ここで確認しなければならないのは、「わ たしがわたしである」ことを「覚えている」 ということは、過去の行動の完全な履歴が保 存されるのではなく、思い出されるたびに変 化し、意味付けの変わる記憶を維持している ということであり、そこには「忘却」も同じ くらい必要とされるものであるということだ 。すなわちそれは、「記憶」と「記録」が、 質としてまったく異なるものであることを意 味している。記録が記憶に果たす役割を考え るために、もう少し「記憶のあいまいさ」と いう点について述べてみよう。 認知心理学者の高橋雅延()によれば、私 たちが「覚えている」と思っている過去の記 憶も、実はかなりの程度あいまいさを残して いる部分があるという。高橋によると、私た ちは一ヶ月前のこと を、事実のとおりに思 い出せると考えがちだが、実際には、時間を おくことで、五〇%前後の記憶が入れ替わっ てしまうというのだ。つまりそこで私たちは 、「想起する記憶内容の一部を選択し、再構 成している」のである。さらに言えば、何度 も繰り返し思い出すことで、「虚偽の記憶」 が現れる場合さえあると高橋は述べている。 その記憶のゆがみに影響を及ぼすのは、た とえば「暗黙理論」と呼ばれるような素人考 えだ。暗黙理論とは、必ずしも明確な科学的 根拠がないにもかかわらず、世間では信じら れている知識や概念のことであり、具体的に は、「幼少時のトラウマが人格形成に強く影 響する」といった知識のことを指す。このよ うに近年の記憶研究 は、むしろ記憶が、他 者や社会的な認知とのかかわりで容易に変化 するような、あいまいなものであることに注 目しているのである。 こうした知見に基づいて、心理学者は、「 わたしはわたしのことを覚えている」という 出来事が、文字どおり過去の出来事を脳内に ストックするようなものではなく、思い出さ れることによって、それが新たに「記憶」と して上書きされるような、「自己物語」の側 面を持つと主張している。つまり、わたしが わたしであることの確信は、(「もうひとり |
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の自分」のようなものを含む)他者への語り の中から生成してくるということだ。∵ だとすれば、そこで「記録」というメディ アが、自己を形成するのに非常に重要な役割 を果たすことは、容易に想像できるだろう。 「高校時代の友人」が、どのような人だった のか、放っておけば私たちはすぐに忘れてし まう。しかし、日常にはあまり思い出される ことのない相手であっても、卒業アルバムを 見返したり、あるいはときにそれを別の友人 に見せながら、「彼はこういう人でね」とか 「ああ、こんな人もいたなあ、彼女はね…… 」と語ったりすることで、そのたびに「高校 時代の自分」を構成することができる。そし てそれを通じて「あのときは意識しなかった けど、ほんとうはこの人のことが好きだった んだ」などといったように、記録をもとにし た他者への語りを通じて、「いまの自分」に 接続される自己物語を生成するのである。 ここには、記録というメディアと、自己に よって物語られる記憶との間の、ダイナミッ クな関係を見て取ることができるだろう。 (鈴木謙介『ウェブ社会の思想』による) |