a 長文 7.1週 ni2
 「ロシア語は取っ付きにくい、難しむずか そう、つい敬遠けいえんしてしまう」
 そういう人たちが一番にあげる理由が例のロシア文字。英語、フランス語、ドイツ語など圧倒的あっとうてき多数のヨーロッパ諸語しょご採用さいようしているラテン文字、いわゆるローマ字ではなく、同じギリシャ文字をお手本につくられたものの、なじみのない形状けいじょうのも混じっま  たキリール文字である。西ローマ教会(カトリック)けん組み込まく こ れた地域ちいきがラテン文字を採用さいようしたのに対し、東ローマ教会(正教)けんに入った国々(ロシア、ブルガリアやセルビアなど)はキリール文字を使う。
 それにしても、ロシア語の場合、その数わずか三十三。大文字小文字両方あわせても、たかだか六十三である。ひらがな、カタカナ五十字ずつに加えて、三千字前後の漢字を書けて、五千字以上の漢字を読めることになっている日本人が、怖じ気付きお けづ 、覚えるのを億劫おっくうがるような数ではない。その気になりさえすれば一時間で覚えられる量だろう。
 それを思えば、むしろ同情どうじょう敬服けいふく値するあたい  のは、日本語を学ぶ漢字けんの外国人ではないだろうか。
中略ちゅうりゃく
 表音文字だけの英語やロシア語のテキスト、あるいは漢字のみの中国語テキストと違っちが て、日本語テキストは基本きほん的には意味の中心を成す語根に当たる部分が漢字で、意味と意味の関係を表す部分がかなで表されるため、一瞬いっしゅんにして文章全体を目で捉えるとら  ことが可能かのうなのだ。
 アメリカ生まれの速読じゅつなんて表音文字対応たいおうだから、ほとんど日本語には役に立たない。むしろ日本語のかな漢字混合こんごう文それ自体が実にみごとに速読に適してき ていたのである。
 すっかりこの発見に有頂天うちょうてんになったわたしは、様々な種類の文章の、日本語ばんとロシア語ばんを時間を計りながら黙読もくどくしてみた。会議の同時通訳つうやくという仕事は、先週の前半は遺伝子いでんし工学のセミナー、
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後半は歴史学者のシンポジウム、今日は大統領だいとうりょう釈明しゃくめい演説えんぜつ、明日からは環境かんきょう会議、という具合に日々くるくる顧客こきゃくとテーマが変転していく。そのたびに一テーマあたり一〜三さつの電話帳に匹敵ひってきする資料しりょう格闘かくとうし、その専門せんもん分野の入門書を事前に読んでおくものだ。だから、千差万別さまざまな分野のテキストに日ロ両語で接するせっ  のは日常茶飯にちじょうさはんなのだが、それを実験対象にしたのである。それに、日本語の小説とそのロシア語やく、ロシア語の小説とその日本語やくをいくつか時間を計りながら読み比べよ くら てみた。
 そして、活字にして断言だんげんできるほどの自信満々な確信かくしんを持つにいたった。黙読もくどくする限りかぎ 、日本語の方が圧倒的あっとうてきに早く読める。わたしの場合平均へいきん七・六倍強の早さで、わたしの母語が日本語であることを差し引いても、これは大変な差だ。
 子どものころから文字習得に費やした時間とエネルギーが、こんな形で報わむく れているとは。世の中の帳尻ちょうじりって、不思議と合うようになっているんですね。いや、これからは収支しゅうしを黒字に転ずるために、どんどん読まなくてはそんてことだろう、と意地汚くいじきたな 本を貪るむさぼ 今日この頃  ごろである。

(原万里 ちょ/日本エッセイストクラブ へん「漢字かな混じりま  文は日本のたから」(『九九年ベスト・エッセイ集「木炭日和」』
文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう所収しょしゅう))
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a 長文 7.2週 ni2
 意志いしは、具体的には、我慢がまんをすることから強くなるのではないかと思います。大きなことを我慢がまんするということは、なかなかできませんが、小さな我慢がまんならば、わりとたやすくできるでしょう。
 昔の人は、たとえば、武者むしゃ修行しゅぎょうたきに打たれるということをしました。あれは一つの大きな我慢がまんだったと思います。わたしたちは、そんなことは、とても続かないと思います。
 小さな我慢がまんをし続けることによって、だんだんと大きな我慢がまんができるようになります。
 そして、それによって、わたしたちは、意志いしが強められると思うのです。小さな我慢がまんができないものが、大きな我慢がまんができるはずがないのです。
 人間の人間らしさといいましたが、たとえば、わかっているけれどもできない、悪いことだと知っていてもやってしまう、ということについては、こういう言い方ができるでしょう。
 わたしたちが、やりたいと思うこと、ぜん(いいこと)はできない。そして、やりたくないと思う悪はしてしまう」
 この、人間としての嘆きなげ は、わたしたちすべての人の心からの叫びさけ 嘆きなげ なのです。
 また、わたしたちが、後悔こうかいする、しまったなと思うということは、自由意志いしがある証拠しょうこだと思います。
