長文 4.3週
1. 【1】現在『子供』の問題がたいへん捉えとら にくく、なにかと不気味なのは、一つには、社会のなかで子供についてのる一定の共通了解りょうかい事項じこうが成り立たなくなったからである。【2】と同時に「『子供』の問題というのはふつうの問題のように対象化し分析ぶんせき的に捉えとら ていったところであまり意味をなさないからであろう。いまやいろいろな領域で単なる専門家というものは役に立たないといわれ『専門馬鹿ばか』などということばさえ出てくるようになった。【3】けれどもこの問題は、一方で現在ますます専門的知識が必要になっているだけに、どう対処すべきかは簡単ではない。そしてこの場合、なによりも専門的知識の質あるいは在り様が問われることになる。
2. 【4】永い間、知識とは無知あるいはタブラ・ラサ(白紙)に付け加えられ、積み重ねられたものであり、したがって、より多く知ることがより真理に近づくことだと考えられていた。【5】ところが事実は必ずしもそうとばかりはならずに、ものを多く知ること、多くの知識をもつことによって、かえって私たちの一人一人は在るがままにものを見ることをできなくなるという事態が生ずるようになった。【6】知識が創造的なかたちで働かされなくなるようになったといってもよければ、知識がかえって疎外そがい的に働くようになったといってもいい。こういうことは昔からもなかったわけではない。それは半可通と呼ばれる人たちにはよく見られたことであるけれど、なんといっても現在ほどには問題は尖鋭せんえい化、一般いっぱん化していなかった。【7】現在、こうした場合に必要なことはなにか。それは、専門家であることが、専門的な知識を多くもっていることだけにとどまらず、専門的な知識そのものの弊害へいがいを見破り、それに囚われとら  ないでいることでなければならないだろう。【8】純粋じゅんすいなあるいは形式的な論理からみれば、そういう作業は折角つくったものをこわすので、なにもしていないに等しいようにみえるかも知れない。しかし、このようなダイナミックな運動をとおしてはじめて、私たちは現実に触れふ うることになるのである。【9】これはどのような分野についても言いうることだが、とりわけ『子供』の問題に関しては強調されて然るべきだろう。それというのも、『子供』の問題は、囚われとら  ない眼で在るがままに見なければならないのに、これほど出来合いの知識によって蔽わおお れている領域はほかにないと思われるからである。【0】そこでは多くの知識が惰性だせい系つまり『見えない制度』と化しやすいのだ。∵
3. そのことがもっとも極端きょくたんなかたちで出てくるのは、『子供』あるいは『教育』の専門家たちによるレッテル貼りは (レイベリング)の問題である。そして、専門的な知識が『見えない制度』として拘束こうそく的に働くとき、その担い手(エージェント)になるのが職業的専門家である。彼らかれ は職業的専門家として一面ではもちろん有効な働きをするけれど、他面ではそのポスト(地位や職)を保守しその存在意味を示すために、逆にわざわざ仕事をつくり出すことになる。知識や仕事によって自己を不必要に権威けんいづけることになる。その際、もっとも問題なのが、子供たちに対して貼るは 『非行』や『落ちこぼれ』等々というレッテルなのである。
4. 大村英昭氏(『非行の社会学』一九八〇年)も言っている。鑑別かんべつ所によって、子供たちは『非行少年』というレッテルが公式に貼らは れ、中学や高校の学内試験によって『落ちこぼれ』は公認のものとなるのだが、そのようにひとたび貼らは れたレッテルは、専門エージェントの権威けんいによってきわめて動かしがたくがしがたくなるだろう。しかも専門エージェントは、自分のところに連れてこられた子供たちになんらかのレッテルを貼らは ずにはおかないし、またそのための専門的知識に事欠くことはない。そしてしばしば非行少年を救い出すのは、むしろ専門エージェントの権威けんいをもたない人、ぞくにいう『はだかの人間』なのである、と。このはだかの人間というのが、専門的知識によって囚われるとら   ことのない眼をもって相手に接しうる人のことを指すのは言うまでもない。