長文 9.1週
1. 【1】もっとも肉食がぜいたくだといいだせば、本来なら、欧米おうべい諸国でも事情は同じである。いくら一人当り農用地面積がひろくとも、土地からの第一次生産物を直接人間の口に入れる方が、はるかに安上がりなことに変りはない。【2】にもかかわらずヨーロッパ人のあいだでは、栄養問題がたいしてやかましくもない古い時代から、なぜ不経済な肉食が高い比率を占めし てきたのであろうか。【3】実は、畜産ちくさん物を食べるのがぜいたくだというのは、食用作物の十分にとれる耕地をわざわざ割いて、飼料作物を人工的に栽培さいばいした場合のことである。もし、家畜かちくが、そこらに勝手に生える、食用にならない草のようなもので育つぶんには、肉食はすこしも不経済ではない。【4】ヨーロッパ人の家畜かちく飼育は、もともとそういうところからでてきたのである。日本とは、だいぶ事情がちがう。ヨーロッパの肉食率が古くから高かったのは、もとはといえば、日本では考えられないほど家畜かちく飼育の容易な、牧畜ぼくちく適地だったからである。【5】そして、ヨーロッパを牧畜ぼくちく適地にしたのは、要するに、自然に生える草類が家畜かちく飼料にならないほど徒長するのを妨げるさまた  、独特の気候条件であった。では、ある意味では植物の生育に不適なそうした気候条件は、穀物生産に対してどのように働きかけたのであろうか。
2. 【6】ここでまず考えなければならないのは、日本では穀物生産の主役が伝統的に水稲すいとうであったのに、ヨーロッパでは麦類であったという事実である。このことは何でもないようで実は重大な意味をもつ。【7】とくに、現在とちがって化学肥料がものをいわない時代には、なおさらである。たとえば、無肥料連作をつづけた場合、麦類は水稲すいとうの半分ほどの収量比しか確保できない。【8】これは、水稲すいとうであれば、自然の用水のなかにいろいろな養分があり、収穫しゅうかくはそれほどおちないのに、麦の場合はそうはいかないからである。同じいねでありながら、陸稲おかぼを無肥料連作すると、麦類と同じくらいの比率で収量が低下することからも、このことはわかる。【9】それならばヨーロッパでも水稲すいとう栽培さいばいしてもよさそうなものであるが、ここでわたくしたちは気候条件につきあたる。水稲すいとう栽培さいばいには、成育期に三か月以上摂氏せっし二〇度を越すこ 気温と、年間で一〇〇〇ミリを越すこ 降雨量が必要であるが、ヨーロッパでこのような条件を満たすところ∵はほんのわずかである。【0】水稲すいとう栽培さいばいが可能なのは、本来的には、役にたたない雑草を繁茂はんもさせる、暑熱と湿潤しつじゅんのはげしい所だけである。したがって、近代以前のヨーロッパの穀物生産力はいちじるしく低い。
3. こうした低い生産力水準は、ときとともに少しはましになる。べつに肥料をつぎこまなくても、播種はしゅのまえに何回もたがやすようにすれば、収穫しゅうかく量はいくぶん増加する。それにしても、上昇じょうしょうのテンポはゆっくりしたものである。十三、十四世紀には、ヨーロッパのあちこちで生産力の実態をつかむことができるようになるが、とくに条件のめぐまれた場合を別にすると、収穫しゅうかく量の平均は播種はしゅ量の三倍から四倍ていどにすぎない。近世にはいっても、ようやく五、六倍ぐらいである。十九世紀はじめでも、たいていのところでは、五、六倍のままである。これらの数字がいかにひどいものかは、日本とくらべるとはっきりする。日本の水田はふつう上田・中田・下田などに分類されていたが、徳川時代の農業書を総合すると、平均値にあたる中田の収穫しゅうかく量は、大体播種はしゅ量の三十倍から四十倍である。ヨーロッパをほぼひとけた上廻っうわまわ ている。徳川時代というと、すぐ五公五民とか六公四民といった調子で、ひどくしいたげられた農民の姿が浮かぶう  が、考えてみれば、その原因の一半(いっぱん)は、水田のこうした異常な生産力の高さにある。いくら政治権力が暴虐ぼうぎゃくでも、生産力の低いところでは、とても、収穫しゅうかく物の半分以上を横取りすることはできない。(中略)日本の農民は、生産力が高いがゆえにいじめられるという、みょうなジレンマにおいこまれていたわけである。ところで、ヨーロッパの穀物生産力が、十九世紀はじめまで、これほど低いものであるとすれば、日本のような主食観念はとうてい生まれようがない。そこでは、ある意味で、「パンはぜいたく品」である。過去の日本人が動物性食品に対して抱いいだ た、「もったいない」という感じが、いわば裏返しの形で存在する。だから、ヨーロッパ人の肉食率が高いのは、考え方によってはけっしてかれらがめぐまれていたためではない。風土的条件が、かれらに穀物で満腹することを許さなかったのである。穀物であれ、畜産ちくさん物であれ、主食・副食の別なしに口にすることがかれらの生きる唯一ゆいいつの道だったのである。 (東北学院大)