長文集  5月4週  ○芭蕉はこう言っている  nnga2-05-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/02/21 18:28:28
 【1】芭蕉はこう言っている――連句の席
にのぞんだときには、文机を前にして間髪を
入れず句を作るのであって、迷っては駄目で
ある。作りおわって文机から句を引きおろせ
ば、すでにそれは反故でしかない。【2】―
―もちろんこれは、その一瞬に持てる力量の
すべてを燃やしきらねばならないという意味
であり、誰にも首肯できる作者の覚悟だが、
しかしそれとは別に、そこで成った句は、い
かに名作であっても「文台引おろせば即(す
なわち)反故也」なのだろうか。【3】おそ
らくこの言葉も、名作は記録されて後にのこ
るということと別に矛盾する言説ではあるま
い。作品が録されて後世に伝わる、すなわち
俳諧の歴史と、俳諧の場はその成立の一瞬の
中にあるというのとは、別次元の出来事であ
り、ここで芭蕉が言いたかったのは歴史では
なく、「場」というものが俳諧には不可避で
あるという一事にほかならなかった。【4】
そう思うと「文台引おろせば即(すなわち)
反故也」は、芭蕉の時間感覚の中に、「場」
を含む形で時間が流れつづけていたことの証
言と受け取れよう。
 「場」といっても、空間的拡がりの形態を
とった「場」を思い描いてみることはたやす
い。【5】空間的な延長線が、特定の原理基
準に基づいて限定され、塞き止められて囲壁
(いへき)や枠ができれば、すぐに「場」が
成立する。「場」は限定、区劃されている 
が、固定してはいずに絶えず更新され、変形
してゆくものでもあ る。【6】「場」は地
盤ではない。そこからすれば、「場」は時間
的な「場」でもあるだろう。芭蕉の『おくの
ほそ道』の旅も、絶えず入れ替り改まる「場
」を方々と求めたさすらいの歩みであった 
が、これについては後で考えてゆくことにし
たい。【7】その旅先で土地の俳人にもてな
され、人々寄り集って一巻の歌仙を巻いた情
景ともなれば、明らかに連衆によって形づく
られた「場」が見えてくるし、従前からこの
「場」は「座」として語られてきた。
(中略)
 【8】一年三百六十五日、この物理的な年
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
の長さにおいて、祝祭の時間の占める割合は
ごく僅か、短いのが通例であろう。長々とい
つま∵でも祭が続き、終ったとも終っていな
いとも取れる曖昧さが生じたりすれば祭は堕
落、変質する。【9】祭の特色は時間的に限
定され、純粋であることであり、短い時間の
あいだしか持続しないことである。たとえ数
日に亙って祭が催されても、過ぎたあとで思
い返してみれば、短かった、あっという間に
過ぎ去ったという一抹の思いが残るのが祭な
のだ。【0】「褻」に対して「晴」の時間 
が、「俗」に対して「聖」の時間が負ったの
は、内的な魔性の霊力とその時間的な短さで
ある。一瞬の燃焼のうちにすべてが成るか然
らざれば無という極点的な思想までも含めて
、そこには短いもの、小なるものへと向かっ
て凝縮してゆく力がはたらいている。松尾芭
蕉は俳諧と名付けられる詩のわざに時間的な
「場」を設定したが、そのことを通じて――
時間の構造を通じて――小なるものに封じ込
められた重さを感じとっていた。それが彼の
詩人的な存在理法についての認識であったと
いう風に私は解したい。

(高橋英夫『ミクロコスモス――松尾芭蕉に
向って』より)