 わたしたち人間は、自動販売はんばい機のようなものではないのです。百円を入れたら、ポンとジュースが出てくるというようなものではないのです。やってもいいし、やらなくてもいい。でも、む、後悔こうかいする――ということがあるのはなぜでしょうか。わたしたちに自由意志いしがあるからなのです。わたしたちの行ないが不可抗力ふかこうりょく的なことであるなら、わたしたちは、後悔こうかいし、悩むなや ということはないと思います。
 たとえば、スイッチを入れれば電灯はつくのです。「ついてみたくない感じ」そんなものはないのです。スイッチを入れればつくのです。その電灯は後悔こうかいもしないでしょう。ぜんもしないでしょう
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が、悪も行ないません。
 わたしたち人間は、すばらしい自由意志いしを持っていますが、それはある意味で大変恐ろしいおそ   ことです。それはぜんをしないで、悪を行ってしまう可能かのうせい常につね あるからです。
 わたしたちが一日の終わりに、あれはしまった、とか、いやだったな、とか、思うことの多くは、やることができたのに、やれなかった、言わないでもすんだのに一言多すぎた、あるいは、言わなくてもいいことを言ってしまった、ということです。不可抗力ふかこうりょくではなく、わたしたちにはできたのです。しかし、やらなかった、ということなのです。
 『わたしたちは、「それは不可能ふかのうだ」とか、「できない」とか、「そんなことは無理です」というようなことを、よく言うが、その原因げんいんは何か。それはそのことを心の底から望まないからだ』
――これは、ある人の有名な言葉です。
 確かたし に、わたしたちは心の底から石にかじりついてもやりたいと思うことがあります。逆にぎゃく どんなことがあっても、これはやらない、とほんとうに心の底から望んだ時には、やってはいけないことは、やらないですむ、と思うのです。問題は、心の底から望んでいるかどうかでしょう。ほんとうに心の豊かゆた な、良い人になりたいと望んでいる人、すなわち、強い意志いしを持っている人は、それができると思います。

浜尾はまお 実の文による)
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a 長文 7.3週 ni2
 我が身わ みをつねって人のいたさを知れ
 自分の苦しさいたさを思い出して、人の苦しみや痛みいた を思いやれ、ということわざです。自分自身のこととして人のことを考えよということです。古くから言い伝えられてきたことわざのひとつです。
「同病相憐れむあわ  同憂どうゆう相救う」(『えつ春秋』)
 右の、特に上の句かみ くは、聞いたことがあるでしょう。かれも病気、自分も病気、それなら苦痛くつうはそのまま同じだから、そのつらさはよくわかります。「つらいだろうな。自分もこんなにつらいもの」と。この言葉全体は、同じ境遇きょうぐうにある者同士は、苦痛くつうや気持ちがよくわかり、いたわりあい助け合うことができるということです。
 表題のことわざは、意味がちがう。痛いいた のは相手の方で、自分はなんでもない。人間はそういう時には相手の痛みいた になかなか同情どうじょうが持てないものです。そこで、自分も同じように我が身わ みをつねってみたら、というのです。痛かっいた  たでしょう。だからあの人の痛いいた こともわかるでしょう」と言っているのです。
 想像そうぞう力の弱さが同情どうじょう心の足りなさになるのではないでしょうか。少し話が飛躍ひやくしますが、日本人は金の力にまかせて、発展はってん途上とじょう国の資源しげんを買いあさり、原住民を苦しめていると言われています。日本人自身は、さしあたって痛まいた ないし、どうして相手国の痛みいた 想像そうぞうできるかというわけです。日本人が我が身わ みをつねって、途上とじょう国のいたさを知ることは、とてもむずかしそうです。なぜ、日本人はこう想像そうぞう力がにぶくなってしまったのでしょうか。
 若いわか 人が電車の中で腰かけこし  ていました。そこへ赤ちゃんをおんぶした母親が、重そうな荷物を抱えかか て乗ってきました。青年には席をつめて、腰かけこし  やすくしてあげる気配もありません。この青年の心の声が聞こえてきました。「おれは満席の時は腰かけこし  たいと思ったことはない。また立っていて苦痛くつうだと思ったこともない。この母親もおれと同じ気持ちにちがいないから、心をつかうことはない
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よ」と言っているようでした。わが身をつねらなくても、相手の苦痛くつうがわかる想像そうぞう力と実行力がよみがえってほしいものだと先日、思ったことでした。
出典・稲垣いながき友美『ことわざに学ぶ生き方(東洋へん)』
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a 長文 7.4週 ni2
 アメリカ人が日本にやって来ると、日本人のあいさつはうるさくて仕方ない、と思うようだ。例えば思いがけないところで知っている人とバッタリ会う。「どちらにお出かけですか」と尋ねるたず  。アメリカ人はうるさいと思う。「どこに行こうとおれの勝手だ。おれ秘密ひみつ探ろさぐ うとしているのだろうか」。日本人は何もそういうつもりではない。「こんなところでお目にかかるとは思いがけないことだ。あなたの身の上に何か大変なことがおこったのではないだろうか。もしそうだったら、一緒いっしょに心配してあげましょう」とこういう気持ちで聞くわけである。
