長文 12.3週
1. 【1】砂漠さばくには何もない。何もないということがとうぜんのようになってくると、逆に、なぜ日本の生活にはあんなにもたくさんのものがあるのか、奇妙きみょうに思えてくる。あんなに多くのものに取り巻かれなければ暮してゆけないのだろうか、と。【2】もしかしたら、それらのものは、ぜんぶ余計なものではないのか。余計なものに取り巻かれて暮しているから、余計な心配ばかりがふえ、かんじんの生きる意味が見失われてしまうのではないか……。
2. 【3】しかし、待てよ、と私は考える。生きてゆくのに必要なものだけしかないということは、文化がないということではないか。生きてゆくうえに必要なもの、それを上まわる余分のものこそが、じつは文化ではないのか。【4】文化とは、言ってみれば、余計なものの集積なのではないか。だとすれば、砂漠さばく肯定こうていすることは、文化を否定することになりはしまいか……。
3. それにしても――と私はさらに考えなおす。私たちはあまりにも余分なものを抱えこみかか   すぎているのではなかろうか。【5】余分なものこそ文化にはちがいないが、さりとて、余分なもののすべてが文化であるわけもなかろう。余分なもののなかで、どれが意味があり、何が無価値であるか、それをもういちど考えなおす必要がありはしまいか……。
4. 【6】砂漠さばくとは、こうした反省を私にもたらす世界である。砂漠さばくは現代の文明社会に生きる人びとにとって、一種の鏡の国と言ってもいいような気がする。私は砂漠さばくに身を置くたびに、ある探検家がしみじみと洩らしも  たつぎのことばをかみしめる。
5. 【7】「砂漠さばくとは、そこへ入りこむさきには心配で、そこから出て行くときにはなんの名残もない。そういう地域である。砂漠さばくには何もない。ただ、その人自身の反省だけがあるのだ」
6. 私は、砂漠さばくに自分自身の姿を見に行くのである。

7. 【8】砂漠さばくは、私たち日本人が考えがちなロマンチックな場所ではけっしてない。王子さまとお姫さま ひめ  が月の光を浴びながら銀色の砂の上を行く――などというメルヘンの世界ではない。【9】昼と夜とで温度は激変し、一瞬いっしゅんのうちに砂嵐すなあらしが天地をおおってしまう、そういうおよそ非情な世界である。日本という井戸いどのなかに住むかえるであ∵る私は、こうした砂の世界に足を踏み入れふ い たとたん、いつも後悔こうかいする。よりによって、なんでこんなところへ来てしまったのか!
8. 【0】だが、その後悔こうかいは、やがて反省へ変り、さらに希望へと移ってゆく。生きることへの希望へ。
9. この意味で、砂漠さばくこそ最もロマンチックな場所であり、メルヘンの世界だと私は思う。なぜなら、そうした「反世界」へ行こうとすることこそが、現代ではいちばんロマンチックな行為こういのように思われるからだ。メルヘンの世界とは、さかさまの国のことである。だとすれば、砂漠さばく行こそ、まさしくメルヘンの国への旅ではないか。
10. 千里の旅、万巻の書――旅とはいろいろに考えられよう。しかし私は、旅とは、さかさまな国で自分を発見すること、後悔こうかいの向うに希望を見出すこと、そして人間の世界は、かくも広く、かくも多様で、かくも豊かなのだということを実感することだと思う。
11. だからこそ、千里の旅は万巻の書に値するのである。

12.(森本哲郎砂漠さばくへの旅」より)