長文集  11月3週  ★日本人はよく(感)  nngu2-11-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】日本人はよく、たがいに気心知れて
いる人とのコミュニケーションには繊細で長
けているが、気心知れない人とのコミュニケ
ーションは苦手だと言われる。【2】「しゃ
べり場」というのはほんとうは気心知れない
人とのコミュニケーションの典型のようなも
のであるはずなのに、そこでもキャラの配置
からじぶんの場所を意識するという、コミュ
ニケーションの場の閉鎖が起こっている。
 【3】ディスコミュニケーションという言
葉がある。文字どお り、コミュニケーショ
ンの断絶、つまり伝達不能という意味であ 
る。ファクシミリ、携帯電話、インターネッ
ト、iモード……とコミュニケーションの媒
体が進化すればするほど、じつはコミュニケ
ーションではなくディスコミュニケーション
がこの社会を象徴する現象になってきている
。【4】そのひとつに、コミュニケーション
圏の縮小という現象がある。コミュニケーシ
ョンの媒体が進化することで逆に世界が縮小
してゆくという、なんとも皮肉な現象であ 
る。
 【5】たとえば新幹線から降りたとたん、
多くの乗客が携帯電話を耳に当て、受信をチ
ェックする、あるいは通話する。人とぶつか
っても、話し中だから「失敬」や「ごめんな
さい」のひとつも出ない。ふと思い出すのが
テレビのニュースキャスターの顔。【6】画
面のなかからこちらに向かって話しかけるあ
の顔はほんとうは像であって顔ではない。そ
こには対面する顔がつくりだす磁場というも
のがない。射るまなざし、撥ねつけるまなざ
し、吸い寄せるまなざし、貼りつくまなざし
……。【7】そうしたまなざしの交換はそこ
には存在しない。人びとの顔はそういう磁力
をもたずに、ただ像としてたがいにたまたま
横にあるだけだ。頭部に顔のかわりに受像機
をつけた人間がうろついている、かつての未
来映画で見たような都市の光景が、ふと浮か
ぶ。
 【8】他人となにかを共有する場のなかで
はとても親密で濃(こま)やかな気配りや気
遣いをするのに、その場の外にいる人はその
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存在すら意識しない……。【9】たとえば車
中で携帯電話をする人に同乗者がしばしば強
いいらだちを覚えるのは、うるさいというよ
り、プライヴェイトな会話をむりやり聞かさ
れるというより、じぶんがその人に他者とし
てすら認められていないという侮辱を感じて
しまうからだろう。【0】また、あるCDが
六百万枚売れていても他方にそ∵の曲も歌手
の名も知らない人がそれ以上にいるという事
実も、 ひとつのコミュニケーション圏と別
のコミュニケーション圏がまったく無関係に
存在しているという、そういうディスコミュ
ニケーションを表している。
 いまわたしたちの社会で必要なのは、たが
いに接触もなくばらばらに存立する異なるコ
ミュニケーション圏のあいだのコミュニケー
ションというものではないだろうか。同じ病
院にいても医師と患者とでは文化がちがう。
同じまちづくりに関わっていても行政職と住
民とでは言葉がちがう。同じ遺伝子作物を問
題にしても専門科学者と消費者とでは思いが
ちがう。そのほかにも障害者と健常者、外国
人と自国民、教師と生徒、大人と子どもとい
ったさまざまの異文化を接触させ、交差させ
るようなコミュニケーションのしくみこそ 
が、断片的な言葉だけでじゅうぶんに意が通
じあうような閉じられたコミュニケーション
のしくみとは別に、構築される必要があると
おもう。
 それぞれの事柄には、事柄に応じたコミュ
ニケーションの形式というものがある。地方
自治体での政策決定や原子力発電の是非、病
院でのインフォームド・コンセントや家裁で
の調停、ケア・プランの作成やゴミ処理をめ
ぐる住民の話しあい……。それぞれの事柄に
ふさわしい多様なコミュニケーションの方式
があるはずだ。公立高校で「哲学」の授業を
試みているわたしたちは、同時に地域のコミ
ュニティ・センターなどで「哲学カフェ」も
開いている。「自己決定とは何か」「他人を
理解するというのはどういうことか」といっ
たテーマで異なる世代がディスカッションを
する場を設定するのだが、そのときは、年齢
や職業、地域といった人としての帰属をぜん
ぶ括弧に入れて、へんな話だが、たがいに気
心が知れないよう工夫している。大はコンセ
ンサス会議から小は哲学カフェまで、みなが
「キャラ」によってではなくひとりの「人」
として言葉を交換できるような場が、もっと
もっと構想されていい。

(鷲田清一「『キャラ』で成り立つ寂しい関
係」より)