 「先日は失礼しました」。これもよくわたしたちが口にするあいさつである。アメリカ人はびっくりする。確かたし に先日この男に会った。しかしそのときにこの男はおれに何にも悪いことはしていない。するとこの男は、おれの知らない間にとんだことをしてくれたのではないか」と心配になるという。日本人の気持ちはそうではない。「先日あなたにお目にかかった。わたしとしては失礼なことをした覚えはないけど、わたしは不注意な人間である。もしかしたら失礼なことをしたかもしれない。もしそうだったらおわびする」。こういうことを言っている。そういう言葉でも分かるように、わたしたちは謝るあやま ことが非常ひじょうに好きである。感謝かんしゃすることよりも、謝るあやま ことを尊ぶたっと 
 みなさんがバスに乗っている。おばあさんが乗ってきた。だれかが席をゆずる。おばあさんは何というか。「ありがとうございます」とお礼を言う人もいるが、「すみませんねえ」と謝るあやま 人の方が多いだろう。おばあさんの気持ちはこうである。わたしがもし乗ってこなければ、(あなたは座っすわ ていられた。わたしが乗ってきたばかりにあなたは立たなくてはならない。)すみません」とこういう論理ろんりで、日本人は謝るあやま ことを非常ひじょうに喜ぶ。
 アメリカで暮らしく  ていた次男の話だが、次男の家にいるお手伝
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いさんが台所で働いていて、手からコップが滑り落ちすべ お 割れわ てしまった。日本人ならこういうとき「わたしがコップを割りわ ました」と言う。でもアメリカの人はけっしてこういうことは言わないそうだ。「グラスが割れわ たよ」と言ってきた。「お前が割っわ たんじゃないか、なぜ自分が割っわ たと言わないのか」と言ったら、ビックリしていたという。英語で「わたしがコップを割っわ た」というとどういう意味になるか。かべか何かにコップをわざとぶつけて割っわ た、という意味になってしまうようだ。コップがあやまって手から滑っすべ 割れわ たときはコップが割れわ たんであって、わたし割っわ たんじゃない、と頑張るがんば そうだ。理屈りくつを言えば確かたし にそうである。なぜ日本人は、手から滑り落ちすべ お たコップに対して「わたし割っわ た」と言うか。これは日本人の責任せきにん感だと思う。つまり日本人はこう考えるのである。自分の手からコップが滑り落ちすべ お 割れわ たのは、自分が油断ゆだんしていたからだ。自分がしっかりしていたならばこのコップは割れわ なかった。自分がうっかりしていたからコップが割れわ た。このことの責任せきにんは自分にある。だから「コップを割りわ ました」という言い方になるのである。こういう考え方は日本人の美徳びとくであるとわたしは考える。

(金田一春彦はるひこ『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川oneテーマ二十一)による)
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a 長文 8.1週 ni2
 お世辞とか外交辞令というのはいやなものです。心にもないことを言われるのは気持ちが悪いという人もあります。しかし、出会いがしらに、
「お顔の色が悪いようですが、どうかなさいましたか」
などという親切を受けてはたまりません。たとえ、すこし顔色がさえないとは思っても、
「お元気そうですね、みなさんお変わりありませんか」
と言われた方がよほどうれしい。ウソを言われて喜んでいる。それでは深刻しんこくな人生は送ることができないとしかられるかもしれませんが、こんなところで深刻しんこくさを味わわされなくて結構けっこうだというのがふつうの人の感想です。
 本当のことを言うと当たりさわりがあって、聞く人の心にきずをつける心配がある。お世辞だとかあいさつのことばは、ことばを真綿まわたにくるんで、痛みいた 与えあた ないようにするのがやさしさになるのだということを発見したときに生まれた生活の知恵ちえだったのです。
 このごろの若いわか 人は、
 「ウソも方便」
認めるみと  という調査ちょうさがあります。若いわか のに世間なれしていやだね、と言う人がいますが、ことばに傷ついきず  た苦い経験けいけんが重なって、人を傷つけるきず   真実よりも、傷つけきず  ないウソの方がよろしいということに気がついたのだとしたら、これはたいへんな感覚です。
 このごろの若いわか ものはことばを知らなくて……などと言っている年ぱいの人が案外、「ウソも方便」ということを知らないで、本当のこと、あまりにも本当のことを言って人をくさらせるのは皮肉です。年ぱいの人の方が「ウソも方便」を認めるみと  人がすくなくなっているのです。
 われわれはどうも正直教育をうけすぎたようです。いつも本当のことを言わなくてはいけないと教えられてきました。それでときどき正直の上になにかつくようになってしまいます。
 正直な話にはしばしばとげがあります。正直の美徳びとくを行うのに気をとられて、そのとげが相手の心をつきさすことを忘れわす がちです。同じ正直でも、言い方によってとげが出たり出なかったりします。
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 いい年をした男が青年のような服装ふくそうをしてあらわれたとします。
