかも、その半分が前に
述べたように
誤読に
陥りやすいとすれば、速読というものがいかに無意味であるかに気づくであろう。
実際、本というものはそんなにたくさん読めるものではない。わずかな本しか読めないからこそ、何を読むかその
選択が大切になる。つまり、ゆっくり読むことは、それだけ良書を選ばせる
効果を持つのである。
5. わずかな本しか読めなかったなら、それだけ
視野はせまくなり、とても
現代に追いついて行けないと言うかもしれない。
確かにそういった不安が
現代人を速読へと
駆り立てている。だが、そんなことは決してない。十
冊読む人よりも五
冊読む人の方が
視野が広く、
立派な
見識を身につけているというようなことはざらにあるのだ。読書の
価値は何
冊読んだかで決まるのではなく、どんな本をどのように読んだかで決まるのである。
長文 8.4週
1. 【1】そこには、人と犬とが関係を結ぶようになった大昔の
情景が
綿々と生きている。犬は人間にはない
能力、つまり
暗闇でも目がきき、その
鋭敏な
嗅覚と
聴覚で
危険が
迫っていることをいち早く察知できたことから、夜、人間が
寝静まったあとの
警戒の役目をしたり、
狩猟のなかで人間の役に立ってきた。【2】犬が自分たちの生活の役に立つことを知った人間は、食べ物を
与え、かわいがって育て、犬たちも人に
従順さをもって
応えてきたのである。
2. それにひきくらべて、いまの日本の犬たちは何を求められているのだろうか。【3】もちろん、
盲導犬や
麻薬探知犬などの社会に有用な犬もいるし、
狩猟犬や番犬などもいるだろう。だが、
概して人間に役に立つ犬の仕事は少なくなっている。その結果、犬と人間の関係も
変質してきてしまっている。【4】
現在のハンターと
狩猟犬の関係は、昔の
猟師であるマタギと犬の関係とはまったくちがう。マタギは自分の犬を
捨てたりしないが、ハンティングをする人のなかには、
狩猟シーズンの終わりに
使い捨てにする人がままいるのだ。
3. 【5】結局、大多数の人は
愛玩の対象として犬を
飼っているのだろうが、そうだとしたら、人の
愛玩に
応えることだけが、その役目となったいまの犬たちは、はたして幸せなのだろうか。
4. 【6】
私には、この関係はどうも人→犬の一方通行という気がしてならない。それに、
愛玩というのはえてして、対象が変わりやすいし、
飽きがくることもあるし、自分の都合で一方的にやめてしまうこともある。【7】これが毎年、おびただしい数の
捨て犬が生まれる
一因といったらいいすぎだろうか。ほんとうに自分の生活に必要だったら、犬を
捨てることは、自分の手足をもぐのと同じことである。【8】犬が人間の役に立ちたいと思っている動物だとしたら、いまの人との
暮らしのなかにその対象がないことは、ある意味で悲しいことではないだろうか。
5. ほんとうに人の役に立っている犬たちは、どれも生き生きしてい∵る。【9】
私の
飼っているラブラドール・レトリーバーのベリーという犬は、
麻薬犬にするため、成田空港の
税関にあずけた。しばしの別れはつらかったけれど、ときどき見にいってみると、
立派に
職責を果たし、
緊張のなかで生き生きとしているのが手にとるようにわかる。【0】犬は何かの目的に向かって
一生懸命、働く動物である。人間の役に立つことで喜びを感じ、われわれもだからこそ
彼らを愛する。そのことを考えれば、もっと犬を有用なことに使ってもいいのではないか。
6.
