1. 最近のローティーン以下の子供たちは、あれほど教師が「個性」「自立」「自立性」を金科玉条のように主張しているにもかかわらず、目立つことを
嫌う傾向が強いそうである。
彼らの間では、「他人に
配慮ができる」気配り型が人気で、「場の空気が読めない」外し型が不人気だそうである。事実、うちの小学生の
娘を見ていても、目立たないことの重要性を学習していると感じている。
2. 「けっこうです」という言葉は頭が痛い。高文脈言語である日本語を
象徴する言葉である。文脈を理解していないと、「イエス」か「ノー」かわからないのである。日本人でも文脈が
微妙で、どちらかわからないことさえある。最近の若者の間で、この「けっこうです」に代わる言葉のひとつに、「ビミョー」があろう。明確な判断を
避けているとの批判もあるが、若者たちの間では、共有している文脈のなかで、最近はとくに否定的な意見や感想をできるだけ述べたくないので、推し量れという高文脈言葉として使われている。まさに
微妙なのである。
3.(中略)
4. これを
巨視的にはどう
捉えるべきか。戦後の一億総中流という平等
幻想の上に築かれた
企業という名の大きな帰属集団が、いままさに
崩壊せんとしており、日本的小規模帰属集団への先祖返りが若者によってなされようとしている、と受けとれないこともない。この意味においても、日本
企業は若年層の
企業への忠誠心(この場合は英語のコミットメントという語がふさわしい)を、どのように確保するのかという大きな問題を
抱えているといえる。このまま
企業が、若者たちの
企業へのコミットメントを
喪失すれば、日本
企業の
企業力、ひいては日本の国力は
衰退していくことだろう。
5. したがって、若者の行動の変化が個人主義への移行につながるという議論は、明らかに論理が
飛躍している。利己主義化(わがまま化)していることを個人主義化の
根拠としているのかもしれないが、集団主義を否定すれば個人主義になるというような単純な二
項対立的な問題ではない。日本と
西欧の自我/自己構造の
違いを考え∵れば、これが乱暴な論であることは明らかである。
6. にもかかわらず、日本的原理の
崩壊=個人主義への移行という
極端な論を展開している人が多いのは、そうした論者自身が日本人的自己の前提構造の不安定さに
苛立っているからと
解釈したほうがよいのではないか。自己の前提となる役割構造が
崩壊してしまうときによく見られる日本的な態度、まるで
振り子のように「ゼロか百か」に
極端に
振れる姿勢が、ここにもあらわれているのである。そもそも、利己主義と個人主義を混同すること自体、日本人が
西欧的な意味での個人主義原理に向かっていない
証拠である。
7.
繰り返しになるが、若年層の行動を子細に見ていくと、自己の相対的位置づけに基づく内向きの思考メカニズムに、構造的な変化は認められない。一見、個人主義原理へ移行しつつあるように映る若年層の行動は、自己構造にいたる手前のプロセスにおける、二つの領域での変化と
解釈すべきなのではないか。
8. ひとつは、従来に比べて若年層の共通文脈の設定領域が
狭くなったことと、コミュニケーション・スキルとその方法が変化したことである。もうひとつは、若年層の社会行動
規範の通念が、これまでに比べてかなり変化してきたことである。戦後の
官僚が築き上げた「一億総中流の平等
幻想」がバブル
崩壊によって
破綻し、「一億総よい子化」に息苦しさを感じる若者たちが出てきたことによって、社会通念が変化し、よい意味での階層化が進んでいる。息苦しくなくいられる、自分のアイデンティティとなるワーキング・クラスの形成である。けっして
裕福でもない家庭の子供がニートの多くを
占められるほど豊かな社会では当然かもしれない。最近は「下流社会」とか「格差社会」という言葉がはやっているが、階層化をすべて悪と
捉えるのは、社会主義的
官僚か、おせっかいな進歩的文化人であろう。
9.(
小笠原泰『なんとなく、日本人』による)