ガジュマロ の山 6 月 1 週 (5)
★能を見るとわかるが(感)   池新  
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
 【1】経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった公共の目的を促進することになる」。【2】ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。
 【3】経済学者の「悪魔」ぶりがもっとも顕著に発揮されるのは、環境問題に関してでしょう。多くの人にとって、資本主義が前提とする私的所有制こそ諸悪の根源です。環境破壊とは、私的所有制の下での個人や企業の自己利益の追求によって引き起こされると思っているはずです。
 【4】だが、経済学者はそのような常識を逆なでします。私的所有制とは、まさに環境問題を解決するために導入された制度だと言うのです。
 【5】『かつて人類は誰のものでもない草原で自由に家畜を放牧していました。家畜を一頭増やせば、それだけ多く肉や皮やミルクがとれます。草原は誰のものでもないので、家畜が食べる牧草はタダです。【6】確かに一頭増えれば他の家畜が食べる牧草が減り、その発育に影響しますが、自由に放牧されている家畜の中で自分の家畜が占める割合は微々たるものです。それゆえ、人々は草原に牧草がある限り、自分の家畜を増やしていくことになります。【7】その結果、牧草は次第に枯渇し、いつの日か無数の痩せこけた家畜がわずかに残された牧草を求めて争い合う事態が到来することになると言うのです。』
 【8】これこそ「元祖」環境問題です。そして経済学者は、それは、自然のままの草原が誰の所有でもない共有地であるがゆえの悲劇であると主張します。【9】環境問題とは「共有地の悲劇」だと言うのです。
 『事実もし草原が分割され、その一画を牧場として所有するようになると、その中の家畜はすべて「自分の」家畜となります。【0】∵その時さらに一頭飼うかどうかは、その一頭が新たに牧草を食べることによって、牧場内の他の家畜の発育がどれだけ影響を受けるかを勘案して決めるようになるはずです。もはや牧草はタダではありません。他人に牧場を貸したり売ったりする時でも、その中の牧草の価値に応じた賃料や価格を請求するようになるはずです。牧草は合理的に管理され、共有地の悲劇から救われることになります。私的所有制の下での自己利益の追求こそが環境破壊を防止することになると言うわけです。」
 「悪魔」の一員だけあって、経済学者の論理は完璧です(私自身この論理を三十年間教えてきました)。実際、一九九七年の地球温暖化防止に関する京都議定書は、この論理を取り入れました。先進諸国に温暖化ガスの排出枠を権利として割り当て、その過不足を売買することを条件付きで許したのです。
 ここでは温暖化ガスが汚染する大気は家畜が食べ荒らす牧草に対応し、各国が売買しうる排出枠は牧畜家が所有する牧場に対応しています。すなわち、それは大気という自然環境に一種の所有権を設定することによって、それが共有地である限り進行していく温暖化という悲劇を解決しようとしているのです。
 では、これで環境問題はすべてめでたく解決するのでしょうか?
 答えは「否」です。わが人類は不幸にも、経済学者の論理が作動しえない共有地を抱えているのです。
 それは「未来世代」の環境です。

(岩井克人()「未来世代への責任――経済学の「論理」と環境問題の「倫理」――」による)∵
 【1】能を見るとわかるが、能役者の足の動きは独特である。スーッと一歩足が出る時は足の指が全て内側へまがっている。しかも出きるまでは舞台の板にぴったりとはりついている。ところが足が出きったところでスーッとつま先が板をはなれて、かかとを板につけたまま足が空中にうく。【2】そのときは足の指が全部真直ぐになる。そしてそうなった足がポンと舞台の板へおちるのである。
 この足のはこびができない。いくら稽古してもできない。ところがほかのことにはやかましい師匠がこのことだけはなにも注意しないのである。【3】後で考えるとこの足の動きは体全体の構えができると自然にできるらしいので、体全体の構えもできないうちに足だけできるわけがないから注意しなかったらしいのだが、私はそんなことはわからないから、なんとか覚えたいと思った。【4】私がそう思ったのは、師匠の足が実にきれいだからであったし、たまたま見につれて行かれた師匠の師匠であった梅若実の舞台の足がたとえようもなく美しいものだったからである。私は足の動きに魂をうばわれたといってもいい。あの足、あの動き、あれができたらなアといつも思った。(中略)
 【5】日常現実の生活では、人間は絶対にあんな足の動きはしない。あの足の動きは不自然でグロテスクで普通の人間の足というものの働きを封じこめ、拒否している。この拒否の地点に実は、どんな役にも変化する変換の構造が仕掛けられている。【6】あの何者にもなりうる白紙の可能性とは、逆にいえば何者にもならないということをふくんでいるのであり、その前提にはきびしい自己否定がある。その前提があり、前提があるゆえに変換の構造が成立している。【7】そして変換の構造があるからこそ、能役者は観客の目の前で女から急に男になったり、化けものだと思うとたちまち人間になったりできるのである。
 そしてこの構造に対置しているもう一つの関係は、型とその型の美しさである。【8】大体私はこんな理屈を考えながら師匠や梅若実の足を見ていたのではない。私が夢中になって足を見ていたのは、ひたすら足の動きが美しかったからである。そこには人の心を奪う異様な力がある。そしてその力を追求していくとそこに型というものがうかび上がる。【9】私にとってはこの道筋は変えようがないものだ∵ったが実をいうと逆かも知れない。型をくりかえしているうちにあの力が生まれる。あの力が型を生むのではなくて、型が力を生む。実際にはそういうことだろう。型へ体をはめこむことによって型をこえる力に到達する。【0】しかしどっちにしても型がなければ、力はうまれようがない。型こそが全てを可能にするのであり、自然の、あるいは現実の体というものを能役者が拒否できる根拠は、この型というものなのである。
 これが日本人の少なくとも能役者の考え出した身体に対する思想である。この思想のもとには、人間の自然、身体というものへの否定がある。身体の生理というものが穢れたものだという考えがそこにあるのだろう。そういうことを考えると私はいつも明治の批評家の言葉を思い出す。日本人の日常生活にようやく洋服が浸透してきた時に、この批評家は洋服は体の線があらわになるから浅ましいといったのである。今ならばなぜ人間の体の線が浅ましいかということになるだろう。しかし、それが日本人のながい間の考え方であった。そうだったからこそ日本人の衣服というものは、体の線をかくすようにかくすようにと発達もしてきたし、そこに独特の美学をもちつづけてきた。(中略)
 この身体の思想は西欧近代のたとえばデカルトの示した精神と肉体の二元論とは、全く対照的なものである。精神と肉体が全く別の次元にあるのではなく、現実の肉体をこえてあらわれたもう一つの身体というものが、実は精神的なものだったからである。その体ははじめから日常自然の体を拒否し、その体をこえることによって身体というものに対する意識をかえる。精神と肉体を止揚するというような弁証法的なものですらない。その身体自体がすでに精神的なものであり、だから精神とのコミュニケーションというようなことが可能なのである。

(渡辺保『舞台という神話』による)