長文 11.3週
1. 【1】日本人はよく、たがいに気心知れている人とのコミュニケーションには繊細せんさいで長けているが、気心知れない人とのコミュニケーションは苦手だと言われる。【2】「しゃべり場」というのはほんとうは気心知れない人とのコミュニケーションの典型のようなものであるはずなのに、そこでもキャラの配置からじぶんの場所を意識するという、コミュニケーションの場の閉鎖へいさが起こっている。
2. 【3】ディスコミュニケーションという言葉がある。文字どおり、コミュニケーションの断絶、つまり伝達不能という意味である。ファクシミリ、携帯けいたい電話、インターネット、iモード……とコミュニケーションの媒体ばいたいが進化すればするほど、じつはコミュニケーションではなくディスコミュニケーションがこの社会を象徴しょうちょうする現象になってきている。【4】そのひとつに、コミュニケーションけんの縮小という現象がある。コミュニケーションの媒体ばいたいが進化することで逆に世界が縮小してゆくという、なんとも皮肉な現象である。
3. 【5】たとえば新幹線から降りたとたん、多くの乗客が携帯けいたい電話を耳に当て、受信をチェックする、あるいは通話する。人とぶつかっても、話し中だから「失敬」や「ごめんなさい」のひとつも出ない。ふと思い出すのがテレビのニュースキャスターの顔。【6】画面のなかからこちらに向かって話しかけるあの顔はほんとうは像であって顔ではない。そこには対面する顔がつくりだす磁場というものがない。射るまなざし、撥ねつけるは    まなざし、吸い寄せるまなざし、貼りは つくまなざし……。【7】そうしたまなざしの交換こうかんはそこには存在しない。人びとの顔はそういう磁力をもたずに、ただ像としてたがいにたまたま横にあるだけだ。頭部に顔のかわりに受像機をつけた人間がうろついている、かつての未来映画で見たような都市の光景が、ふと浮かぶう  
4. 【8】他人となにかを共有する場のなかではとても親密でこまやかな気配りや気遣いきづか をするのに、その場の外にいる人はその存在すら意識しない……。【9】たとえば車中で携帯けいたい電話をする人に同乗者がしばしば強いいらだちを覚えるのは、うるさいというより、プライヴェイトな会話をむりやり聞かされるというより、じぶんがその人に他者としてすら認められていないという侮辱ぶじょくを感じてしまうからだろう。【0】また、あるCDが六百万枚売れていても他方にそ∵の曲も歌手の名も知らない人がそれ以上にいるという事実も、 ひとつのコミュニケーションけんと別のコミュニケーションけんがまったく無関係に存在しているという、そういうディスコミュニケーションを表している。
5. いまわたしたちの社会で必要なのは、たがいに接触せっしょくもなくばらばらに存立する異なるコミュニケーションけんのあいだのコミュニケーションというものではないだろうか。同じ病院にいても医師と患者かんじゃとでは文化がちがう。同じまちづくりに関わっていても行政職と住民とでは言葉がちがう。同じ遺伝子作物を問題にしても専門科学者と消費者とでは思いがちがう。そのほかにも障害者と健常者、外国人と自国民、教師と生徒、大人と子どもといったさまざまの異文化を接触せっしょくさせ、交差させるようなコミュニケーションのしくみこそが、断片的な言葉だけでじゅうぶんに意が通じあうような閉じられたコミュニケーションのしくみとは別に、構築される必要があるとおもう。
6. それぞれの事柄ことがらには、事柄ことがらに応じたコミュニケーションの形式というものがある。地方自治体での政策決定や原子力発電の是非ぜひ、病院でのインフォームド・コンセント            や家裁での調停、ケア・プランの作成やゴミ処理をめぐる住民の話しあい……。それぞれの事柄ことがらにふさわしい多様なコミュニケーションの方式があるはずだ。公立高校で「哲学てつがく」の授業を試みているわたしたちは、同時に地域のコミュニティ・センターなどで「哲学てつがくカフェ」も開いている。「自己決定とは何か」「他人を理解するというのはどういうことか」といったテーマで異なる世代がディスカッションをする場を設定するのだが、そのときは、年齢ねんれいや職業、地域といった人としての帰属をぜんぶ括弧かっこに入れて、へんな話だが、たがいに気心が知れないよう工夫している。大はコンセンサス会議から小は哲学てつがくカフェまで、みなが「キャラ」によってではなくひとりの「人」として言葉を交換こうかんできるような場が、もっともっと構想されていい。

7.(鷲田わしだ清一「『キャラ』で成り立つ寂しいさび  関係」より)