麻薬探知犬、
盲導犬、
聴導犬、
介助犬、あるいは老人ホームを
訪問するボランティア犬、
阪神大震災で
活躍した
災害救助犬、
精神を病んだ人たちを
癒すセラピー・ドッグ、そういう犬たちの
役割をもっと広げていってもいいと思う。また、アウトドアで遊ぶ友として、
狩猟犬やそり引き犬、あるいはフリスビー犬だっていいが、
彼らの
可能性をもっと広げてやってほしい。ただねこかわいがりして、
愛情過多の
状態にとどめておくのは悲しい。犬にとっても、人間にとってもよりよい関係というものがきっとあるはずだ。
7.(
富澤勝『日本の犬は幸せか』(草思社)による)
長文 9.1週
1. 【1】
明快な文章を、というのは、ただわかりやすければいいというのとはすこし
違う。戦後ずっと、わかりやすく書けと言われてきたけれども、そのわりに文章は平明にはならなかった。字づらはやさしくても、ふにゃふにゃして、とらえどころのないような文章がふえた。【2】
明快な文章は、
骨を持っていなくてはならない。
筋道が通っている必要がある。つまり、
論理的であって、しかもわかりやすい、それが
明快な文章ということになる。
2. 【3】この
論理的というのが問題である。どこかに客観的な
論理なるものがあって、それに
則ってものを書き、言うことのように考えている人がすくなくない。それなら、イギリス人の
論理もエジプト人の
論理も、日本人と同じでなくてはならない。【4】たしかに、ごく
基本的な次元では世界中が同一原理に
支配されている。しかし、
論理にはもっと人間的な
論理もある。言葉で
表現される
論理は、一プラス一が二になるような数式に
比べてはるかに
柔らかい論理で、
柔らかい論理は、民族の文化や言語によって
微妙に
違うのがむしろ
正常である。【5】だからこそ、完全な
翻訳ということがむずかしい。数学の式なら
翻訳を要しない。
3. 一方、日本語の文章がわけのわからぬものになりやすいのも事実である。【6】
論理的にできるものなら
論理的にしたい。それかと言って
筋道さえ通っていればいい、
明快ならよろしい、という文章観で
割り切ってもらってもわびしい。
4. 【7】川の水が
濁っている。底が見えない。この
濁りをすっかり取ってしまえ、というので清水にしてしまったらどうか。
透明にはなるだろうが、清水に魚すまず、川かならずしも水の清さをもって
尊しとせず、である。【8】文章も同じこと。あまりごたごたしていれば、一度
蒸留水のようにすっきりしたものにしてみたいと思うのは
人情であろう。方向としては
結構だが、それがそのとおり
実現し∵たら、ことである。「
過ぎたるはなお
及ばざるがごとし。」である。
5. 【9】古来、われわれの言語
表現は、
含みを重んじてきた。「
言い尽くして何があろう。」と言った
芭蕉も、魚のすめなくなるような清水ではしかたがないと考えたのである。【0】古くからあいまいを美学としていた。にもかかわらず、われわれはいま
芭蕉の考えを
捨てて、
表現を
透明にすることに関心を向けている。おそらく、これは、それほどむずかしいことではなかろう。たしかに、よけいなものを取ってしまって、ぎりぎり言いたいことだけ言えば、いわゆる名文にはなる。だが、文章をそんなふうに
裸にしてはみっともない。
適当に着物をきせている方がおもしろいのである。
6.(
外山滋比古「日本の文章」より)
長文 9.2週
1. 【1】このくり返しの
放映による
暗示の力はたいへん大きいものです。それは、いきなり心の深い部分に
侵入し、そこに
直接働きかけてきます。平たくいえば、
暗示効果をくり返しつづけることによって、その
製品のイメージをわたしたちに信じこませてしまいます。【2】そして、知らず知らずのうちに、買いたい気持ちをいだかせてしまうのです。この
映像の
影響力からのがれることはなかなかできません。
2. このからくりは、テレビのコマーシャルばかりでなく、あらゆるものにあてはまります。【3】わたしたちの持っている
習慣やくせというものは、すべてそうです。たとえばわたしたちは、朝起きて顔を
洗い、歯をみがくという
習慣を持っていますが、これは言葉によっていいつけられ、それを
反復練習するという動作によって、わたしたちの心の底に一つの形が焼きついてしまっているからです。【4】テレビの場合も同様で、われわれがテレビを見る
習慣を身につけてしまったことが、反対にコマーシャルに利用されているわけです。このようにわたしたちは、
精神的にも肉体的にも、ある事がらをくり返しおこなうと、それが
習慣化されるようにしくまれているのです。【5】そして、いったん身についた
習慣は「第二の
天性」というように、持って生まれた
性格のようになってしまいます。
3. したがってわたしたちは、どんな
習慣を身につけているかによって、その
