1. 【1】伝統の根をもたぬものは
遊離した存在である。しかし、伝統を
越えぬものは真に新しい存在とはならない。新しい存在によって伝統が受けつがれない時伝統は
腐朽する。【2】新しい存在が新しい伝統をつくる。伝統を真に伝統たらしめるものは、伝統を
越えた新しい存在である。この
一般的な方式に今日のわれわれの問題もある。われわれの民族性とは伝統の中に
顕現するものだからである。
2. 【3】明治以来の輸入文化は伝統の根をもっていない。それはあらゆる方面に新しい世界を開いたけれど、その新しい世界はどこか宙に
浮いた、でなければどこかに
空虚を宿したものであった。しかしそこに民族の可能性が引き出されたのである。【4】民衆の生活の自然の発展によるよりも外部の力に反応した上からの
誘導によってそうなったところに二重の
遊離性が見られるにしても、とにかくそうなったことは可能性の新しい展開であった。それをうしろにひき
戻すことはできない。【5】うしろに
引き戻すことはいかなる
破壊よりも悪い
破壊である。ただしかし宙に
浮いているものを地につけ
空虚を
埋めることはできる。
3. 試みに建築の世界を考えて見よう。
4. 建築は生活と実用との中に常にかたく組みこまれている。【6】そして鉄筋コンクリート建築が近代の生活と実用とに最も適合したものとせられている。構成が容易で
耐久力が強い。材料が
比較的安価である。――しかし日本の
湿気にはこの材料は必ずしも適しない。【7】日本ではまだ独立の小家屋が都市においても
一般的な家屋単位となっているし、従ってそれには古来の木造建築が最も手軽で便利である。それにこの古来の建築法は日本の風土にたしかに適合している。【8】しかしいっぽう公共建造物に今日こういう木造建築物を建てないところをみるとそれは今日のわれわれのある生活面に対して明らかに適合しないことが解る。【9】そこで
歌舞伎座の建築のようにその建物の性質上木造の様式を保存したいところでは、コンクリートをもって木造の様式だけをまねる。これがいかに不自然な
醜いものになっているかは眼のある人は見ていよう。【0】コンクリートの
壁面は木材の支える力としての
弾性をもっていない。それがたとえば円柱の表面の張りのある美しさとなっているのであるが、疑似円柱に∵はその美しさは全く見られない。これは典型的な例であるが、新しい材料を用いて古い日本の様式を採り入れようとしたものは多くこの種の不自然と
醜さとをもっている。今日見られる建築の「日本的」方向とはこういう一種の
折衷主義である。ここでわれわれが注意しなければならないのは、こういう建物においても実質的にはまったく新しい材料を使っているということである。従って新しい材料をもってする新しい建築に必要なあらゆる技術がここでは自明なこととして予想せられている。そしてその技術はまた新しい科学の
基礎の上に立っている。建物において「日本的」なものを主張する人でも、決して木造建築を大公共建造物において主張しはしないし、
隅田川に昔風の木橋を
架けようとはしないのである。その意味で過去へ帰ろうとはしないし、また帰ることはできない。新しい科学と技術との勝利がここにある。古い大工に新しい建築家が代っているのである。この事実をわれわれは
窮極において認めなければならないであろう。
5. われわれはしかしもう一つの
和洋折衷態を知っている。今もなお
郊外におびただしく見られる小住宅の形式で、
普通の日本家にひと間かふた間の「洋館」をくっつけたものである。その「洋館」はおおむね赤い屋根や青い屋根をもっている。それは何の調和をも考えずにとってくっつけたまでのものである。ほとんどすべての場合その
醜さは言語に絶する。
6. 私は田舎の町にいた子供のころを思い出す。そこに
一軒のペンキ
塗りの「洋館」が建った時、その建物をどんなに立派な建物だと考えたかを思い出す。今見ればそれはいかにも安っぽいちゃちな建物である。しかしそのころはそれが西洋風の外観をもっているということだけで立派に見えたのだ。こういう感じを子供にいだかせる理由は当時の
状況からすればもちろん自然であった。われわれはあらゆるものを西洋から受け入れ学んできたからである。しかし同時に今日大人の眼をもってわれわれがそれを安っぽいちゃちな建物とすることも正しい。それは在来の固有の日本の家屋のいかなるものより安っぽくてちゃちである。しかし
郊外の住宅においては、そういう「洋館」がその住宅全体に
勿体をつける
必須条件になっている。そこに何か新しい文化が
象徴せられているように考えられるのである。(
津田塾大)