「これはまたずいぶん派手はでですね」
と言えばかどが立ちます。派手はでであるのはまちがいないとして、派手はでだと言ってしまえば、非難ひなんしていることになります。聞いた方ではうらみに思うでしょう。うらみに思ったことばはめったに忘れわす ないものです。同じことを言うにしても、
「これはまたずいぶん若々しいわかわか  ですね。さっそうとしていらっしゃる」
とすれば、言われた方では内心いい気になるでしょう。派手はでではないかとちょっぴり不安に思っているのを、ほめてくれた、あいつはなかなか気のきくやつだ、となるでしょう。
 毎日朝からばんまで使っていることばです。いくら気をつけても、どうしても、とげのあることばが口から出てしまいます。本人はそのつもりでなくても、相手が勝手に傷ついきず  てうらむということもあります。それをいちいち後悔こうかいしていては生きてはいかれなくなります。しかし、正直なことばには時にはとげがあるのだということを心におけば、ことばで人を傷つけるきず   ことはずっとすくなくなるにちがいありません。
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a 長文 8.2週 ni2
 知恵ちえがつくられる場所である人間ののうは、また、コンピューターなどと違っちが て、物事をはばをもってみつめ、考えることができるようにできている。つまり寛容かんような思考態度たいどをとることが人間にはできるのだ。
 人間ののうにあるこの寛容かんようせいは、ものを考える上でも発揮はっきされる。その一つは連想である。文章、特に詩とか格言かくげんのようなものを読む時、その中の言葉から連想される異なっこと  た言葉を、思いつくまま列記しておくとする。その列記された言葉のいくつかを組み合わせて新しい文章をつくってみる。こうしたあとで、もう一度、元の文章を読み直すと、意味の理解りかいが深みと新鮮しんせんさをもつものだ。連想は、言葉の意味と感じにはばをもたせてみるというのう寛容かんようせいから生まれる。
 このように、人がものを考える時は、はばをもった考え方をするものであり、またそれでこそ、思考は発展はってんせいをもって深まっていくのだ。
 わたしは、人生には、深くものを考えなければならない時期があり、その深い思考力をつちかうことも勉強の目的の一つだ、と前にいった。これはいいかえれば、勉強してこそつくられる「知恵ちえの深さ」である。勉強しない人ののうは、人間特有のはばをもった思考のレッスンをしないから深くものを考える力、つまり「知恵ちえの深さ」が身につかないのだ。
 知恵ちえには「広さ」があり、「深さ」があり、また「強さ」というものがある。「知恵ちえの強さ」とは、すなわち決断けつだん力である。
 わたしたちが人生で当面する問題には、クイズやテストのようにあらかじめ答えが用意されているものはない。クイズの問題は解答かいとうを見つけるだけの問題だが、人生の問題は、相当の時間をかけなければ問題そのものの真意もつかめないし、とうてい真の解決かいけつには至らいた ない難問なんもんばかりである。だから、長い年月をかけて、すべ
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てを知らなければ何の行動も起こせないという姿勢しせいにだけ固執こしつしていては、この世は渡っわた ていけない。
 医者が、現在げんざいの医学の水準すいじゅんではある病気について数パーセントしか解明かいめいされていなくても、目の前で苦しんでいる患者かんじゃに何らかの診断しんだんをくださなければならない時があるように、それがいかに未解決みかいけつ難問なんもんであろうと、どこかで決断けつだんしなければならないのである。飛躍ひやくしなければならないのである。
 人間ののうは、不連続のものから連続したものを導き出すみちび だ 寛容かんようせいをもっている、とわたしはいった。いいかえれば、実は飛躍ひやくであることを飛躍ひやくでないととらえられるのが、人間ののうである。だから、人間は飛躍ひやくができる。コンピューターやロボットには、それができない。
 決断けつだんできる力、どこかでエイッと飛躍ひやくできる力、知恵ちえのそういう「強さ」も、人生とは直接ちょくせつかかわらないように見える勉強を積み上げていく中で、身についていくものなのだ。
 知恵ちえには、以上わたし述べの たほかにも、いくつかの側面があるはずだ。いずれにせよわたしは、「人はなぜ学ばなければならないのか」の答えがあるとすれば、「それは知恵ちえを身につけるためだ」と、答えるほかないのである。

(広中平祐へいすけ氏の文章による)
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a 長文 8.3週 ni2
 書物はいつの世にもゆっくりと読むべきものだとわたしは思う。こんなにも本がたくさん出ているのに、と言うかもしれない。しかし、同じようにレコードだってたくさん出ている。展覧てんらん会もいたる所で開かれている。だからといって、音楽を能率のうりつ的に聴きき 、絵画を急いで見る人はいまい。それなのに、こと本に関する限りかぎ 速読を目指すのはどういうわけなのだろう。おそらく、書物というものが鑑賞かんしょうするというより知識ちしきの伝達の媒体ばいたいと思われているせいであろう。確かたし に本とレコードでは違うちが 。本の方がはるかに多目的である。鑑賞かんしょうするというよりは、情報じょうほうを得たいために読まれる本の方がずっと多いだろう。そんなことは十分承知しょうちの上で、なおかつ、わたし遅読ちどく勧めるすす  
