長文集  6月3週  ★井戸端園の(感)  nnga-06-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】井戸端園の若旦那が、ある日、私に
話してくれました。
 「施肥が充分で栄養状態のいい茶の木には
、花がほとんど咲きません。」
 花は、言うまでもなく植物の繁殖器官、次
の世代へ生命を受け継がせるための種子をつ
くる器官です。【2】その花を、植物が準備
しなくなるのは、終わりのない生命を幻覚で
きるほどの、エネルギーの充足状態が内部に
生じるからでしょうか。
 死を超えることのできない生命が、超えよ
うとするいとなみ――それが繁殖ですが、そ
のいとなみを忘れさせるほどの生の充溢を、
肥料が植物の内部に注ぎこむことは驚きです
。【3】幸福か不幸かは、別として。
 施肥を打ち切って放置すると、茶の木は再
び花を咲かせるそうです。多分、永遠を夢見
させてはくれないほどの、天与の栄養状態に
戻るのでしょう。
 茶は、もともと種子でふえる植物ですが、
現在、茶園で栽培されている茶の木のほとん
どは挿し木もしくは取り木という方法でふや
されています。
 【4】井戸端園の若旦那から、こんな話を
聞くことになったの は、私が茶所・狭山に
引越した年の翌春、彼岸ごろ、たまたま、取
り木という苗木づくりの作業を、家の近くで
見たことがきっかけです。
 【5】取り木は、挿し木と、ほぼ同じ原理
の繁殖法ですが、挿し木が、枝を親木から切
り離して土に挿しこむところを、取り木の場
合は、皮一枚つなげた状態で枝を折り、折り
口を土に挿しこむのです。親木とは皮一枚で
つながっていて、栄養を補給される通路が残
されているわけです。
 【6】茶の木は、根もとからたくさんの枝
に分かれて生長しますから、かまぼこ型に仕
上げられた茶の木の畝(うね)を縦に切った
と仮定すれば、その断面図は、枝がまるで扇
でもひろげたようにひろがり、縁が、密生し
た葉で覆われています。【7】取り木は、そ
の枝の主要な∵ものを、横に引き出し、中ほ
どをポキリと折って、折り口を土に挿しこみ
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、地面に這った部分は、根もとへと引き戻さ
れないよう、逆U字型の割り竹で上から押さ
え、固定します。【8】土の中の枝の基部に
根が生えたころ、親木とつながっている部分
は切断され、一本の独立した苗木になるわけ
ですが、取り木作業をぼんやり見ている限り
では、尺余の高さで枝先の揃っている広い茶
畑が、みるみる、地面に這いつくばってゆく
という光景です。
 【9】もともと、種子でふえる茶の木を、
このような方法でふやすようになった理由は
、種子には変種を生じることが多く、また、
交配によって作った新種は、種子による繁殖
を繰り返している過程で元の品種のいずれか
一方の性質に戻る傾向があるからです。【0
】(中略)
 「随分、人間本位な木に作り変えられてい
るわけです。」若旦那は笑いながらそう言い
、「茶畑では、茶の木がみんな栄養生長とい
う状態に置かれている。」とつけ加えてくれ
ました。
 外からの間断ない栄養攻め、その苦渋が、
内部でいつのまにか安息とうたた寝に変わっ
ているような、けだるい生長――そんな状態
を私は、栄養生長という言葉に感じました。
 で、私は聞きました。
 「花を咲かせて種子をつくる、そういう、
普通の生長は、何と言うのですか?」
 「成熟生長、と言ってます。」
 成熟が、死ぬことであったとは!
 栄養生長と成熟生長という二つの言葉の不
意打ちにあった私は二つの生長を瞬時に体験
してしまった一株の茶の木でもありました。
(中略)
 その後、かなりの日を置いて、同じ若旦那
から聞いた話に、こういうのがありました。
 ――長い間、肥料を吸収しつづけた茶の木
が老化して、もはや吸収力をも失ってしまっ
たとき、一斉に花を咲き揃えます。
 花とは何かを、これ以上鮮烈に語ることが
できるでしょうか。