長文集  5月4週  ○芭蕉はこう言っている  nnga-05-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/15 14:39:41
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は
一番目の長文です。】
 さらに、人格を形成していくための重要な
場所として、かつては技術の修得が今日より
もはるかに重い手応えを持っていました。現
在も技術の修得が人間を作っていることは事
実ですが、しかし、これもまた、残念ながら
その重さの点で戦線を縮小しつつあるといわ
なければなりません。たとえば、昔は大工さ
んになるためには一生の努力を必要とすると
いわれたもので、私のうちへ時たま来てくれ
る大工さんは三十年のベテランですが、そう
いう人が、「大工というものは一生修行です
よ」と今でもいっています。しかし、その後
で彼は頭をかいて、「今どきこんなこといっ
ていると、時代からとり残されますがね」と
つけたすのです。
 というのは、現代では技術そのものが現実
体験ではなくて、情報化された一種の知識の
組み合わせになっていて、その分だけたいへ
ん修得しやすいかたちに変わっているからで
す。早い話が、板というもの一枚を取り上げ
ても、昔の板は人間が鉋を握って、その鉋を
動かす自分の腕を通して体験する本当のもの
でありました。しか し、現在の板はほとん
どが合成樹脂で、鉋や手は必要ではなく、い
わば、人間の目さえあればそれで用のすむ存
在になりつつありま す。一枚の板がもので
あることをやめて、しだいに板のイメージ、
すなわち一種の情報になりつつあるわけです

 そうなると、それを扱う個人の技術はいち
じるしく単純化され て、肉体に触れる体験
の領域が小さくなって来ます。今日、技術の
修得は一生の仕事だという人は、だんだん少
なくなり、だいたい免許証をもらえば、技術
はそれで完全に習得されたことになっていま
す。料理人や理髪師、自動車の運転手に学校
教師、すべて免許証をもらえば、彼にとって
職業および技術の修得段階は終りだという意
識が拡がっています。現に、それさえ持って
いればまず最低限度の生活はできるわけです
が、その代わり、その技術をさらに伸ばし 
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て、彼独特の技術にする楽しみもなくなりま
した。
(中略)
 職業のことをドイツ語ではベルーフ(Be
ruf)といいます が、ベルーフとは「神
の呼び声」という意味です。日本語にも「天
職」ということばがあるわけで、職業とは食
うために勝手に人間が選ぶものではなく、最
終的には運命か、あるいは神が人間をそこへ
呼びこむものだ、という考えが伝統的にあり
ました。それほど職業∵には神秘的といって
よいほどの重みがおかれていたのですが、そ
のひとつの理由は、人間が職業訓練の中で意
識的な知識以上のものを獲得する、という事
実ではなかったでしょうか。ものに触れる体
験というものは、たんなる知識の学習とは違
って、人間が自分で意識できない自己の部分
を豊かにします。鉋で板を削って十年、二十
年を過ごすということは、彼の肉体の思いが
けない部分をふとらせることもあるし、「職
人気質」などという、いわくいい難い精神の
部分を養うこともあります。じつは、人間の
個性とはそうした無意識なものの集積として
生まれるものであり、この部分こそ個人の中
で真に交換不可能な要素だというべきでしょ
う。
 これに対して、現代の現実が情報化してい
くということは、いいかえれば、現実のすべ
てが知識化していくことであり、その内部の
意識を越えた部分が消滅しつつある、という
ことだといえるでしょう。そして、それにつ
れて、現実とかかわる人間もまた情報化さ 
れ、肉体も気質も持たない観念的な存在に変
質しつつあるわけで す。ひとつの中心を持
ち、有機的な統一を持った「私」としての人
間が解体し、巨大で、しかし全体像の見えな
い、奇妙な機械の部分品になりつつあるのが
現代だと見るべきでしょう。

(山崎正和『混沌からの表現』による)

 【1】芭蕉はこう言っている――連句の席
にのぞんだときには、文机を前にして間髪を
入れず句を作るのであって、迷っては駄目で
ある。作りおわって文机から句を引きおろせ
ば、すでにそれは反故でしかない。【2】―
―もちろんこれは、その一瞬に持てる力量の
すべてを燃やしきらねばならないという意味
であり、誰にも首肯できる作者の覚悟だが、
しかしそれとは別に、そこで成った句は、い
かに名作であっても「文台引おろせば即(す
なわち)反故也」なのだろうか。【3】おそ
らくこの言葉も、名作は記録されて後にのこ
るということと別に矛盾する言説ではあるま
い。作品が録されて後世に伝わる、すなわち
俳諧の歴史と、俳諧の場はその成立の一瞬の
中にあるというのとは、別次元の出来事であ
り、ここで芭蕉が言いたかったのは歴史では
なく、「場」というものが俳諧には不可避で
あるという一事にほかならなかった。【4】
そう思うと「文台引おろせば即(すなわち)
反故也」は、芭蕉の時間感覚の中に、「場」
を含む形で時間が流れつづけていたことの証
言と受け取れよう。
 「場」といっても、空間的拡がりの形態を
とった「場」を思い描いてみることはたやす
い。【5】空間的な延長線が、特定の原理基
準に基づいて限定され、塞き止められて囲壁
(いへき)や枠ができれば、すぐに「場」が
成立する。「場」は限定、区劃されている 
が、固定してはいずに絶えず更新され、変形
してゆくものでもあ る。【6】「場」は地
盤ではない。そこからすれば、「場」は時間
的な「場」でもあるだろう。芭蕉の『おくの
ほそ道』の旅も、絶えず入れ替り改まる「場
」を方々と求めたさすらいの歩みであった 
が、これについては後で考えてゆくことにし
たい。【7】その旅先で土地の俳人にもてな
され、人々寄り集って一巻の歌仙を巻いた情
景ともなれば、明らかに連衆によって形づく
られた「場」が見えてくるし、従前からこの
「場」は「座」として語られてきた。
(中略)
 【8】一年三百六十五日、この物理的な年
の長さにおいて、祝祭の時間の占める割合は
ごく僅か、短いのが通例であろう。長々とい
つま∵でも祭が続き、終ったとも終っていな
いとも取れる曖昧さが生じたりすれば祭は堕
落、変質する。【9】祭の特色は時間的に限
定され、純粋であることであり、短い時間の
あいだしか持続しないことである。たとえ数
日に亙って祭が催されても、過ぎたあとで思
い返してみれば、短かった、あっという間に
過ぎ去ったという一抹の思いが残るのが祭な
のだ。【0】「褻」に対して「晴」の時間 
が、「俗」に対して「聖」の時間が負ったの
は、内的な魔性の霊力とその時間的な短さで
ある。一瞬の燃焼のうちにすべてが成るか然
らざれば無という極点的な思想までも含めて
、そこには短いもの、小なるものへと向かっ
て凝縮してゆく力がはたらいている。松尾芭
蕉は俳諧と名付けられる詩のわざに時間的な
「場」を設定したが、そのことを通じて――
時間の構造を通じて――小なるものに封じ込
められた重さを感じとっていた。それが彼の
詩人的な存在理法についての認識であったと
いう風に私は解したい。

(高橋英夫『ミクロコスモス――松尾芭蕉に
向って』より)