長文集  6月4週  ○人間が、他の動物においては  nnga2-06-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/02/21 18:39:11
 【1】人間が、他の動物においては例外な
くそうであるような、完全に特殊化された器
官や本能をそなえていないこと、自然のまま
の状況に適応することによって生存してゆく
ことはできないこと、このことは、人間にと
っては環境世界なるものが存しないことを意
味している。【2】動物が個々の状況に面し
ていかに行動してゆくべきかを決定するのは
、彼の内なる自然そのものであった。それに
反して、人間が自然のなかで生存しうるため
には、彼自身が自分の行動によって状況を変
えてゆかなければならない。【3】言いかえ
れば、動物に対しては自然が、始めからそれ
ぞれの環境世界をあたえているのであるが、
人間は自然に対してはたらきかけることによ
って、初めて自分の生活環境を作り出さなけ
ればならない。【4】この人間のはたらきに
よって形成されるもの、それが広い意味での
文化とよばれうるならば、文化をもつことは
人間にとって生物学的に必然である。そして
この文化世界のほかに、自然のままの環境世
界なるものは人間にとって本来的に存しえな
い。【5】極言すれ ば、人間には自然はな
いのである。しかも環境世界と違って、もは
や人間という種に共通のものとして一定の文
化世界があるわけではなく、それぞれの民族
や社会集団がそれぞれ別の文化形態を作るの
である。
 【6】このように見てくると、人間におい
ては動物の場合とは本質的に違った意味での
自発性ということが考えられなければならな
い。すなわち、環境世界からの刺戟に対する
反応として、すでに自分のなかにそなわって
いる本能によって行動するという意味での自
発性「物体の運動との対比において」ではな
くて、【7】むしろ逆に、本能的な直接性が
欠如していることにおいて成立する自発性、
少し逆説的な言い方になるが、直接の動因が
与えられていないがゆえに行われなければな
らぬ自発性である。これは知覚の面でも運動
の面でも見られる。
 【8】われわれの知覚世界は、たんに受動
的に成立しているものではなく、われわれに
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よって構成されたものである。動物は生存に
必要な刺戟しかうけないのに反して、人間は
もともと刺戟過剰の状態にあり、生活を順調
にいとなむためにはこの不均衡を何らかの形
で∵克服してゆかねばならない。【9】幼児
心理学によれば、産児は最初のうちはたいて
いの刺戟に対して不快感の反応を示す。うぶ
声も苦痛感の表現にほかならないと言われて
いる。そこでまずこの「制戟」の充満がいち
おう遮蔽されることになる。【0】ある実験
報告によれば、音の刺戟に対し、二ヵ月目に
はかなりの程度まで不快さなしに耐えるよう
になり、さらに三ヵ月目頃からは無関心でい
ることができるようになる。この無関心さの
程度は、拒否的および志向的な「反応」との
割合において、始めは増大してゆき、八ヵ月
目頃最大になる。この段階を経たうえで、こ
んどはそれらの「制 戟」を加工してゆく能
力が発達し始める。それはほぼ十ヵ月目頃か
ら見られ、積極的に外界に向かう態度が明確
になって、手でものをつかむ運動が発達して
ゆくのと並行している。幼児におけるこの経
過はもちろん「無意識的に」おこなわれるこ
とである。しかし人間が生活の必要にとって
は過剰の刺戟に対し、それを自分のはたらき
によって処理し秩序づけ加工して、みずから
の知覚世界を構成してゆく、その最初の段階
がここに見られるのである。そのはたらきの
より進んだ段階における重要な道具が言語に
ほかならない。われわれは知覚されるさまざ
まのものに対して言語その他の記号をもって
おきかえ、その記号にともなう表象とその意
味の理解によって対象世界を体系化してゆく
。これがわれわれの認識活動である。

(山本信『形而上学の可能性』より)