長文 6.3週
1. 【1】井戸端いどばた園の若旦那わかだんなが、ある日、私に話してくれました。
2. 「施肥せひ充分じゅうぶんで栄養状態のいい茶の木には、花がほとんど咲きさ ません。」
3. 花は、言うまでもなく植物の繁殖はんしょく器官、次の世代へ生命を受け継がう つ せるための種子をつくる器官です。【2】その花を、植物が準備しなくなるのは、終わりのない生命を幻覚げんかくできるほどの、エネルギーの充足じゅうそく状態が内部に生じるからでしょうか。
4. 死を超えるこ  ことのできない生命が、超えよこ  うとするいとなみ――それが繁殖はんしょくですが、そのいとなみを忘れさせるほどの生の充溢じゅういつを、肥料が植物の内部に注ぎこむことは驚きおどろ です。【3】幸福か不幸かは、別として。
5. 施肥せひを打ち切って放置すると、茶の木は再び花を咲かせるさ   そうです。多分、永遠を夢見させてはくれないほどの、天与てんよの栄養状態に戻るもど のでしょう。
6. 茶は、もともと種子でふえる植物ですが、現在、茶園で栽培さいばいされている茶の木のほとんどは挿し木さ きもしくは取り木という方法でふやされています。
7. 【4】井戸端いどばた園の若旦那わかだんなから、こんな話を聞くことになったのは、私が茶所・狭山さやま引越しひっこ た年の翌春、彼岸ひがんごろ、たまたま、取り木という苗木なえぎづくりの作業を、家の近くで見たことがきっかけです。
8. 【5】取り木は、挿し木さ きと、ほぼ同じ原理の繁殖はんしょく法ですが、挿し木さ きが、枝を親木から切り離しき はな て土に挿しさ こむところを、取り木の場合は、皮一枚つなげた状態で枝を折り、折り口を土に挿しさ こむのです。親木とは皮一枚でつながっていて、栄養を補給される通路が残されているわけです。
9. 【6】茶の木は、根もとからたくさんの枝に分かれて生長しますから、かまぼこ型に仕上げられた茶の木のうねを縦に切ったと仮定すれば、その断面図は、枝がまるでおうぎでもひろげたようにひろがり、えんが、密生した葉で覆わおお れています。【7】取り木は、その枝の主要な∵ものを、横に引き出し、中ほどをポキリと折って、折り口を土に挿しさ こみ、地面に這っは た部分は、根もとへと引き戻さひ もど れないよう、逆U字型の割り竹で上から押さえお  、固定します。【8】土の中の枝の基部に根が生えたころ、親木とつながっている部分は切断され、一本の独立した苗木なえぎになるわけですが、取り木作業をぼんやり見ている限りでは、尺余の高さで枝先の揃っそろ ている広い茶畑が、みるみる、地面に這いつくばっは     てゆくという光景です。
10. 【9】もともと、種子でふえる茶の木を、このような方法でふやすようになった理由は、種子には変種を生じることが多く、また、交配によって作った新種は、種子による繁殖はんしょく繰り返しく かえ ている過程で元の品種のいずれか一方の性質に戻るもど 傾向けいこうがあるからです。【0】(中略)
11. 「随分ずいぶん、人間本位な木に作り変えられているわけです。」若旦那わかだんなは笑いながらそう言い、「茶畑では、茶の木がみんな栄養生長という状態に置かれている。」とつけ加えてくれました。
12. 外からの間断ない栄養攻めせ 、その苦渋くじゅうが、内部でいつのまにか安息とうたた寝   ねに変わっているような、けだるい生長――そんな状態を私は、栄養生長という言葉に感じました。
13. で、私は聞きました。
14. 「花を咲かせさ  て種子をつくる、そういう、普通ふつうの生長は、何と言うのですか?」
15. 「成熟生長、と言ってます。」
16. 成熟が、死ぬことであったとは!
17. 栄養生長と成熟生長という二つの言葉の不意打ちにあった私は二つの生長を瞬時しゅんじに体験してしまった一株の茶の木でもありました。(中略)
18. その後、かなりの日を置いて、同じ若旦那わかだんなから聞いた話に、こういうのがありました。
19. ――長い間、肥料を吸収しつづけた茶の木が老化して、もはや吸収力をも失ってしまったとき、一斉いっせいに花を咲きさ 揃えそろ ます。
20. 花とは何かを、これ以上鮮烈せんれつに語ることができるでしょうか。