長文集  2月1週  ★どんな理路整然とした方法論に(感)  nnge-02-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2016/12/15 04:28:33
【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】そういう「定着文化」というか、う
ごかないことがよしとされる日本で育ったわ
たしは、長じてアラビアでのフィールドワー
クをするようになったとき、そうではない文
化、「移動文化」ともいえるものにぶつかり
、ある種のショックを受けた。【2】といっ
ても、それは異文化からきたわたしだから「
ショック」なので、その人たちにとってはご
く当り前のこと。おどろきでもなんでもな 
い。【3】わたしのフィールドのように自然
条件・社会条件がきびしいところでは、しん
どいことの連続なのだが、こういうおどろ 
き、異質さの魅力というものに惹かれてなん
とか今日までやってこられたようにおもう。
 【4】アラビアの砂漠では、昼間の暴君で
ある太陽が、夜のやさしさにその支配権を渡
し、やっとおだやかな夜がおとずれると、わ
たしもみなといっしょにほっとしたものだっ
た。【5】砂の上に横たわり、ねぶくろから
顔だけ出してアラビアの星たちと交信するの
も、楽しみのひとつだった。研究の対象はも
ちろん天の星ではな く、地上の遊牧民、ベ
ドウィンだったが、かれらの移動について調
査していて、どうもよくわからないことがで
てきた。【6】なぜ移動するのだろう。うご
く必要はないではないか。水、草、子どもた
ちの学校、そのほかの生活の条件は同じ、あ
るいは悪くなるかもしれないのに、うごくこ
とがあるのだ。
 【7】このあたりのことは、先に「アラビ
ア・ノート」(NHKブックス、一九七九年
)で少しふれたが、「どうしてなの」ときく
わたしに、「なにもかもよごれてしまったか
らね」という答えがかえってきた。これだけ
ではどういうことかよくわからなかった。【
8】フィールドワークをしていると、言葉の
やりとりだけではわからないことがたくさん
あった。当然のことである。人は、言葉だけ
でわかりあうわけではない。
 一年ほどいっしょにくらすうち、砂のまじ
った食事も気にならなくなるのと同時くらい
にかれらの「移動の哲学」がわかってきた。
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【9】体系的なものを哲学としてもっている
わけではないが、かれらは人間がひとつのと
ころにじっとしているのは退行を意味すると
感じているのである。
 ひとつのところで生活をしていると、ごみ
が出てくるとか、死人が出たというような物
理的なよごれもあるのだが、人間の心のほう
もよごれてくる、よどんでくるように感じて
いるようなのだ。【0】うごくことによって
浄化されるという感覚をもっている。これは
セム族の中に古くからあるものとつながって
いるようでもある。「旧約∵聖書」にも、荒
野を放浪し、きよめられたもののみカナンの
地に入れるという思想がみいだされる。いず
れにしろ、うごくことによって浄化されるの
だというおもいが、ふつふつとからだのなか
にわいてくるようなところがあるようだ。 
(中略)
 そういう元遊牧民たちだけでなく、オック
スフォードやハーバードに留学したようない
わゆる「都会の遊牧民」といえるアラビア人
たちのなかにも「動の思想」はビルトインさ
れているようである。政府の役人でも、一カ
所にじっとしている人は少ない。あちこちに
港すなわちオフィスをもっていて、風のよう
に来ては去るのでつかまえるのに苦労する。
ポケットベルがよく売れており、コードレス
電話も日本で普及するよりはるか前から人び
とのあいだで使われていた。よくうごくかれ
らは、これらを使ってビジネス上の連絡をと
るというよりは、家族や友人、親類と連絡を
とり、おしゃべりを楽しんだりするのである
。職をかえることも日常的なことである。
 日本人の終身雇用の話をすると、目をまる
くしておどろき、就職するときに「絶対うご
きません」というような契約をしてしまうの
かとたずね、けげんな顔をする。いや、そん
な契約はしないが、ほとんどの人はうごかな
い、一生、同じ職場で仕事をするのだという
と、ますますおどろかれてしまう。
 からだも心もうごいていくことを前提とす
るかれらは「ハサブ・ル・ズルーフ」という
言葉を日常生活のなかでよく使う。「そのと
