長文集  6月4週  ○人間が、他の動物においては  nnga-06-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/15 14:40:18
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は
一番目の長文です。】
 パリとロンドンを往復したたくさんの書簡
において、熊楠が書いていることの中でも、
もっとも重要なのは、事という概念をめぐる
彼の思考である。ここには、とても現代的な
思考法を、みいだすことができる。熊楠はそ
の考えを、まず自分の考える学問の方法論と
して、語り出している。
 熊楠の考えでは、事は心と物がまじわると
ころに生まれる。たとえば、建築などという
ものも、事である。その場合、建築家は自分
の頭の中に生まれた非物質的なプランを、土
や木やセメントや鉄を使って現実化しようと
するだろう。建築物そのものは物だけれど 
も、それは心界でおこる想像や夢のような出
来事を実現すべくつくりだされた。つまり、
それはひとつの事として、心と物があいまじ
わる境界面のようなところにあらわれてくる
現象にほかならないことになる。
 このプロセスは、もっと精密に研究してみ
ることもできる。建築家は設計図を描(か)
く。そして、その設計図をもとにして、建築
の物質化が実行される。このときの設計図も
また、事なのである。設計図は、建築家の頭
の中に浮かんだアイディアを、明確な構造を
もった透視法の中に定着させるものだ。ここ
では「設計図の描( か)き方」という表現
法自体が、アイディアの物質化をたすけてい
る。だから、そこでも心と物が、出会ってい
る。そうなると、建築という行為そのものが
、幾重にも積み重ねあわされた事の連鎖とし
て、できあがっていることがわかる。記号や
表象が関係しているものは、こうして考えて
みると、すべて事なのだということが、はっ
きりしてくる。
 いまの学問にいちばん欠けているものは、
この事の本質についての洞察だ、と熊楠は考
えた。彼の考えでは、純粋なただ心だけのも
のとか、純粋にただ物だけのもの、というの
は、人間の世界にとっては意味をもたず、あ
らゆるものが心と物のまじわりあうところに
生まれる事として、現象している。しかも、
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心界における運動は、物界の運動をつかさど
っているものとは、違う流れと原理にしたが
っている。このために物界では、因果応報と
いうことが確実におこるのに、純粋な心界で
も因果応報がおこるとは限らないのだ。たと
えその人の心に悪い考えがおこったとしても
、その考えが物界と出会って、そこにたしか
な事の痕跡をつくりだし、物界の流∵れの中
に巻き込まれてしまうことがなかったとした
ら、そのことだけで は、けっして将来に報
いをつくりだすとは限らない。
 事は異質なものの出会いのうちに、生成さ
れる。そして、その事が、ふたたび心や物に
フィードバックして働きかける過程の積み重
ねとして、人間にとって意味のある世界は、
つくりだされてくる。熊楠はこの事の連鎖の
中から、ひとつの原則がみいだせるはずだと
考えた。
 ここで熊楠が考えていることは、とても大
きな現代的な意味をもっている。まず彼は、
人間の心の働きが関係するいっさいの現象に
ついての学問にとって、いちばん重要な意味
をもつのは事であるけれども、この事は対象
として分離することができない構造をもって
いる、と言っているのだ、心界におこる動き
が、それとは異質な物界に出会ったとき、そ
こに事の痕跡がつくりだされる。しかし、そ
の事はもともと心界の動きにつながっている
ものだから、心界の働きである知性には、事
を物のように対象化してあつかうことはでき
ないのだ。しかし、その分離不可能、対象化
不可能なダイナミックな運動である事をあつ
かうことができなければ、どんな学問でも、
自分は世界をあつかっているなどと、大口を
たたくことはできなくなるわけだ。
 ここには、二十世紀の自然科学が量子論の
誕生をまって、はじめて直面することになっ
た「観測問題」の要点が、すでに熊楠独自の
言い回しによって、はっきりと先取りされて
いる。

(中沢新一『森のバロック』による)

 【1】人間が、他の動物においては例外な
くそうであるような、完全に特殊化された器
官や本能をそなえていないこと、自然のまま
の状況に適応することによって生存してゆく
ことはできないこと、このことは、人間にと
っては環境世界なるものが存しないことを意
味している。【2】動物が個々の状況に面し
ていかに行動してゆくべきかを決定するのは
、彼の内なる自然そのものであった。それに
反して、人間が自然のなかで生存しうるため
には、彼自身が自分の行動によって状況を変
えてゆかなければならない。【3】言いかえ
れば、動物に対しては自然が、始めからそれ
ぞれの環境世界をあたえているのであるが、
人間は自然に対してはたらきかけることによ
って、初めて自分の生活環境を作り出さなけ
ればならない。【4】この人間のはたらきに
よって形成されるもの、それが広い意味での
文化とよばれうるならば、文化をもつことは
人間にとって生物学的に必然である。そして
この文化世界のほかに、自然のままの環境世
界なるものは人間にとって本来的に存しえな
い。【5】極言すれ ば、人間には自然はな
いのである。しかも環境世界と違って、もは
や人間という種に共通のものとして一定の文
化世界があるわけではなく、それぞれの民族
や社会集団がそれぞれ別の文化形態を作るの
である。
 【6】このように見てくると、人間におい
ては動物の場合とは本質的に違った意味での
自発性ということが考えられなければならな
い。すなわち、環境世界からの刺戟に対する
反応として、すでに自分のなかにそなわって
いる本能によって行動するという意味での自
発性「物体の運動との対比において」ではな
くて、【7】むしろ逆に、本能的な直接性が
欠如していることにおいて成立する自発性、
少し逆説的な言い方になるが、直接の動因が
与えられていないがゆえに行われなければな
らぬ自発性である。これは知覚の面でも運動
の面でも見られる。
 【8】われわれの知覚世界は、たんに受動
的に成立しているものではなく、われわれに
よって構成されたものである。動物は生存に
必要な刺戟しかうけないのに反して、人間は
もともと刺戟過剰の状態にあり、生活を順調
にいとなむためにはこの不均衡を何らかの形
で∵克服してゆかねばならない。【9】幼児
心理学によれば、産児は最初のうちはたいて
いの刺戟に対して不快感の反応を示す。うぶ
声も苦痛感の表現にほかならないと言われて
いる。そこでまずこの「制戟」の充満がいち
おう遮蔽されることになる。【0】ある実験
報告によれば、音の刺戟に対し、二ヵ月目に
はかなりの程度まで不快さなしに耐えるよう
になり、さらに三ヵ月目頃からは無関心でい
ることができるようになる。この無関心さの
程度は、拒否的および志向的な「反応」との
割合において、始めは増大してゆき、八ヵ月
目頃最大になる。この段階を経たうえで、こ
んどはそれらの「制 戟」を加工してゆく能
力が発達し始める。それはほぼ十ヵ月目頃か
ら見られ、積極的に外界に向かう態度が明確
になって、手でものをつかむ運動が発達して
ゆくのと並行している。幼児におけるこの経
過はもちろん「無意識的に」おこなわれるこ
とである。しかし人間が生活の必要にとって
は過剰の刺戟に対し、それを自分のはたらき
によって処理し秩序づけ加工して、みずから
の知覚世界を構成してゆく、その最初の段階
がここに見られるのである。そのはたらきの
より進んだ段階における重要な道具が言語に
ほかならない。われわれは知覚されるさまざ
まのものに対して言語その他の記号をもって
おきかえ、その記号にともなう表象とその意
味の理解によって対象世界を体系化してゆく
。これがわれわれの認識活動である。

(山本信『形而上学の可能性』より)