 速く読むということは一見能率のうりつ的のように思えるが、結局はそんをすることになる。わたしも必要に迫らせま れて急いで読まざるを得ないことがある。ところが、急いで読んだ本に限っかぎ て、あとに何も残っていない。そこで、もう一度読み直さなければならないことになる。そして、改めてゆっくり読み直してみると、最初に読み飛ばしたそんな読書が何の意味も持っていないどころか、まったく読み違えちが ていたことに驚くおどろ のである。こうなると、速読するよりは読まない方がましである。なぜなら、誤解ごかいは無知よりも有害だからである。
 そんなことを言っても、必要に迫らせま れて読まなければならない場合が多いではないか、と言うかもしれない。しかし、必要に迫らせま れたらなおのことゆっくり読むべきである。必要に迫らせま れる以上あくまで誤解ごかい許さゆる れないからだ。たとえ明日までにどうしてもこの一さつを読み上げねばならないという必要に迫らせま れた場合でも、ゆっくりと読み、読めるところまで読んで本を閉じと たらいい。その方が、いい加減  かげん斜めなな 読みをするよりは、はるかに得るところが大きい。
 遅読ちどく勧めるすす  もう一つの理由は、いくら速く読んでみたところ
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でたかが知れているということである。どんなに速読の技術ぎじゅつを身につけたところで、二倍のスピードで読めるものではない。仮にかり 二倍の速度で読めたとしても、そうした速読から読み取ることができるのは、ゆっくり読んだ時の二分の一にすぎない。つまり、半分しか読み取らないのだから二倍の速さで読めるわけだ。しかも、その半分が前に述べの たように誤読ごどく陥りおちい やすいとすれば、速読というものがいかに無意味であるかに気づくであろう。実際じっさい、本というものはそんなにたくさん読めるものではない。わずかな本しか読めないからこそ、何を読むかその選択せんたくが大切になる。つまり、ゆっくり読むことは、それだけ良書を選ばせる効果こうかを持つのである。
 わずかな本しか読めなかったなら、それだけ視野しやはせまくなり、とても現代げんだいに追いついて行けないと言うかもしれない。確かたし にそういった不安が現代げんだい人を速読へと駆り立てか た ている。だが、そんなことは決してない。十さつ読む人よりも五さつ読む人の方が視野しやが広く、立派りっぱ見識けんしきを身につけているというようなことはざらにあるのだ。読書の価値かちは何さつ読んだかで決まるのではなく、どんな本をどのように読んだかで決まるのである。
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a 長文 8.4週 ni2
 そこには、人と犬とが関係を結ぶようになった大昔の情景じょうけい綿々めんめんと生きている。犬は人間にはない能力のうりょく、つまり暗闇くらやみでも目がきき、その鋭敏えいびん嗅覚きゅうかく聴覚ちょうかく危険きけん迫っせま ていることをいち早く察知できたことから、夜、人間が寝静まっねしず  たあとの警戒けいかいの役目をしたり、狩猟しゅりょうのなかで人間の役に立ってきた。犬が自分たちの生活の役に立つことを知った人間は、食べ物を与えあた 、かわいがって育て、犬たちも人に従順じゅうじゅんさをもって応えこた てきたのである。
 それにひきくらべて、いまの日本の犬たちは何を求められているのだろうか。もちろん、盲導犬もうどうけん麻薬まやく探知たんち犬などの社会に有用な犬もいるし、狩猟しゅりょう犬や番犬などもいるだろう。だが、概してがい  人間に役に立つ犬の仕事は少なくなっている。その結果、犬と人間の関係も変質へんしつしてきてしまっている。現在げんざいのハンターと狩猟しゅりょう犬の関係は、昔の猟師りょうしであるマタギと犬の関係とはまったくちがう。マタギは自分の犬を捨てす たりしないが、ハンティングをする人のなかには、狩猟しゅりょうシーズンの終わりに使い捨てつか す にする人がままいるのだ。
 結局、大多数の人は愛玩あいがんの対象として犬を飼っか ているのだろうが、そうだとしたら、人の愛玩あいがん応えるこた  ことだけが、その役目となったいまの犬たちは、はたして幸せなのだろうか。
 わたしには、この関係はどうも人→犬の一方通行という気がしてならない。それに、愛玩あいがんというのはえてして、対象が変わりやすいし、飽きあ がくることもあるし、自分の都合で一方的にやめてしまうこともある。これが毎年、おびただしい数の捨てす 犬が生まれる一因いちいんといったらいいすぎだろうか。ほんとうに自分の生活に必要だったら、犬を捨てるす  ことは、自分の手足をもぐのと同じことである。犬が人間の役に立ちたいと思っている動物だとしたら、いまの人との暮らしく  のなかにその対象がないことは、ある意味で悲しいことではないだろうか。
 ほんとうに人の役に立っている犬たちは、どれも生き生きしてい