生涯を大きく左右されていきます。【6】特にテレビのように
影響力の大きい場合は、どんな見方をしているかが大きな意味を持ってくることになります。【7】もとよりテレビはわたしたちの生活を
豊かにするための文明の利器として人間が作りだしたものですから、その
効果を
有効に生かせば、わたしたちの実生活にもおおいに役立つ点があるはずです。【8】見る人が自覚を持って自分の人生に役立てるように、必要なものだけを選んで見るような
習慣づくりをすれば、テレビはわたしたちに大きなめぐみを
与えてくれます。【9】ところが、テレビ番組をつくる側がいいかげんにつくった∵り、見る人が自覚を欠いたりしていると、大きな
損失を
招くことになります。ひいては、人間のつくりだしたものを自分たちで
支配することができず、つくりだした物によって
逆に
支配されるというはめにおちいることになるのです。
4. 【0】
幼少年期の人たちは、放っておくと、
内容のよしあしも、
興味本位の番組を選んで見ますから、
無意識のうちに
本能をくすぐるような番組にかたより、おもしろいからついつづけて見るということになるでしょう。その結果、テレビの前にくぎづけにされて、
映像を一方的に
押しつけられる
状態がつづき、心の底に送りこまれることが気づかないうちにおこってしまうのです。こういう
状態を毎日くり返していると外から
押しつけられることになれてしまって、自分から考えるということが、だんだんできなくなります。考えることができなくなった人間は、歌を
忘れたカナリヤのように、もはや
魂を失った人間といえるでしょう。教育
専門家の
報告では、
幼児期によくテレビを見せられた
子供は、友だちと遊べなくなったり気持ちが不安定になったりする場合があるそうです。
5. 今まで
述べてきたように、テレビをあつかうべき人間がその見方を
誤って悪い
習慣を身につけてしまうと、大事な人生をだいなしにしてしまいます。
情報化社会の
洪水の中を、うまく泳いでいくためには、まずわたしたち自身が
情報化社会の住人であることをしっかり
意識することが大切なのです。
長文 9.3週
1. 【1】君たちの中には、あまり学校が好きではない人もいるかも知れない。
2.「あーあ、学校なんてきらいだなあ。いやな科目はあるし、試験はあるし、もっと自由に好きなことをして
暮らしたいな。」
3.【2】「こんなふうに思っている人が、あんがい多いのではないか? なるほど、もっともな面もあると思う。たしかに、人間の社会にはいろいろと思いどおりにならないことが多い。もうすこしお
小遣いが多かったら、もうすこし遊ぶ時間が多かったら、と思うのは君たちだけではない。【3】
私だってそうだ。人間の社会にはがまんしなければならないことが多すぎる。
4. だがこの考えは、すこしばかり身勝手な考えだ。生活していくうえで、がまんしていかなければならないのは、なにも人間社会だけに
限ったことではない。
5. 【4】生物として、この世に命をもって生まれてきたものはすべて、それぞれの生物社会の一員に
組み込まれる。そして、この世で生きていくためには、すべて
ある程度のがまんをしていかなければならない。【5】そのことは
密林に住む
野獣であろうと、人間社会の
権力者であろうと同じことだ。
6. いや人間なら、いやになれば
逃げ出すことも、やめることもできる。だが、植物などは生まれた場所が気に入らないからといって、そこから
逃げ出すことは
絶対にできない。【6】がまんして生きていくか死んでしまうか、二つに一つなのだ。その意味では、植物の世界こそもっともがまんを重ねなければならないところだ。
7. 【7】とくに森林のように、すでに一つの社会が成り立っている場所に生育する
若い植物は、ひたすらがまんすることが生活になる。【8】シイやカシの森の中に、ヤツデやアオキのように生活
能力や生活
形態がちがうものが生育した場合は、
現実にはそれほどはげしい争いは起きず、かえって生活の場をすみ分けて
共存することが
お互いのためになる。【9】だが、たとえばシイやカシの高木林の中に、クス、イチイガシやシラカシのように、シイやカシよりさらに高木になるような植物が生育した場合は、高木
層のすぐ下の
亜高木層まで生育して、
先輩の高木が
枯れて自分たちの時代がくるまで、∵じっと待ちつづける。
8.【0】「石の上にも三年」ということわざがあるように人間の社会なら、せいぜい三年も待てば、たいてい
事情が変わって先が開けてくる。ところが植物の世界では、数十年、いや時には数百年ものあいだがまんしつづけるのだ。数多くの植物は、がまんしきれずに
枯れていき、がまんにがまんを重ねた少数の植物だけが、じゅうぶんに生活力をたくわえ、
先輩が
老衰したり、虫や風やカビなどの
被害を受けて
倒れたりしたすきにすばやく大きくなって、つぎの時代のチャンピオンになることができるのだ。
9.
