長文集  4月4週  ○近代日本の悲劇は  nnga2-04-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/02/21 17:28:04
 【1】近代日本の悲劇は、自分を育て、自
分が発展させた文化 と、まるでちがった歴
史と伝統をもつヨーロッパ文化に支えられた
文明を、是が非でもとりいれなければならぬ
羽目におちこんだというところに、大きな原
因があるのは、多くの人の説く通りである。
【2】私たちは、紀元六世紀にかつて日本が
圧倒的に優勢なアジア大陸の文化に接し、そ
れを模倣することになった時、どんな大きな
眩惑を覚えたか、今となってはこれを如実に
心に浮かべることができない。【3】混乱は
大きかったに相違ないし、また、そこには、
彼らのかつて感じたことのない深く大きな歓
喜と恐れの入りまじっていた未聞の眩惑があ
ったろう。
 ところで、日本が今も昔も先進国を模倣し
たといっても、十九世紀日本がヨーロッパ文
化に接した場合と、この六世紀の経験とで 
は、そこにいくつかの違いがある。【4】第
一に、私たちの祖先が十三世紀以上前に、大
陸文化に接した時は、彼らはほとんど文化ら
しい文化を何ももっていなかった。日本には
、文字がなかったし、鉄器もなく、第一、こ
ちら側には国家の機構もまだ整わず、官僚も
組織されてなかった。【5】日本人は、徹底
的に無条件に、大陸文化をとり入れざるをえ
なかった。そうして、その影響は、『古事記
』のかかれた八世紀から計算しても、十九世
紀まで、十世紀以上におよんだ。
 ところが十九世紀になって、ヨーロッパ文
化が、日本に渡来した時には、日本はもうま
ったくの非文明国ではなかった。【6】そこ
には、たとえ荷風のいう本店と支店の関係は
あったにしたところ で、とにかく、それに
なりの宗教、哲学、政治、芸術の独自の体系
ができあがっていた。だから、西洋文化の影
響は、当然、昔の場合より、大きな抵抗にぶ
つかったわけだし、自分の独立を救うために
黒船の前に降伏を決意した日本側の態度は、
ある種の条件つきだった。【7】これは、た
とえ、国民の一部が昔と同じ無条件降伏をす
すんで希望したとしても、なお、不可避的に
、そうならざるをえなかった。そのうえ、こ
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の西洋の影響は時間的にみても、まだ一世紀
に∵もたりない。【8】いまから半世紀以前
に、荷風がどんなに苛立ったにせよ、日本人
の多くが、根本的に彼とちがう目で、西洋を
見、日本を保存していたことは、やむをえな
いことでもあったわけだ。
(中略)
 模倣が生産的でありうるということを、私
が今ここで詳しくのべる必要もないであろう
。【9】たとえば漢字の採用一つとってみて
も、それが日本人の思考の仕方にどんな複雑
な得失をあたえたか は、現代の日本人を考
える場合にも、たいせつな問題を含んでい 
る。【0】かりに七世紀の日本人が漢字を採
用しなかったら――というのは、すでに、愚
かしい設問であるけれども――、日本はより
独自の文化を生みだしていたろうという結論
を出すことは、不可能ではないだろう。二十
世紀日本のある人たちは、漢字漢文を採用し
ている限り、日本人は正確にものを考えるこ
とができないと、主張しているようにみえる
。しかし、その場合の「正確な考え方」とい
う観点が、すでに西洋の影響であって、けっ
して日本人の自発的なものでないことは別に
しても――そうでなければ、日本人はシナ文
化渡来前は正確な考え方をしていたことにな
るはずだが、そんなことは滑稽である――、
現代の日本人のなかには、すでに、そういう
「正確な考え方」をしている人びとがいる。
その人たちは、すべ て、西洋の考え方を消
化し身につけているから、漢字と漢文を本店
とする国文・日本文をもって、正確に考える
力をもつようになったのだ。しかし、彼はそ
の能力を身につけるまでには、漢字の模倣に
はじまった日本語の働きが不可欠だった。簡
単にいってしまえば、今の日本語の状態にし
ても、考えるべきことは考えられるのだ。た
だ、それには、現在では「西洋」の消化を絶
対に必要とする。「わが日本は今も昔も、先
進国の模倣による」必要がある所以だ。

(吉田秀和『荷風を読んで』より、一部改変
。)