ガジュマロ の山 6 月 2 週 (5)
★コンピュータにかぎらず(感)   池新  
 【1】コンピュータにかぎらず、複雑なハイテク機器を自由に使いこなすということは容易なことではない。しかしだからといって、そういう機器を使いこなせる人は、「機械につよい人」だけだとして、「ふつうの人」や「機械によわい人」は「使えなくて当たりまえ」と考えたり、【2】「使えないのは本人が不器用だからだ」とか「頭が悪いからだ」としてあきらめていたのでは、世の中はちっともよくならないだろう。いつまでも、わけのわからない、使い勝手の悪い製品が市場にあふれ、ごく一部の人たちだけが技術の成果を享受しているにとどまってしまう。
 【3】ここはやはり発想を変えて、「使いにくい、わかりにくいのは機械が悪い」と、堂々と言える文化を創り出す必要がある。(中略)
 本来は、ほんとうのシロウトこそが「王様」なのだ。そういうフツウの人が「使いにくい機械」は、まさに「機械がわるい」のであり、そういう機械を平気で世に出すメーカーが悪いのだ。【4】しかも、宣伝では「誰でもすぐ使える」だの、「何にも知らんけど、やってみよう」などと言い、コンピュータとはおよそ縁のなさそうな芸能タレントが得意げにコンピュータを操作しているテレビコマーシャルを流しているが、【5】いざ買ってみたものの、どうしていいかわからず、途方にくれる消費者が続出しているという事態は、放っておいていいことではない。
 今日のコンピュータを中心としたテクノロジーの横暴さを人間の立場から批判し、方向付けを示すということは、実はユーザー(つまり一般市民)の責任なのである。【6】「テクノロジーは本来人間のためであり、使いやすく、わかりやすいものであるべきだ」ということ、「間違えたり、勘違いしたりすることは、機械のほうを改善すべきことなのだ」ということを、きちんと自覚して、メーカーにうったえ、子どもたちにもはっきり教えておくべきである。
 【7】このためになによりもまずテクノロジーの産物としての道具は、すべて人間にとって使いやすく、親しみやすく、身体に「馴染みやすい」ものであるべきだという考えをはっきり表明し、しっかりほりさげておくべきであろう。【8】このような考え方は、一般的にはユーザー中心主義とよばれている。
 さて、ここで手始めに、ユーザーの側から道具に対する注文をつけてみよう。∵
 道具というのは、ユーザーの勝手な注文としては、少なくとも次の三つの条件を満たしてほしい。
【9】(1)道具は人間の代用物ではないし、人間に「かくあるべし」とか「こうすべきだ」という価値判断の基準を示すものであってはならない。(規範性)
(2)道具は人が何かの作業(当然それは道具の「外」の世界の仕事)を達成しようとしたとき、その達成を支援する手段として有効に機能してくれるものでなければならない。(手段性)【0】
(3)道具はしばらく使っているうちに「使っている」という意識がなくなり、それを使って実行している作業そのものに集中できるものでなければならない。(透明性)
 コンピュータが道具だと主張することは、当然これらの条件、すなわち規範性、手段性、そして透明性の条件を満たすべきだということである。
 このような道具観は、青山学院大学の鈴木宏昭氏によると、「奴隷としての」道具観だという。要するに「主人に命令するな、でしゃばるな、やるべきことは気づかないところでだまってやれ」と注文しているようなものだという。鈴木氏によると、人びとのこういう道具観は、ちょっと複雑な道具になると、「こんなもの使えん」といって投げ出したり、そうかと思うと逆に、「手なずける」ためには、講習会かなにかで「徹底訓練」を受けるしかないと思い込むことになるのだという。
 これは、たしかにもっともな主張であるが、ともかく、コンピュータをなんだかすごい「知能」をもった機械だとか、おそるおそる「ごきげんをうかがう」べきご主人さまというようなイメージが根強いときには、「ほんとうは、しょせん道具なんですよ。あなた自身が主人なんですよ」という発想をしてみることから、コンピュータのあり方を考えてみるのは十分意味があるだろう。