きの状況しだい」という意味である。すべて
の「時間」は「現在」に集約されると考え、
大事なのは、同じ時間を同じ空間でわかちあ
っているこの瞬間、現在しかないのだという
。明日はこうしようとおもっていても、次の
朝起きてみると状況がうごいているかもしれ
ない。母が危篤とか、本人が熱を出したとか
、そういうときはその状況にしたがって行動
するしかない。そこで約束事には、日本では
悪名高い「インシャーアッラー」(神の御意
志あらば)という言葉をそえて処方箋とする
。人間の意志だけで、ものごとはうごくわけ
ではない。昨日が今日をしばることもできな
い。晴耕雨読感覚で生きるということになる
だろうか。

 【1】どんな理路整然とした方法論につら
ぬかれていても、もしその歴史書がその時代
の生きた人間の活動を読者のまえに形象化す
るだけの力をもたなかったならば、それは死
んだ歴史叙述です。そういう意味では、歴史
は学問と芸術とのちょうど接点に位置してい
るといえるでしょう。【2】日本では残念な
がらこうした歴史叙述がはなはだすくない。
いわゆるアカデミックな史家は、有職故実の
学の伝統を継承しているために煩瑣な考証に
首をつっこんで巨視的な構成力に欠け、【3
】他方、広い意味で唯物史観の影響下にある
史家たちの労作は、ともすれば理論が裸のま
まで歴史のなかに登場してくるために、人間
と人間とのぶつかりあいが範疇と範疇との関
係としてしか描かれない傾向があります。【
4】またある場合には歴史叙述の主体性とか
階級性とかいう美名を借りて、実は自分のせ
まいエモーションで歴史的対象を好みの色に
ぬりあげてゆく例すらなしとしません。いず
れにしても歴史は殺されてしまいます。
 【5】なぜ日本の場合にはこういうことに
なるのでしょうか。これはひとごとではなく
私自身への批判として考えていることなので
すが、私はなによりも歴史家が自分の目のま
えにいる人間を見る眼がまずしくひからびて
いるということの結果ではないかと思うので
す。歴史と現代とをつなぐくさびはいうまで
もなく人間です。【6】歴史のなかの人間の
動きを注目することによって、それだけ現実
の人間を深く立体的に観察する眼が養われる
のですが、逆にまた現実の人間を見る眼が肥
えているだけ、それだけ錯雑した歴史過程の
なかに躍動する人間像をうかびあがらせる力
もうまれてくるわけです。【7】日本にすぐ
れた伝記がきわめて乏しいという事実になに
よりわれわれの人間観察力のにぶさがあらわ
れているのではないでしょうか。
 そういうわけで、せまい意味の歴史書を読
むだけでなく、すぐれた伝記作家の作品を読
むことが歴史の勉強、ひいては社会科学一般
の勉強にも非常に大事なことです。【8】歴
史を学ぶということ は、要するに人間をた
えず再発見してゆくということにほかなりま
せん。いな、社会科学自体の究極の目標もそ
こにあります。
 【9】さきほどユネスコが世界各国から社
会科学者をあつめて平和問題を討議させまし
たが、その際の共同声明のなかに、平和の基
礎と∵しての社会的洞察を民衆にあたえるこ
とが、人間の学としての社会科学の重大な役
割だ、と述べているのをみて、私はいまさら
のように感動しました。【0】日本の法律・
政治・経済の学者たちはあまりに専門的に分
化し、他方あまりに理論の整合性をよろこび
すぎて、人間をトータルに把握するという、
いちばん平凡な、しかもいちばん肝腎のこと
を忘れていたのではないでしょうか。「機 
構」の分析もけっこうですが、機構といった
ところで具体的には肉体と感情とをもった人
間の集団によって担われているもので、そう
した感性的人間とはなれた意味での「客観的
」存在ではありませ ん。そういう平凡なこ
とが看過されると、どんな精緻な理論も人間
を内部からつきうごかす力をもたなくなって
しまうのです。
 学問の意味をここまでつきつめてきてはじ
めて、「学問とは本を読むことだけではない
」という、よくいわれる命題の正しい意味も
理解されてきます。人間と人間の行動とを把
握しようという目的意識につらぬかれている
かぎり、映画をみても、小説を読んでも、隣
りのおばさんと話をしても、そこに広くは学
問一般の、せまくは歴史の生きた素材を発見
できるはずです。そうした日常生活のなかで
たえず自分の学問をためしてゆくことによっ
て、学問がそれだけゆたかに立体的になり、
逆にまた自分の生活と行動とが原理的な一貫
性をもってくるでしょう。

(丸山真男「勉学についての二、三の助言」
より)