1. 【1】自己表現の意欲は、言葉あるいは文字として表してみて、初めて具体性を帯びる。自発的にものを考えるようになって、人は初めて自分の言葉を発する。言葉に対して自覚的になると言ってもよいでしょう。【2】言葉なくして、考え、迷い、一念を生じ、
邂逅することはあり得ないのです。
2. ところが、このとき
間髪を入れず、言葉の不自由、その障害に
突き当たるという事実を
見逃すわけにはゆきませぬ。【3】例えば我々が平生使っている思想や文学上の用語、精神とか知性とか主体性とか実存とか、なんでもいい、その一つ一つを取り上げて、これを厳密に検討してごらんなさい。一つとして
曖昧ならざるものはない。【4】各人によってさまざまの
解釈や定義やニュアンスを生じ、それをまた一つ一つ
解釈し定義して行かねばならぬといったような、
途方もない迷路に
入り込んでしまいます。
3. 【5】言葉というものは、おそろしく不完全なものだと
悟ります。実に
曖昧です。そういう言葉をさまざまに組み合わせつつ、かろうじて自分が言いたいと思っている思想的イメージに近づいてゆく。【6】それは
依然として不完全ではあるが、この不完全の自覚が、我々の考える力を
更に押し進める原動力ともなるのです。精神の問題は、
幾何学の公理のように割り切れない。【7】しかし、
幾何学の公理のように、その一つ一つの正確さを目ざすことは大切で、この無限の正確さへの意志が、言葉を
開拓して行くともいえましょう。言葉を使用するとは、
開拓して行くことと同義なのです。そこに精神としての「自己」が存在するわけです。【8】言葉の不自由な性質そのものが、言葉の生命だといっていいかもしれませぬ。
4. 言葉のかような性質が、逆に我々をして、考えさせ、迷わせ、一念を生ぜしめ、
邂逅を
促すといってもいい。【9】言葉に
翻弄される自己を見いだすでありましょう。
翻弄に
翻弄を重ねて、さて、その極限に見いだすものは何か。我々は、初めて「
沈黙」の意義を知るのです。例えば非常にうれしいとき、悲しいとき、感動したり、さまざまに思い
惑うとき、どんな現象が起こるか。言葉を失っている自∵己を見いだすでありましょう。【0】心の中であれこれと思い
巡らしてみるが、さて表現となると、どう言っていいかわからぬ。たちまち言葉につまって、
沈黙せざるを得なくなる。
恋愛がその
端的な例です。
恋する男女は、
恋することによって言葉を失うものです。
5. かかる時機を、重視しなければなりませぬ。なぜなら、言葉を失うことは、心の
充実を意味するからであります。言うに言われぬ思い、そこに人間の真実がある。しかし、あえて表現しなければならぬ。その苦しさにおいて、我々は言葉の障害と
格闘し、
開拓し、
換言すれば精神は自己を形成しようとしてもがくわけで、言葉の困難の自覚が、そのまま人間生成の
陣痛ともなるわけです。
6. こう考えるなら、自分の言葉を持つということが、いかに至難か明白でありましょう。我々はつい有り合わせの言葉を用います。世間
一般が用いたり、その時々の流行語となっている言葉を、無批判に使用します。どんな結果が生ずるか、申すまでもありますまい。精神はここに感化されることによって死に
瀕するのであります。
7. 自分の言葉を持つということは自分が生まれるということです。「はじめに言葉ありき。」という一句が聖書にありますが、私はここでいちおう聖書から
離れて、人間生成の一条件として考えてみます。初めて発した自己コユウの言葉は、その人の生命のあけぼのであるということを。「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなわち新しき
生涯なり。」──これは若き
島崎藤村が、その最初の詩集に記した序文の一節です。自分の言葉を持つこと、すなわち自分の
生涯の始まりなのであります。
8. そうあるためには、私がさきに述べた「
沈黙」を重視し、これに
耐えねばなりませぬ。この
沈黙とは、正確さへの意志と言ってもよい。
沈黙は意志の強さの尺度であります。多くの
沈黙に
耐えた人の言葉ほど美しい。言葉の芸術である文学は、根本においてこれを目ざすものなのであります。多くの言葉を重ねながら、結局言うに言われぬ思いという
沈黙を創造し、ここに
恨みを宿すものなのであります。
9.──
亀井勝一郎「人間生成」──