私たちの実験でも、あきらかに競争、
共存、
忍耐という、植物、いや生物社会の
厳しいありさまは観察できた。わずか一メートル平方の
狭苦しい世界にも、
お互いにいがみ合いながらも
共存し、
狭い場所をすみ分けている典型的な生物社会が
示されていたのである。
10.
私たち人間社会に身を置く者も、生物社会の一員としての大きな
視野から、多様な
環境的
制約とそこに生きるものどうしの関係から生ずる社会的
制約をどう人間の
発展に結びつけていったらよいか、みんなで考えてみようではないか。植物社会の教訓を単なる
現象として見すごすか、人間社会の未来のために生かせるか、英知をもつ人間の
真価を問われる
分岐点である。
長文 9.4週
1. 【1】タケとササは花が
違うと聞いても、そもそもタケとササに花が
咲くの? と思われる方も少なくないだろう。もちろん、タケにもササにも花が
咲く。タケやササは風で花粉を運ぶ
風媒花で、イネによく
似た花を
咲かせる。【2】ただし、タケが花を
咲かせるということはほとんどない。タケの花にお目にかかるチャンスはきわめて少ないのだ。
2. 一説には「タケは六十年に一度花を
咲かせる」といわれている。【3】
実際にモウソウチクでは六十七年、マダケでは百二十年の周期で花を
咲かせたという記録もある。
3. 世にも
珍しいタケの花。ところが、タケの花が
咲いた後、竹林には
奇妙な
現象が起こる。一面に広がっていた広大な竹林がいっせいに
枯れてしまうのである。
4. 【4】しかし考えてみれば、これは不思議でもなんでもない。植物のなかには何度も何度も花を
咲かせる多回
繁殖性の植物と、一度花を
咲かせて種子を残すと
枯れてしまう一回
繁殖性の植物とがある。【5】たとえば、ヒマワリやアサガオなどは花を
咲かせて種子を残すと
枯れてしまう。タケも花が
咲いて
枯れる。これは、ごくふつうのことである。ただ、タケの場合はその周期が
途方もなく長いというだけなのだ。
5. 【6】タケは
地下茎で
伸びて
増えていくから、無数のタケが生えた広大な竹林が、すべて
地下茎でつながった一つの
個体ということも決して大げさな話ではない。【7】つまり、一本のヒマワリが花を
咲かせて
枯れるように、タケが花を
咲かせて
枯れるということは、竹林全体のタケが
枯れてしまうことになるのだ。そうはいっても、いままで夏も冬も青々としていた竹林が、いきなり
枯れだすのだから、大変である。【8】そのため昔の人は気味悪がって、タケに花が
咲くのは
天変地異の
前触れだといってひどく
恐れたのである。∵
6. ところが、である。どうやら、それも昔の人の
迷信とかたづけるわけにもいかないようなのだ。【9】タケやササが花をつけると、
実際に
恐ろしいことが起こることが知られているのである。
7. タケやササが花を
咲かせた後は、無数の種子ができる。そして、この種子をえさとするネズミが大発生してしまうのだ。【0】ネズミの
妊娠期間はわずか二十日。一
匹のネズミは十
匹の子どもを出産し、生まれた子どもはわずか五十日で
成獣となり
繁殖能力を持つというから、
恐るべき繁殖能力である。ただ、
通常はえさの量が
限られているから、えさにありつけずに死ぬネズミも多く、ネズミの数は
増えすぎることもなく
保たれている。しかし、えさが
豊富にあり、すべてのネズミが死ななかったとしたらどうなるだろう。文字どおりネズミ算式に
増加し、数カ月のうちに百倍くらいには平気で
増えてしまう。そして、
増えすぎたネズミはタケやササの種子を食い
尽くし、やがては田畑の農作物を食べ
荒して、ついには人々が大事に
蓄えた
穀物をも食べ
尽くしてしまうのである。こうして、タケやササの花は
飢饉の
原因にもなってしまうのだ。
8. どんな植物でも花が
咲くのは待ち遠しいものだが、どうやらタケやササだけは別のようだ。どうぞ、今年もタケやササに花が
咲きませんように、と
短冊に願いをかけるとしよう。
9.(
稲垣栄洋『
蝶々はなぜ菜の葉にとまるのか』(草思社)による)