長文集  10月2週  ★植民地主義イギリスの(感)  nngu2-10-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】植民地主義イギリスの紀行文学の根
強い伝統を論じた著作『海外へ』のなかで、
イギリスの批評家ポール・フュッセルは旅人
を「探検家」「トラヴェラー」「ツーリスト
」の三種類のタイプに類別している。
 【2】「探検家」とは、フランシス・ドレ
ーク卿やエドモンド・ヒラリー卿のように、
しばしば爵位をもってその活動を顕彰される
ようなタイプの旅人である、とフュッセルは
言う。【3】いかなるトラヴェラーもツーリ
ストも、彼らのなしとげた行為によって爵位
を贈られる、というようなことはない。トラ
ヴェラーやツーリストの旅が探検家のそれと
同じ程度に困難で記憶されるべき内実をそな
えたものであるとしても、それは「行為」と
して本質的に探検家の実践とは意味づけを異
にしているからだ。【4】「探検家」は未知
の探求者である。彼らの旅は処女的発見のた
めの旅であり、その地理的・博物学的・考古
学的発見の行為は新しい科学的世界像の形成
と深く結びついている。彼らは死の危険をす
ら冒して未知を彼らの世界の側に奪取する文
化英雄たろうとする。
 【5】一方現代の「ツーリスト」の求める
ものは商業主義的な企業家によってあらかじ
め発見された大衆的価値である。ツーリスト
はマスメディアの巧妙なプレゼンテーション
によって彼らのために準備されたルートとト
ポスとをめぐる、現代の受動的な好奇心を代
表している。【6】探検家がかたちのないも
の、知られざるものと対峙するリスクを進ん
で冒そうとする人々であるならば、その反対
にツーリストは徹底して既知の側につき、す
でに確認された紋切り型の「知識」を安全性
の保証のもとに追認するにすぎない。
 【7】そしてこの探検家とツーリストの両
極の中間に「トラヴェラー」がいる。彼らは
移動の途上で生起するであろうあらゆる予期
せぬ経験を旅の長所として留保しつつ、一方
で彼らの西欧的アイデンティティが揺らぎだ
す手前で巧妙に旅の混沌から身を引き離す。
【8】彼らは自分がいまどこにいるのかを熟
知しつつ、世界∵放浪のロマンティックな動
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機に過渡的に身をまかせることのできる旅人
なのである。適度な異国趣味と適度な冒険を
内側から支える安定した「世界」像のなかで
、トラヴェラーは時代の経済原理をたくみに
利用しながら旅してゆく……。
 【9】フュッセルは「トラヴェラー」に一
つの旅人としての理想のスタイルを見出そう
としている。探検家とツーリストという、旅
の始まりと終焉の実践の両極をわたる中庸の
旅人のなかに、真正の旅人へのレクイエムを
聞きだそうとしている。【0】だがここで重
要なのは、探検家であろうとトラヴェラーで
あろうとツーリストであろうと、およそフュ
ッセルの描きだす旅のトポグラフィにはつね
に特定の起点と終点があらかじめ想定されて
いるという事実の方である。探検家にとって
の旅の起点も終点もきわめて明瞭だ。ヨーロ
ッパの中心から国家の期待を背負って旅立っ
た彼らは、ふたたび彼らの都市へと凱旋する
。彼らの冒険物語を語り、撮影した処女地の
写真を展覧し、爵位を授けられるために……
。そしてその点において、トラヴェラーとツ
ーリストもじつは変わることがない。トラヴ
ェラーの詩的なヴァガボンドの物語はあらか
じめ文明世界において語られるためにこそ体
験されるのであるし、ツーリストも保証され
た帰還をすべての前提として土産を購入し、
エキゾティックな土地の一時的占有を示す絵
はがきを郷里の友人に旅先から送って彼らの
知的戦利品としての風景を誇示するのである

 こうして旅は家と外国とを空間的に峻別す
ることでその内容を盛られてきた。自己と他
者が明確に差異化されることによって、西欧
的旅人の主体性はアイデンティティを維持し
つづけることができ た。だが二十世紀末の
現在、ギリシャの旅人=理論家の末裔たちは
彼らの思考と表現の基地・中心地としての「
家」を失いつつある。安定した起点と終点を
喪失した現代の旅の実践は、旅を日常の生か
ら聖別された感覚と思考の閉鎖的領域から解
き放った。旅の遂行の途上で、現代の私たち
は自己と他者の不思議な混交を体験し、場所
の奇妙な溶解に立ち会うことになったからで
ある。旅その∵ものが安定したアイデンティ
ティの実践であることをやめ、行方のない彷
徨を開始したのだ。
 旅の物語を語ろうとする私たちは困惑しは
じめている。家の喪失は、疑いもしなかった
「帰還」のディスクールの根底を揺るがせた
からだ。中心から周縁へと赴いたはずの旅人
は、もっとも隔絶された「辺境」で傍若無人
のツーリストたちに遭遇してエキゾティック
な物語を見失った。落胆して家へ帰りついた
はずの彼らは、そこがあるときから別な世界
からやってくる移民と総称される人々の意識
の果てにひろがるディアスポラの領域であっ
たことを逆に発見し た。世界の中心が別な
世界の周縁となり、「第一世界」の核心に「
第三世界」の楔が打ち込まれようとしている
……。

(今福龍太「遠い挿話」より)