長文集  2月3週  ★「坊っちゃん」はイギリスで(感)  nnge-02-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2016/02/22 15:13:59
 【1】「坊っちゃん」はイギリスでヨーロ
ッパにおける個人の位置を見てしまった漱石
が、わが国における個人の問題を学校という
世間の中で描き出そうとした作品である。赤
シャツは、あるとき坊っちゃんにいう。【2
】「あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業し
たてで、教師は初めての経験である。所が学
校と云(い)ふものは中々情実のあるもので
、さう書生流に淡泊には行かないですから 
ね。」坊っちゃんはそれに対して「今日只今
に至る迄是(これ)でいいと堅く信じて居る
。【3】考へて見ると世間の大部分の人はわ
るくなる事を奨励して居る様に思ふ。わるく
ならなければ社会に成功はしないものと信じ
て居るらしい。たまに正直な純粋な人を見る
と坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽
蔑する。【4】夫(それ)ぢゃ小学校や中学
校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が
教へない方がいい。いっそ思ひ切って学校で
嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を
乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の
為にもなるだらう。」と考えている。【5】
「坊っちゃん」は学校という世間を対象化し
ようとした作品であり、読者は坊っちゃんに
肩入れしながら読んでいるが、その実皆(み
な)自分が赤シャツの仲間であることを薄々
感じとっているのである。しかし世間に対す
る無力感のために、せめて作品の中で坊っち
ゃんが活躍するのを見て快哉を叫んでいるに
すぎないのである。
(中略)
 【6】明治以降社会という言葉が通用する
ようになってから、私達は本来欧米でつくら
れたこの言葉を使ってわが国の現象を説明す
るようになり、そのためにその概念が本来も
っていた意味とわが国の実状との間の乖離が
無視される傾向が出てきたのである。【7】
欧米の社会という言葉は、本来個人がつくる
社会を意味しており、個人が前提であった。
しかしわが国では個人という概念は訳語とし
てできたものの、その内容は欧米の個人とは
似ても似つかないものであっ∵た。【8】欧
米の意味での個人が生まれていないのに社会
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という言葉が通用するようになってから、少
なくとも文章のうえではあたかも欧米流の社
会があるかのような幻想が生まれたのであ 
る。しかし、学者や新聞人を別にすれば、一
般の人々はそれほど鈍感ではなかった。【9
】人々は社会という言葉をあまり使わず、日
常会話の世界では相変わらず世間という言葉
を使い続けたのであ る。この点については
特に知識人に責任がある。知識人の多くはわ
が国の現状分析をする中で常に欧米と比較し
、欧米諸国に比べてわが国が遅れていると論
じてきた。【0】たとえばカントの「啓蒙と
は何か」という書物の中で、上官の命令が間
違っていた場合に部下のとるべき態度が論じ
られている。上官の命令が間違っていると考
えた場合でも、部下はその命令に従わなけれ
ばならない。さもなければ軍隊は成立しない
からである。しかし軍務が終了したとき、そ
の部下は上官の命令の誤りを公開の場で論じ
ることができるとカントはいう。そしてその
場合彼は自分の理性を公的に使用しているの
だというのである。
 日本の事情を考えてみよう。ある会社員が
会社の経理やその他に不正を発見して、それ
を公的な場で指弾した場合、彼は間違いなく
首になるであろう。そしてもしそのことが公
的に論じられるようなことが起こった場合、
彼の行動が公的な理性に基づくものだという
者が日本にいるだろうか。
 このように考えてくると、問題の一つは、
わが国においては個人はどこまで自分の行動
の責任をとる必要があるのかという問題であ
ることが明らかになろう。それはいいかえれ
ば世間の中で個人はどのような位置をもって
いるのかという問いでもある。
 日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分
の内面の想いを区別してふるまう、そのよう
な関係の中で個人の外面と内面の双方が形成
されているのである。いわば個人は、世間と
の関係の中で生まれているのである。世間は
人間関係の世界である限りでかなり曖昧なも
のであり、その曖昧なものとの関係の中で自
己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米
人からみると、曖昧な存在としてみえるので
ある。 (阿部謹也()『「世間」とは何か
』)