1. 【1】芸術作品の
特徴は何か、という問題に対して、かなり広い支持を集めた説明は、「それは文とか、絵の中にある
違いではなく、それに接する人の態度の
違いである」というものである。【2】美しいものを見出す時の態度は、美的態度と呼ばれるが、それは実用的目的や利害を
離れた、無関心的態度にほかならない。そしてそのために作られたものが芸術作品である。それに対して新聞記事や似顔絵などは、特定の実用的目的のために作られている。【3】これが決定的な
違いだと考えるのである。
2. しかしこの説明も不十分であるように思われる。「無関心的」という表現の意味を、芸術だけにあてはまるように限定するという
肝心の仕事が残っているし、「態度」の
概念が十分明らかになってはいない。【4】その時々の心の状態を観察すればどんな態度をとっているのかが分るのだろうか。それともその時の外面的なふるまいによってどんな態度かが決まるのか。そもそも態度ということによって、芸術をめぐる多様な現象をとらえることができるだろうか。
3. 【5】わたしはむしろ、ウィトゲンシュタイン的に、一種のゲームの中で芸術をとらえ、人間のさまざまな行動の中でどのような役割を果しているか、という問題として考えるのが最も適当であると思う。【6】なにかを芸術としてみなすことと新聞記事のような事実の記述とみなすことの
違いは、さまざまな行動に関係し、さまざまな場面に現れる。それらを一つずつ記述する以外に、芸術作品の
特徴を明らかにする方法はない、と思うのである。
4. 【7】似顔絵をめぐるわたしたちの行動はどのようなものだろうか。似顔絵については正確さが問題になる。よく似ているほどよい似顔絵だとされ、まったく似ていなければ無価値である。また「誤った」
描写と「正しい」
描写がありうる(たとえば目の形を忠実に
描いているかなど)。【8】上手・下手という評価も下されるが、その基準はもっぱら正確さ、犯人の識別のし易さにおかれている。こどもに似顔絵の
描き方を教える時も、この基準を使う。
描くたびに同じ絵を
描いても、正確な絵でさえあれば問題にはならない。【9】むしろ、
記憶が確かだと評価される。犯人の似顔絵を
描くよう命令された時、故意に誤った
描写をしたり、忘れたふりをして
描かないことがある。また、それに相当するものによって
代替可能である。∵【0】たとえば、言語による記述、写真、モンタージュ写真、別の絵などによって
置き換えることができる。それどころかよく似た人によって代用することもできる。
5. 芸術としての絵画の場合、このようなことは成立しない。似顔絵の場合と
違って、対象に似ているかどうかは、芸術的な価値に
影響しない。たとえ芸術が事実を
描写したものであっても、それが芸術とみなされているかぎり「正しい」とか「誤っている」という表現は使わず、
真偽は問題にならないのである。したがって故意に誤った絵を
描くこともありえない。上手・下手の基準は、識別のし易さにおかれるわけではない。こどもに教える時も特有の基準を使う。こどもに文字の書き方を教える場合、はじめは正しい書き方を教え、正しく書けるようになれば、上手な書き方を教えるが、このとき、正誤の基準と上手・下手の基準は異なっている。さらに、芸術作品は他のものによって代用することは不可能である。写真や、別の絵によって
置き換えることはできず、絵の対象によって
置き換えることもできない。それどころか、その一部の色や線をちょっとでも変えると、その絵が台無しになってしまうことがある。同機能のものによって代用できないという
特徴によって芸術性と実用性を区別することもできるだろう。建築、食器、衣服などは実用的なものであっても芸術作品でありうる。もしこれらが実用性だけを考えて作られたり、使われたりしているなら、そのかぎり、ほかの同じ機能をもつものと
交換することができるが、芸術とみなされているかぎりでは
代替不可能である。
6.(土屋
賢二「
猫とロボットとモーツァルト」より)