長文 7.4週
1. 日本人は記録だ、と言う人がある。何でも、やたらにメモをとる、記録しておく。何のためということはない。おもしろそうなことも、おもしろくなさそうなことも、無差別に記録してしまう。事実がそこにあるからであろう。こういう記録的なところが、かえって日本に歴史らしい歴史の発達をおくらせることになった。歴史には史観という倫理りんりが必要で、がらくたの骨董こっとう屋のような人間は歴史家になることができない。
2. 思想の「体系」もない。しっかり固定した視点もない。ただ見聞を黙々ともくもく 記録する。そして、記録するかたっぱしから、忘れ去られるのにまかせている。記録を史観で貫いつらぬ 不朽ふきゅうのものにしようなどとは考えない。しかし、このことが案外、創造のためにはプラスになるのである。むやみと記録し、たちまち忘却ぼうきゃくのなかへ棄てす さる。記録にとらわれない。去るものは追わずに忘れてしまう。そういう人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、こだわりがない。
3. 日本人は無常という仏教観が好きだが、頭の中にも、無常の風が吹いふ ていて、しっかりした体系の構築を妨げさまた ている。しかし、へたに建物が立っていない空地だから、新しいものを建てるのに便利である、とも言えるのである。
4. 日本語はどうも、俳句や短篇たんぺん珠玉しゅぎょくのような随筆ずいひつに見られる点的思考に適している。逆に、大思想を支えるような線的思考の持久力には欠けている。しかし、持続力はときによくない先入主となって、精神の自由な躍動やくどうをじゃますることがないとは言えない。「ひらめき」をもつのには、日本語はなかなか好都合なのである。
5. このごろ、やたらに、対話だとかコミュニケイションだとかが騒がさわ れているが、元来、日本人は多言、雄弁ゆうべんをきらい、沈黙ちんもくの言語を深いものと感じるセンスをもっている。巧言令色こうげんれいしょくスクナシ仁。そして、問答無用。∵
6. ほかの人間と議論して、正と反との葛藤かっとうの中から合という中正を見つけていこうという弁証法のような考え方とは、日本人はもともと無縁むえんである。日本にレトリック(修辞学)や弁論術が発達しなかったのは当然であろう。対話によって思考を展開するのではなくて、独白、あるいは詠嘆えいたんによって、最終的な形の思考を、投げ出すように表現するのが日本的発想である。
7. 言いかえると、日本人は言語を使用しながら、ともすれば、伝達拒否きょひの姿勢をとりやすい。他人のちょっとした言葉にも傷つく繊細せんさいさをもっていることもあって、自分のからにこもって内攻ないこうする。発散しない表現のエネルギーは鬱積うっせきして「腹ふくるるわざ」になるが、いよいよもって抑えおさ られなくなると、爆発ばくはつするのである。
8. 宗教における悟道ごどう啓示けいじというのもこの範疇はんちゅうに入れて考えてよい。喫茶店きっさてんで友人とコーヒーをすすりながら悟りさと をひらく、というようなことは考えにくい。やはり、面壁めんぺき九年の修行の方がオーソドックスというものである。日本語は、どうも出家的創造性に適していると言うことが出来そうである。論理に行きづまった西欧せいおうの知識人が、ぜんに絶大な魅力みりょくを見出しているのも故なしとは言えないように思われる。
9. 出家的創造は、対話的発想による論理のように持続はしないが、高圧にまで圧縮されたエネルギーが爆発ばくはつするときの力には、天地の様相を一変させるものすごさがあることも忘れてはならない。
10. 日本語が、いわゆる論理的でないと言われる、まさにその点に、日本語の創造的性格が存するということは、われわれを勇気づけるに足る逆説である。

11.(外山滋比古しげひこ「日本語と創造性」による)