1. 【1】さて十九世紀の進行のうちに、自然科学がものすごい勢いで発達し、社会のあらゆるものをこれが動かすこととなるにつれて、科学精神は歴史をもとらえずにはおかなかったのであります。そして歴史は歴史科学と呼ばれることになります。【2】近代科学の開祖であるデカルトは、歴史をあまり重視しなかった。それは近代科学を歴史的制約の外に
純粋に発展させるために必要な態度であったのですが、ここでは人間の知識ないし思想は二つにはっきり分かたれ、一方に厳密な自然科学があり、他方に文学があって歴史は後者の中に入れられていたのであります。【3】ところが、その後歴史は歴史科学の名の下に文学の世界から科学の世界に移るのであります。そこでは歴史はもはや過去の再現ではなく、一定の法則による過去の理論的構成であろうとし、また、自然科学がだんだん細かい分野に分かれると同じように、歴史も何々史、さらに何々における何々の研究というふうに細分化される。【4】その各々は全体をとらええぬかもしれぬが、それぞれの研究の成果は客観的な真理であるから、あたかも自然科学における一々の発見のように、後から来るものはそれを
踏み台として先に進むことができる。かくして
蓄積された厳密な史料によって全歴史がいつか構成されて成立する、というふうに楽観的に考えられたのだと思います。【5】そしてそうした科学的歴史は個人というものの価値を社会の中に
埋没させる
傾向を生じました。自然科学では
蟻とか
狼とかの発生・進化を
環境に
即して研究するが、
蟻や
狼の心理や個性(もしそういうものがあるとしたらの話ですが)を
黙殺する。【6】そうした科学をモデルとする以上、歴史における個人の軽視ということは当然であったといえます。
2. ところで、歴史家が自然科学者のように自我を殺して、自分が歴史的世界に生きる人間であることを忘れ去って、歴史を研究し記述することが果たしてできるかどうか。【7】細部については、それは可能でありましょう。例えば、関ケ原の戦いに家康がどこから引き返して、どこで何日
滞在し、何日かかって戦場に着いたかというようなことは
古文書その他によって、厳密に決定することができ、また万一不正確な点があれば
訂正もできます。【8】しかし、実はそういう仕事は考証家の仕事で歴史ではない。そういうデータが無限に集まれば自ずと歴史が出来上るのではないのです。歴史家はそれらを集めて歴史を書くのですが、関ケ原の役の意義を考えるにはその種の世界観がなくてはできず、つまり、史料の統一には史観というのが∵なければ成立しません。【9】そうすれば必ずそこに歴史家の主観が出てくるので、もしもまったく
純粋な精神というようなものの持主があったとしたら、歴史など書かない、また書けもしないだろうと思われます。そもそも歴史事実の
選択ないしとらえ方にも、その歴史家の史観は働くのであります。【0】もちろん、愛国心に作用されたり、伝統文化を
偏愛したりして、その史観が何ほどか
曇るといったことも起こりえましょう。しかし、こういうことは
避けがたいことで、もしこれを
恐れていたならばデータの採集ないし小さな
特殊研究以外に出られないことになります。クローチェは、歴史家が主観を
抑えることは、いわば禁欲であって不能であってはならぬといいましたが、味わうべき言葉だと思います。学問とは冷静な、計量された
冒険なのであります。
3. こうした
素朴な客観主義の歴史観を根底から
揺り動かしたのは、最近の物理学、歴史がモデルとした自然科学そのものの基本をなす物理学の進歩であって、その物理学が
素朴な客観主義ないし決定論を
棄てねばならなくなったことであります。対象は研究者がたんに自我を殺して無私的に見れば見えるようなものではなくて、研究者がそこに操作を加えることによってはじめてとらえられるものである、とされるのであって、「研究者は
彼が研究するところのプロセスの中に
押し入る」、そしてこのことは自然科学研究についても歴史研究についても共に正しい、とエドガー・
ヴィントはいっています。だからディルタイのいうように、歴史家は自己を
脱却し、あらゆる時代に合一するようなことは可能で、もしそんなふうに現在から
脱却しうる
純粋な精神というようなものがあったら、その精神は歴史をとらえようとはしないでありましょう。この点、
ヴァレリーの言葉は意味深く読まれます。「歴史の真の性格は歴史自体に
参与するということである。過去の観念が一つの意味を持ち、また一つの価値を形成するのは、自分のうちに未来への情熱を見出す人間にとってのみである。」
4.(
桑原武夫「歴史と文学」による)