長文集  3月2週  ★(感)漱石は、イギリスでの  nnge2-03-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】漱石は、イギリスでの暮らしの経験
の中で日本とは違った個人のあり方を目撃し
てきた。このことは当時海外で暮らした者に
とっては大きな衝撃であっただろう。個人と
社会の関係に目を開かされたのである。【2
】漱石は、多くの留学経験者がそうだったよ
うに、わが国には個人が生まれていないと慨
嘆してすます程度の人間ではなかった。彼は
日本の社会と個人のあり方について真剣に考
えたと思われる。特に彼にとって問題であっ
た親族、つまり家族の問題との関わりの中で
、個人と社会の問題に関わらざるをえなかっ
た。
 【3】しかし、その際に、西欧流の社会と
いう概念をわが国にそのまま仮定し、それに
対して日本の個人を対比させたところに彼の
問題があった。わが国には、個人が社会に対
する以前にそれぞれの世間があったのである
が、この世間は、彼には社会の未成熟なも 
の、すなわち同一線上で語りうるもの、とし
てしか見えなかったのである。【4】ところ
がこの頃には世間という概念は現実にはっき
りとした輪郭をもっていた。しかし、それに
もかかわらず、漱石は社会と世間の区別をな
しえなかったのである。
 漱石が、このような問題意識に立って諸作
品を書いていったとして、その彼の姿勢を支
えていたものは何だったのだろうか。【5】
一つ一つの作品を見れば出来不出来はあるし
、社会の見方も到底鋭いとはいえないが、彼
の作品には、当時から現在までのわが国が抱
えてきた、あるいは引きずってきた重要な問
題が示されている。何度もいうように、それ
は個人と社会の関係の問題である。【6】そ
こに親族の問題や男女の関係が絡んでくるこ
とはいうまでもない。漱石はそれらの問題に
対して作品の中では世間や社会に背を向けた
立場を選んでいる。彼の小説の主人公はほと
んど社会や世間の中で主要な地位を得ていな
い人たちである。【7】現実には、漱石の家
に集まった人々の中には後に日本の知的世界
を背負ってゆくことになる多くの人物がいた
が、作品の中ではそういう構図にはなってい
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ない。
 明治以降の日本の社会の中で、世間や社会
にしかるべき地位を得ている人の世間や社会
を見る目ははっきりしていた。【8】そのよ
うな∵人々を主人公にした小説類はおびただ
しい数に上るが、それらは必ずしも時代を超
えて読者に訴えてゆく力をもってはいなかっ
た。
 それに対して漱石の作品が読み継がれてき
た一つの理由には、世間や社会に背を向けよ
うとしたその視点にあったといえよう。【9
】このような視点に立って初めて日本の社会
と個人の主要な一面が見えてくるからである

 もとより漱石自身が「隠者」的であったと
いうのではない。作品の中にその傾向がみら
れるというのである。【0】このように見て
くると「徒然草」の吉田兼好から漱石に至る
まで、わが国の文学の世界はいかに多くを一
種の「隠者」に負うてきたことだろう。隠者
とは日本の歴史の中では例外的にしか存在し
えなかった「個人」にほかならない。日本で
「個」のあり方を模索し自覚した人はいつま
でも、結果として隠者的な暮らしを選ばざる
をえなかったのであ る。

(阿部謹也『「世間」とは何か』より)