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る。わたし飼っか ているラブラドール・レトリーバーのベリーという犬は、麻薬まやく犬にするため、成田空港の税関ぜいかんにあずけた。しばしの別れはつらかったけれど、ときどき見にいってみると、立派りっぱ職責しょくせきを果たし、緊張きんちょうのなかで生き生きとしているのが手にとるようにわかる。犬は何かの目的に向かって一生懸命いっしょうけんめい、働く動物である。人間の役に立つことで喜びを感じ、われわれもだからこそ彼らかれ を愛する。そのことを考えれば、もっと犬を有用なことに使ってもいいのではないか。
 麻薬まやく探知たんち犬、盲導犬もうどうけんしるべ犬、介助かいじょ犬、あるいは老人ホームを訪問ほうもんするボランティア犬、阪神はんしん大震災だいしんさい活躍かつやくした災害さいがい救助犬、精神せいしんを病んだ人たちを癒すいや セラピー・ドッグ、そういう犬たちの役割やくわりをもっと広げていってもいいと思う。また、アウトドアで遊ぶ友として、狩猟しゅりょう犬やそり引き犬、あるいはフリスビー犬だっていいが、彼らかれ 可能かのうせいをもっと広げてやってほしい。ただねこかわいがりして、愛情あいじょう過多かた状態じょうたいにとどめておくのは悲しい。犬にとっても、人間にとってもよりよい関係というものがきっとあるはずだ。

富澤とみざわ勝『日本の犬は幸せか』(草思社)による)
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a 長文 9.1週 ni2
 明快めいかいな文章を、というのは、ただわかりやすければいいというのとはすこし違うちが 。戦後ずっと、わかりやすく書けと言われてきたけれども、そのわりに文章は平明にはならなかった。字づらはやさしくても、ふにゃふにゃして、とらえどころのないような文章がふえた。明快めいかいな文章は、ほねを持っていなくてはならない。筋道すじみちが通っている必要がある。つまり、論理ろんり的であって、しかもわかりやすい、それが明快めいかいな文章ということになる。
 この論理ろんり的というのが問題である。どこかに客観的な論理ろんりなるものがあって、それに則っのっと てものを書き、言うことのように考えている人がすくなくない。それなら、イギリス人の論理ろんりもエジプト人の論理ろんりも、日本人と同じでなくてはならない。たしかに、ごく基本きほん的な次元では世界中が同一原理に支配しはいされている。しかし、論理ろんりにはもっと人間的な論理ろんりもある。言葉で表現ひょうげんされる論理ろんりは、一プラス一が二になるような数式に比べくら てはるかに柔らかいやわ   論理ろんりで、柔らかいやわ   論理ろんりは、民族の文化や言語によって微妙びみょう違うちが のがむしろ正常せいじょうである。だからこそ、完全な翻訳ほんやくということがむずかしい。数学の式なら翻訳ほんやくを要しない。
 一方、日本語の文章がわけのわからぬものになりやすいのも事実である。論理ろんり的にできるものなら論理ろんり的にしたい。それかと言って筋道すじみちさえ通っていればいい、明快めいかいならよろしい、という文章観で割り切っわ き てもらってもわびしい。
 川の水が濁っにご ている。底が見えない。この濁りにご をすっかり取ってしまえ、というので清水にしてしまったらどうか。透明とうめいにはなるだろうが、清水に魚すまず、川かならずしも水の清さをもって尊しとうと とせず、である。文章も同じこと。あまりごたごたしていれば、一度蒸留じょうりゅう水のようにすっきりしたものにしてみたいと思うのは人情にんじょうであろう。方向としては結構けっこうだが、それがそのとおり実現じつげん
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たら、ことである。「過ぎす たるはなお及ばおよ ざるがごとし。」である。
 古来、われわれの言語表現ひょうげんは、含みふく を重んじてきた。「言い尽くしい つ  て何があろう。」と言った芭蕉ばしょうも、魚のすめなくなるような清水ではしかたがないと考えたのである。古くからあいまいを美学としていた。にもかかわらず、われわれはいま芭蕉ばしょうの考えを捨てす て、表現ひょうげん透明とうめいにすることに関心を向けている。おそらく、これは、それほどむずかしいことではなかろう。たしかに、よけいなものを取ってしまって、ぎりぎり言いたいことだけ言えば、いわゆる名文にはなる。だが、文章をそんなふうにはだかにしてはみっともない。適当てきとうに着物をきせている方がおもしろいのである。

外山とやま滋比古しげひこ「日本の文章」より)
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a 長文 9.2週 ni2
 このくり返しの放映ほうえいによる暗示あんじの力はたいへん大きいものです。それは、いきなり心の深い部分に侵入しんにゅうし、そこに直接ちょくせつ働きかけてきます。平たくいえば、暗示あんじ効果こうかをくり返しつづけることによって、その製品せいひんのイメージをわたしたちに信じこませてしまいます。そして、知らず知らずのうちに、買いたい気持ちをいだかせてしまうのです。この映像えいぞう影響えいきょう力からのがれることはなかなかできません。
