長文 3.1週
1.【二番目の長文が課題の長文です。】
2. 【1】白は、完成度というものに対する人間の意識に影響えいきょう与えあた 続けた。紙と印刷の文化に関係する美意識は、文字や活字の問題だけではなく、言葉をいかなる完成度で定着させるかという、情報の仕上げと始末への意識を生み出している。【2】白い紙に黒いインクで文字を印刷するという行為こういは、不可逆な定着をおのずと成立させてしまうので、未成熟なもの、吟味ぎんみの足らないものはその上に発露はつろされてはならないという、暗黙あんもく了解りょうかいをいざなう。
3. 【3】推敲すいこうという言葉がある。推敲すいこうとは中国のとう代の詩人、賈島かとうの、詩作における逡巡しゅんじゅん逸話いつわである。詩人は求める詩想において「そうは推す月下の門」がいいか「そう敲くたた 月下の門」がいいかを決めかねて悩むなや 。【4】逸話いつわ逸話いつわたるゆえんは、選択せんたくする言葉のわずかな差異と、その差において詩のイマジネーションになるほど大きな変容が起こり得るという共感が、この有名な逡巡しゅんじゅんを通して成立するということであろう。【5】月あかりの静謐せいひつな風景の中を、音もなく門を推すのか、あるいは静寂せいじゃくの中に木戸を敲くたた 音を響かせるひび   かは、確かに大きな違いちが かもしれない。いずれかを決めかねる詩人のデリケートな感受性に、人はささやかな同意を寄せるかもしれない。【6】しかしながら一方で、推すにしても敲くたた にしても、それほどの逡巡しゅんじゅんを生み出すほどの大事でもなかろうという、差に執着しゅうちゃくする詩人の神経質さ、器量の小ささをも同時に印象づけているかもしれない。【7】これは「定着」あるいは「完成」という状態を前にした人間の心理に言及げんきゅうする問題である。
4. 白い紙に記されたものは不可逆である。後戻りあともど が出来ない。【8】今日、押印おういんしたりサインしたりという行為こういが、意思決定の証として社会の中を流通している背景には、白い紙の上には訂正ていせい不能な出来事が固定されるというイマジネーションがある。白い紙の上にしゅ印泥いんでいを用いて印を押すお という行為こういは、明らかに不可逆性の象徴しょうちょうである。
5. 【9】思索しさくを言葉として定着させる行為こういもまた白い紙の上にペンや筆∵で書くという不可逆性、そして活字として書籍しょせきの上に定着させるというさらに大きな不可逆性を発生させる営みである。推敲すいこうという行為こういはそうした不可逆性が生み出した営みであり美意識であろう。【0】このような、達成を意識した完成度や洗練を求める気持ちの背景に、白という感受性が潜んひそ でいる。
6. 子供のころ、習字の練習は半紙という紙の上で行った。黒いすみで白い半紙の上に未成熟な文字を果てしなく発露はつろし続ける、その反復が文字を書くトレーニングであった。取り返しのつかないつたない結末を紙の上に顕しあらわ 続ける呵責かしゃくの念が上達のエネルギーとなる。練習用の半紙といえども、白い紙である。そこに自分のつたない行為こうい痕跡こんせきを残し続けていく。紙がもったいないというよりも、白い紙に消し去れない過失を累積るいせきしていく様を把握はあくし続けることが、おのずと推敲すいこうという美意識を加速させるのである。この、推敲すいこうという意識をいざなう推進力のようなものが、紙を中心としたひとつの文化を作り上げてきたのではないかと思うのである。もしも、無限の過失をなんの代償だいしょうもなく受け入れ続けてくれるメディアがあったとしたならば、推すか敲くたた かを逡巡しゅんじゅんする心理は生まれてこないかもしれない。
7. (中略)
8. 弓矢の初級者に向けた忠告として「諸矢を手挟みたばさ て的に向かふ」ことをいさめる逸話いつわが『徒然草』にある。標的に向かう時に二本目の矢を持って弓を構えてはいけない。その刹那せつなに訪れる二の矢への無意識の依存いぞんが一の矢への切実な集中を鈍らにぶ せるという指摘してきである。この、矢を一本だけ持って的に向かう集中の中に白がある。

9. (原研『白』)∵
