1. 【1】人間と人間とのかかわりというものは
相互的な
環境関係である。A、Bふたりの人間がいるとき、AはBにとっての
環境の一部であり、BはAにとっての
環境の一部だ。人間関係というのは、人間がたがいに他人にとっての
環境である、という関係のことである。【2】その主体と
環境とが、シンボル的
交渉をおこなうときにうまれる関係が、コミュニケイション過程というものだ。読む能力と書く能力とのあいだに落差がある、ということは、この文脈のうえでかんがえてみると、社会のぜんたいのなかのある部分は、しきりと人工的情報を発するが、【3】すくなからぬ部分は、発信能力をほとんどもたず、もっぱら受信専門で生活している、ということを意味する。あるいは、人間
相互がとりむすんでいる
環境関係のなかに、大きな
歪みがある、ということを意味する。
2. 【4】これは、ぐあいのわるいことではないか。字が読めるけれども、書けない、ということは、いわば、着信専用電話のごときもので、まさしくそのことこそ、現代のわれわれが社会的情報によって一方的にうごかされているということの
象徴であるように思われる。
3. 【5】ジョージ・オウエルは『1984年』のなかで、
極端に一方的に集中された情報管理社会のすがたをえがいた。そこでは、「
偉大なる兄弟(ビッグ・ブラザーズ)」という名の人格化された中央管理装置が、ひとりひとりの人間の行動を個別的にテレビ・カメラによって
監視している。【6】全国民的な体操の時間に、体操をさぼっている人間を見つけると、「
偉大なる兄弟」は、スピーカーをつうじて
叱りつける。いつも、一方的に
監視されている人間には、それに
対抗する手段もない。ただ、
諾々として、その命令に服するだけだ。【7】いや、そもそも、
対抗という思想をこれっばかしでも心のなかに
抱く人物の存在を『1984年』の世界はゆるさないのである。
4. オウエルの世界は、もちろん、
痛烈な
風刺をふくむ空想科学小説であって、それは、とうてい、ありうる話とは思えない。【8】その発想は、
奇想天外である。しかし、われわれの情報行動が、情報を∵「うける」ことだけに終始するかぎり、『1984年』的な
状況にちかい
状況が、われわれのまわりに発生しないとはかぎらない。
5. 【9】そして、その兆候はこの本のなかでくりかえしのべたように、現代のわれわれのあいだに、うまれかけているようにもみえる。われわれは、専門的な情報の生産者のつくるもろもろの情報、すなわちイメージだの意見だのを消費する。【0】いや、まえにみたように、もろもろの「商品」じたいも観念化されているから、こんにちでは、商品や
サーヴィスの消費じたいが、情報消費的な側面をもっている。いったい、どれだけの情報消費にわれわれがおカネと時間をついやしているか、ほとんどはかり知れないものがあるというべきであろう。
6.
極端ないいかたをすれば、こんにちの経済というものは、シンボルの
巨大な
交換過程であるのかもしれぬ。いや、経済の基本になっている
貨幣じたいが、ひとつの社会的シンボルなのであった。
7. そうしたもろもろの社会的情報をわれわれは消費しつづけて生活している。新聞や週刊誌を読む、というのも情報の消費だし、ラジオ、テレビにかじりつくのも、あきらかに情報の消費である。デザインのいい品物を買うのも、
服飾の流行を追いかけるのも、情報の消費だ。そして、情報の消費というのは、たのしい経験であることにちがいない。われわれは、おカネを
払って、さまざまの経験を買っているのである。
8. しかし、社会ぜんたいのなかで、ごく一部の人間だけが情報の生産と流通をにぎり、大多数の人間は、もっぱら消費専門というのがもし実態であるとするなら、われわれの世界と『1984年』の世界とのあいだにあるちがいは、むしろ、程度の差なのであって、質の差ではないようにも思える。受信専用人間のふえた社会というのは、けっして健康な社会ではないのだ。
9. (
加藤秀俊『情報行動』より)