 このからくりは、テレビのコマーシャルばかりでなく、あらゆるものにあてはまります。わたしたちの持っている習慣しゅうかんやくせというものは、すべてそうです。たとえばわたしたちは、朝起きて顔を洗いあら 、歯をみがくという習慣しゅうかんを持っていますが、これは言葉によっていいつけられ、それを反復はんぷく練習するという動作によって、わたしたちの心の底に一つの形が焼きついてしまっているからです。テレビの場合も同様で、われわれがテレビを見る習慣しゅうかんを身につけてしまったことが、反対にコマーシャルに利用されているわけです。このようにわたしたちは、精神せいしん的にも肉体的にも、ある事がらをくり返しおこなうと、それが習慣しゅうかん化されるようにしくまれているのです。そして、いったん身についた習慣しゅうかんは「第二の天性てんせい」というように、持って生まれた性格せいかくのようになってしまいます。
 したがってわたしたちは、どんな習慣しゅうかんを身につけているかによって、その生涯しょうがいを大きく左右されていきます。特にテレビのように影響えいきょう力の大きい場合は、どんな見方をしているかが大きな意味を持ってくることになります。もとよりテレビはわたしたちの生活を豊かゆた にするための文明の利器として人間が作りだしたものですから、その効果こうか有効ゆうこうに生かせば、わたしたちの実生活にもおおいに役立つ点があるはずです。見る人が自覚を持って自分の人生に役立てるように、必要なものだけを選んで見るような習慣しゅうかんづくりをすれば、テレビはわたしたちに大きなめぐみを与えあた てくれます。ところが、テレビ番組をつくる側がいいかげんにつくった
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り、見る人が自覚を欠いたりしていると、大きな損失そんしつ招くまね ことになります。ひいては、人間のつくりだしたものを自分たちで支配しはいすることができず、つくりだした物によってぎゃく支配しはいされるというはめにおちいることになるのです。
 幼少ようしょう年期の人たちは、放っておくと、内容ないようのよしあしも、興味きょうみ本位の番組を選んで見ますから、無意識むいしきのうちに本能ほんのうをくすぐるような番組にかたより、おもしろいからついつづけて見るということになるでしょう。その結果、テレビの前にくぎづけにされて、映像えいぞうを一方的に押しつけお   られる状態じょうたいがつづき、心の底に送りこまれることが気づかないうちにおこってしまうのです。こういう状態じょうたいを毎日くり返していると外から押しつけお   られることになれてしまって、自分から考えるということが、だんだんできなくなります。考えることができなくなった人間は、歌を忘れわす たカナリヤのように、もはやたましいを失った人間といえるでしょう。教育専門せんもん家の報告ほうこくでは、幼児ようじ期によくテレビを見せられた子供こどもは、友だちと遊べなくなったり気持ちが不安定になったりする場合があるそうです。
 今まで述べの てきたように、テレビをあつかうべき人間がその見方を誤っあやま て悪い習慣しゅうかんを身につけてしまうと、大事な人生をだいなしにしてしまいます。情報じょうほう化社会の洪水こうずいの中を、うまく泳いでいくためには、まずわたしたち自身が情報じょうほう化社会の住人であることをしっかり意識いしきすることが大切なのです。
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a 長文 9.3週 ni2
 君たちの中には、あまり学校が好きではない人もいるかも知れない。
「あーあ、学校なんてきらいだなあ。いやな科目はあるし、試験はあるし、もっと自由に好きなことをして暮らしく  たいな。」
「こんなふうに思っている人が、あんがい多いのではないか? なるほど、もっともな面もあると思う。たしかに、人間の社会にはいろいろと思いどおりにならないことが多い。もうすこしお小遣いこづか が多かったら、もうすこし遊ぶ時間が多かったら、と思うのは君たちだけではない。わたしだってそうだ。人間の社会にはがまんしなければならないことが多すぎる。
 だがこの考えは、すこしばかり身勝手な考えだ。生活していくうえで、がまんしていかなければならないのは、なにも人間社会だけに限っかぎ たことではない。
 生物として、この世に命をもって生まれてきたものはすべて、それぞれの生物社会の一員に組み込まく こ れる。そして、この世で生きていくためには、すべてある程度  ていどのがまんをしていかなければならない。そのことは密林みつりんに住む野獣やじゅうであろうと、人間社会の権力けんりょく者であろうと同じことだ。
 いや人間なら、いやになれば逃げ出すに だ ことも、やめることもできる。だが、植物などは生まれた場所が気に入らないからといって、そこから逃げ出すに だ ことは絶対ぜったいにできない。がまんして生きていくか死んでしまうか、二つに一つなのだ。その意味では、植物の世界こそもっともがまんを重ねなければならないところだ。
 とくに森林のように、すでに一つの社会が成り立っている場所に生育する若いわか 植物は、ひたすらがまんすることが生活になる。シイやカシの森の中に、ヤツデやアオキのように生活能力のうりょくや生活形態けいたいがちがうものが生育した場合は、現実げんじつにはそれほどはげしい争いは起きず、かえって生活の場をすみ分けて共存きょうぞんすることがお互い たが のためになる。だが、たとえばシイやカシの高木林の中に、クス、イチイガシやシラカシのように、シイやカシよりさらに高木になるような植物が生育した場合は、高木そうのすぐ下の亜高木あこうぼくそうまで生育して、先輩せんぱいの高木が枯れか て自分たちの時代がくるまで、
