1. 【1】現在『子供』の問題がたいへん
捉えにくく、なにかと不気味なのは、一つには、社会のなかで子供についての
或る一定の共通
了解事項が成り立たなくなったからである。【2】と同時に「『子供』の問題というのはふつうの問題のように対象化し
分析的に
捉えていったところであまり意味をなさないからであろう。いまやいろいろな領域で単なる専門家というものは役に立たないといわれ『専門
馬鹿』などということばさえ出てくるようになった。【3】けれどもこの問題は、一方で現在ますます専門的知識が必要になっているだけに、どう対処すべきかは簡単ではない。そしてこの場合、なによりも専門的知識の質あるいは在り様が問われることになる。
2. 【4】永い間、知識とは無知あるいはタブラ・ラサ(白紙)に付け加えられ、積み重ねられたものであり、したがって、より多く知ることがより真理に近づくことだと考えられていた。【5】ところが事実は必ずしもそうとばかりはならずに、ものを多く知ること、多くの知識をもつことによって、かえって私たちの一人一人は在るがままにものを見ることをできなくなるという事態が生ずるようになった。【6】知識が創造的なかたちで働かされなくなるようになったといってもよければ、知識がかえって
疎外的に働くようになったといってもいい。こういうことは昔からもなかったわけではない。それは半可通と呼ばれる人たちにはよく見られたことであるけれど、なんといっても現在ほどには問題は
尖鋭化、
一般化していなかった。【7】現在、こうした場合に必要なことはなにか。それは、専門家であることが、専門的な知識を多くもっていることだけにとどまらず、専門的な知識そのものの
弊害を見破り、それに
囚われないでいることでなければならないだろう。【8】
純粋なあるいは形式的な論理からみれば、そういう作業は折角つくったものをこわすので、なにもしていないに等しいようにみえるかも知れない。しかし、このようなダイナミックな運動をとおしてはじめて、私たちは現実に
触れうることになるのである。【9】これはどのような分野についても言いうることだが、とりわけ『子供』の問題に関しては強調されて然るべきだろう。それというのも、『子供』の問題は、
囚われない眼で在るがままに見なければならないのに、これほど出来合いの知識によって
蔽われている領域はほかにないと思われるからである。【0】そこでは多くの知識が
惰性系つまり『見えない制度』と化しやすいのだ。∵
3. そのことがもっとも
極端なかたちで出てくるのは、『子供』あるいは『教育』の専門家たちによるレッテル
貼り(レイベリング)の問題である。そして、専門的な知識が『見えない制度』として
拘束的に働くとき、その担い手(エージェント)になるのが職業的専門家である。
彼らは職業的専門家として一面ではもちろん有効な働きをするけれど、他面ではそのポスト(地位や職)を保守しその存在意味を示すために、逆にわざわざ仕事をつくり出すことになる。知識や仕事によって自己を不必要に
権威づけることになる。その際、もっとも問題なのが、子供たちに対して
貼る『非行』や『落ちこぼれ』等々というレッテルなのである。
4. 大村英昭氏(『非行の社会学』一九八〇年)も言っている。
鑑別所によって、子供たちは『非行少年』というレッテルが公式に
貼られ、中学や高校の学内試験によって『落ちこぼれ』は公認のものとなるのだが、そのようにひとたび
貼られたレッテルは、専門エージェントの
権威によってきわめて動かしがたく
剥がしがたくなるだろう。しかも専門エージェントは、自分のところに連れてこられた子供たちになんらかのレッテルを
貼らずにはおかないし、またそのための専門的知識に事欠くことはない。そしてしばしば非行少年を救い出すのは、むしろ専門エージェントの
権威をもたない人、
俗にいう『
裸の人間』なのである、と。この
裸の人間というのが、専門的知識によって
囚われることのない眼をもって相手に接しうる人のことを指すのは言うまでもない。