1. 【1】人間が、他の動物においては例外なくそうであるような、完全に
特殊化された器官や本能をそなえていないこと、自然のままの
状況に適応することによって生存してゆくことはできないこと、このことは、人間にとっては
環境世界なるものが存しないことを意味している。【2】動物が個々の
状況に面していかに行動してゆくべきかを決定するのは、
彼の内なる自然そのものであった。それに反して、人間が自然のなかで生存しうるためには、
彼自身が自分の行動によって
状況を変えてゆかなければならない。【3】言いかえれば、動物に対しては自然が、始めからそれぞれの
環境世界をあたえているのであるが、人間は自然に対してはたらきかけることによって、初めて自分の生活
環境を作り出さなければならない。【4】この人間のはたらきによって形成されるもの、それが広い意味での文化とよばれうるならば、文化をもつことは人間にとって生物学的に必然である。そしてこの文化世界のほかに、自然のままの
環境世界なるものは人間にとって本来的に存しえない。【5】極言すれば、人間には自然はないのである。しかも
環境世界と
違って、もはや人間という種に共通のものとして一定の文化世界があるわけではなく、それぞれの民族や社会集団がそれぞれ別の文化形態を作るのである。
2. 【6】このように見てくると、人間においては動物の場合とは本質的に
違った意味での自発性ということが考えられなければならない。すなわち、
環境世界からの
刺戟に対する反応として、すでに自分のなかにそなわっている本能によって行動するという意味での自発性「物体の運動との対比において」ではなくて、【7】むしろ逆に、本能的な直接性が
欠如していることにおいて成立する自発性、少し逆説的な言い方になるが、直接の動因が
与えられていないがゆえに行われなければならぬ自発性である。これは知覚の面でも運動の面でも見られる。
3. 【8】われわれの知覚世界は、たんに受動的に成立しているものではなく、われわれによって構成されたものである。動物は生存に必要な
刺戟しかうけないのに反して、人間はもともと
刺戟過剰の状態にあり、生活を順調にいとなむためにはこの
不均衡を何らかの形で∵
克服してゆかねばならない。【9】幼児心理学によれば、産児は最初のうちはたいていの
刺戟に対して不快感の反応を示す。うぶ声も苦痛感の表現にほかならないと言われている。そこでまずこの「制
戟」の
充満がいちおう
遮蔽されることになる。【0】ある実験報告によれば、音の
刺戟に対し、二
ヵ月目にはかなりの程度まで不快さなしに
耐えるようになり、さらに三
ヵ月目
頃からは無関心でいることができるようになる。この無関心さの程度は、
拒否的および志向的な「反応」との割合において、始めは増大してゆき、八
ヵ月目
頃最大になる。この段階を経たうえで、こんどはそれらの「制
戟」を加工してゆく能力が発達し始める。それはほぼ十
ヵ月目
頃から見られ、積極的に外界に向かう態度が明確になって、手でものをつかむ運動が発達してゆくのと並行している。幼児におけるこの経過はもちろん「無意識的に」おこなわれることである。しかし人間が生活の必要にとっては
過剰の
刺戟に対し、それを自分のはたらきによって処理し
秩序づけ加工して、みずからの知覚世界を構成してゆく、その最初の段階がここに見られるのである。そのはたらきのより進んだ段階における重要な道具が言語にほかならない。われわれは知覚されるさまざまのものに対して言語その他の記号をもっておきかえ、その記号にともなう表象とその意味の理解によって対象世界を体系化してゆく。これがわれわれの認識活動である。
4.(山本信『
形而上学の可能性』より)