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じっと待ちつづける。
「石の上にも三年」ということわざがあるように人間の社会なら、せいぜい三年も待てば、たいてい事情じじょうが変わって先が開けてくる。ところが植物の世界では、数十年、いや時には数百年ものあいだがまんしつづけるのだ。数多くの植物は、がまんしきれずに枯れか ていき、がまんにがまんを重ねた少数の植物だけが、じゅうぶんに生活力をたくわえ、先輩せんぱい老衰ろうすいしたり、虫や風やカビなどの被害ひがいを受けて倒れたお たりしたすきにすばやく大きくなって、つぎの時代のチャンピオンになることができるのだ。
 わたしたちの実験でも、あきらかに競争、共存きょうぞん忍耐にんたいという、植物、いや生物社会の厳しいきび  ありさまは観察できた。わずか一メートル平方の狭苦しいせまくる  世界にも、お互い たが にいがみ合いながらも共存きょうぞんし、狭いせま 場所をすみ分けている典型的な生物社会が示さしめ れていたのである。
 わたしたち人間社会に身を置く者も、生物社会の一員としての大きな視野しやから、多様な環境かんきょう制約せいやくとそこに生きるものどうしの関係から生ずる社会的制約せいやくをどう人間の発展はってんに結びつけていったらよいか、みんなで考えてみようではないか。植物社会の教訓を単なる現象げんしょうとして見すごすか、人間社会の未来のために生かせるか、英知をもつ人間の真価しんかを問われる分岐ぶんき点である。
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a 長文 9.4週 ni2
 タケとササは花が違うちが と聞いても、そもそもタケとササに花が咲くさ の? と思われる方も少なくないだろう。もちろん、タケにもササにも花が咲くさ 。タケやササは風で花粉を運ぶ風媒花ふうばいかで、イネによくた花を咲かせるさ   ただし、タケが花を咲かせるさ   ということはほとんどない。タケの花にお目にかかるチャンスはきわめて少ないのだ。
 一説には「タケは六十年に一度花を咲かせるさ   」といわれている。実際じっさいにモウソウチクでは六十七年、マダケでは百二十年の周期で花を咲かせさ  たという記録もある。
 世にも珍しいめずら  タケの花。ところが、タケの花が咲いさ た後、竹林には奇妙きみょう現象げんしょうが起こる。一面に広がっていた広大な竹林がいっせいに枯れか てしまうのである。
 しかし考えてみれば、これは不思議でもなんでもない。植物のなかには何度も何度も花を咲かせるさ   多回繁殖はんしょくせいの植物と、一度花を咲かせさ  て種子を残すと枯れか てしまう一回繁殖はんしょくせいの植物とがある。たとえば、ヒマワリやアサガオなどは花を咲かせさ  て種子を残すと枯れか てしまう。タケも花が咲いさ 枯れるか  。これは、ごくふつうのことである。ただ、タケの場合はその周期が途方とほうもなく長いというだけなのだ。
 タケは地下茎ちかけい伸びの 増えふ ていくから、無数のタケが生えた広大な竹林が、すべて地下茎ちかけいでつながった一つの個体こたいということも決して大げさな話ではない。つまり、一本のヒマワリが花を咲かせさ  枯れるか  ように、タケが花を咲かせさ  枯れるか  ということは、竹林全体のタケが枯れか てしまうことになるのだ。そうはいっても、いままで夏も冬も青々としていた竹林が、いきなり枯れか だすのだから、大変である。そのため昔の人は気味悪がって、タケに花が咲くさ のは天変地異てんぺんちい前触れまえぶ だといってひどく恐れおそ たのである。
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 ところが、である。どうやら、それも昔の人の迷信めいしんとかたづけるわけにもいかないようなのだ。タケやササが花をつけると、実際じっさい恐ろしいおそ   ことが起こることが知られているのである。
 タケやササが花を咲かせさ  た後は、無数の種子ができる。そして、この種子をえさとするネズミが大発生してしまうのだ。ネズミの妊娠にんしん期間はわずか二十日。一ひきのネズミは十ひきの子どもを出産し、生まれた子どもはわずか五十日で成獣せいじゅうとなり繁殖はんしょく能力のうりょくを持つというから、恐るべきおそ   繁殖はんしょく能力のうりょくである。ただ、通常つうじょうはえさの量が限らかぎ れているから、えさにありつけずに死ぬネズミも多く、ネズミの数は増えふ すぎることもなく保たたも れている。しかし、えさが豊富ほうふにあり、すべてのネズミが死ななかったとしたらどうなるだろう。文字どおりネズミ算式に増加ぞうかし、数カ月のうちに百倍くらいには平気で増えふ てしまう。そして、増えふ すぎたネズミはタケやササの種子を食い尽くしつ  、やがては田畑の農作物を食べ荒しあら て、ついには人々が大事に蓄えたくわ 穀物こくもつをも食べ尽くしつ  てしまうのである。こうして、タケやササの花は飢饉ききん原因げんいんにもなってしまうのだ。
 どんな植物でも花が咲くさ のは待ち遠しいものだが、どうやらタケやササだけは別のようだ。どうぞ、今年もタケやササに花が咲きさ ませんように、と短冊たんざくに願いをかけるとしよう。

稲垣いながき栄洋『蝶々ちょうちょうはなぜ菜の葉にとまるのか』(草思社)による)
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