長文集  7月4週  ○日本人は記録魔だ、と  nngi-07-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/06/09 09:55:26
 日本人は記録魔だ、と言う人がある。何で
も、やたらにメモをとる、記録しておく。何
のためということはない。おもしろそうなこ
とも、おもしろくなさそうなことも、無差別
に記録してしまう。事実がそこにあるからで
あろう。こういう記録魔的なところが、かえ
って日本に歴史らしい歴史の発達をおくらせ
ることになった。歴史には史観という倫理が
必要で、がらくたの骨董屋のような人間は歴
史家になることができない。
 思想の「体系」もない。しっかり固定した
視点もない。ただ見聞を黙々と記録する。そ
して、記録するかたっぱしから、忘れ去られ
るのにまかせている。記録を史観で貫いて不
朽のものにしようなどとは考えない。しかし
、このことが案外、創造のためにはプラスに
なるのである。むやみと記録し、たちまち忘
却のなかへ棄てさる。記録にとらわれない。
去るものは追わずに忘れてしまう。そういう
人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、
こだわりがない。
 日本人は無常という仏教観が好きだが、頭
の中にも、無常の風が吹いていて、しっかり
した体系の構築を妨げている。しかし、へた
に建物が立っていない空地だから、新しいも
のを建てるのに便利である、とも言えるので
ある。
 日本語はどうも、俳句や短篇や珠玉のよう
な随筆に見られる点的思考に適している。逆
に、大思想を支えるような線的思考の持久力
には欠けている。しかし、持続力はときによ
くない先入主となっ て、精神の自由な躍動
をじゃますることがないとは言えない。「ひ
らめき」をもつのには、日本語はなかなか好
都合なのである。
 このごろ、やたらに、対話だとかコミュニ
ケイションだとかが騒がれているが、元来、
日本人は多言、雄弁をきらい、沈黙の言語を
深いものと感じるセンスをもっている。巧言
令色スクナシ仁。そして、問答無用。∵
 ほかの人間と議論して、正と反との葛藤の
中から合という中正を見つけていこうという
弁証法のような考え方とは、日本人はもとも
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と無縁である。日本にレトリック(修辞学)
や弁論術が発達しなかったのは当然であろう
。対話によって思考を展開するのではなく 
て、独白、あるいは詠嘆によって、最終的な
形の思考を、投げ出すように表現するのが日
本的発想である。
 言いかえると、日本人は言語を使用しなが
ら、ともすれば、伝達拒否の姿勢をとりやす
い。他人のちょっとした言葉にも傷つく繊細
さをもっていることもあって、自分の殻にこ
もって内攻する。発散しない表現のエネルギ
ーは鬱積して「腹ふくるるわざ」になるが、
いよいよもって抑えられなくなると、爆発す
るのである。
 宗教における悟道、啓示というのもこの範
疇に入れて考えてよ い。喫茶店で友人とコ
ーヒーをすすりながら悟りをひらく、という
ようなことは考えにくい。やはり、面壁九年
の修行の方がオーソドックスというものであ
る。日本語は、どうも出家的創造性に適して
いると言うことが出来そうである。論理に行
きづまった西欧の知識人が、禅に絶大な魅力
を見出しているのも故なしとは言えないよう
に思われる。
 出家的創造は、対話的発想による論理のよ
うに持続はしないが、高圧にまで圧縮された
エネルギーが爆発するときの力には、天地の
様相を一変させるものすごさがあることも忘
れてはならない。
 日本語が、いわゆる論理的でないと言われ
る、まさにその点に、日本語の創造的性格が
存するということは、われわれを勇気づける
に足る逆説である。

(外山滋比古(しげひこ)「日本語と創造性
」による)