10. 【1】自然に対する人間の働きかけには二つの型がある。一つは量についてのもの。もう一つは制御せいぎょと管理に関するものである。昔から人はいつでも量の不足に悩んなや できた。飢えう というのは食料の量の不足に由来する不幸であり、貧困とは一般いっぱん化された飢えう のことである。【2】食料さえ潤沢じゅんたくにあれば、人間は幸福になれる。この物質主義的な考えは、しかし、直接の飢えう が解消されるにつれてどんどん拡大解釈かいしゃくされ、今や他人と違うちが 衣服とか、広い家とか、あるいはとなりよりも大きな車、世界に一点しかない絵画、等々、とどまるところを知らない。【3】そして、技術というものが自然から便益を引き出す方法である以上、技術にはもっと多くという量の要請ようせいが最初からつきまとってきた。労力その他のコストを最小限略して最大の収穫しゅうかくを得る。実に単純明快な目標を技術は設定してやってきた。
11. 【4】そして、今ふりかえってみれば、技術者たちは与えあた られた任務をあまりに見事に達成したのである(ここでは技術者という言葉を、原始的な農耕原理の無名の発明者から現代の常温かく融合ゆうごうの研究者まで、つまり時間にして数万年に亘っわた て技術革新に従事してきた人々と定義しておこう)。【5】もともとホモ・サピエンスという種は、このような仕事が得意だったのだろう。自然から多くの便益を効率的に引き出すという課題は達成された。しかも、これは同じ速度で進んだのではなく、成果は加速度的に積み上げられ、いわばこの百年間は技術開発の雪崩なだれ現象をあれよあれよと見て過ごすような歳月さいげつだった。【6】一つを解決するとそれが次の問題に対するヒントを与えあた 、それがまた広く別の分野にスピンオフして花開くという喜ばしい事態を技術者たちは体験した。幸せな人たちだ。
12. しかし、このあまりの成功は、量の達成という目的そのものを疑う結果を生んだ。【7】人間の欲望は無限であるのに、地球のサイズは有限だったのである。あまりにも単純な算術的な事態で、招いたわれわれの方だってつい先日まではこんなことで行き詰まるい づ  とは思っていなかった。人間がこのパラドックスに気付いたきっかけは核兵器かくへいきだった。【8】量と効率という課題に対する飛躍ひやく的な解決という意味で、核兵器かくへいきは現代技術の典型である。以前ならば一人の敵を殺∵すには、自分で出ていって、こちらの身を危うくした上で、刺し殺すさ ころ か、切り殺すか、あるいは撲殺ぼくさつするか、絞殺こうさつするか、いずれにしても具体的な物理力を相手の身体に対して加える必要があった。【9】勝敗の確率は当然五〇パーセントということになる。この率を少しでも自分の方に有利に傾けよかたむ  うという技術的要請ようせいが多くの武器を生み、その最終的な傑作けっさくとして核兵器かくへいきとミサイルが生まれた。【0】だれも住まない山岳さんがく地帯の地下深く造られた厚いべトンと鉄鋼のごうの中で、肉体的には決して戦士の体格をそなえているとは言えない技術者が、一見無害に見えるボタンを押すお 。実際にはもう少し複雑な操作をするわけだが、いずれにしても見たところ殺人とまったく無関係な行動をすることで、半時間後にははるか彼方かなたで数十万の人が死ぬ。その数十万の人々の一人一人が本当に敵であるか否か、それを調べる必要もない。これほど効果的な戦争があっただろうかと、将軍たちが胸を張るのも無理はないのだ。
13. 核兵器かくへいきはいかになんでも強すぎた。量という点だけで異常に肥大した怪物かいぶつである。いかに速い馬でも、行きたいところへ行ってくれなかったり、目的地に着いても止まらないのでは乗ることはできない。これを機に技術的成功は必ずしもトータルな成功ではないことが明らかになった。量の問題を解決してみたら、その量を制御せいぎょするものが不足していることが歴然と見えてきたのである。そこであらためて人は、昔から自分たちがかかえてきた問題には量と制御せいぎょないし管理の二面があったことに気付いた。これまでは量ばかりを追ってきたために無視されてきた制御せいぎょの問題が表面化したのである。制御せいぎょの問題は最初からすべての富に付きまとっていたし、それを指摘してきする声もあった。富の分配や集中はこの制御せいぎょの問題の一つの局面にすぎない。だから社会主義者が量の確保と同時に分配の方法を論じようとしたのは正しかった。しかし、いつでも量の問題が優先的に扱わあつか れ、制御せいぎょの方はその後ということで先送りされてきたのが人間の歴史である。

14.(池澤いけざわ夏樹「ゴドーを待ちながら」)