長文 5.1週
1.【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
2. 【1】ハマーショルドの日記はきわめて特異である。国連事務総長という要職にあった人の、またその職責にひたむきに献身けんしんしていた人の手になるものでありながら、職務にかかわる記述が一行としてない。【2】それを読んだだけで書き手の職業を言い当てるのは、おそらく不可能だろう。世俗せぞく的な属性だけではなく、時間も空間もすべて超越ちょうえつしているかに見える。時折現れる日付さえ、この印象を拭いぬぐ 去りはしない。【3】それはそうだろう。この日記はかれと「神とのかかわり合いに関する白書のようなもの」(友人のレイフ・ベルフラーゲあての遺書)なのだから。
3. 【4】神との対話は透徹とうてつした自己省察となる。もし神の視線が自分に照射されたなら明るみに出されるのは何か、それを測り尽くすつ  とでも言うかのように、ハマーショルドは自分の弱さと卑小ひしょうさを見つめ続けた。【5】「それから目をそらしたなら、たちまち自分の行動の誠実さを脅かすおびや  ことになるから」(一九五七年四月七日)である。傲慢ごうまんさや自己憐憫れんびん怯懦きょうだや取るに足らぬ自尊心を徹底的てっていてき排除はいじょした。【6】かれにとって誠実な生の営みとは、存在にまつわるそれらの夾雑きょうざつ物をぎりぎりまで削ぎそ 落とすことだった。日記中に引用されている次の文章が、そうしたかれの思考をあますところなく伝えている。
4. 【7】大地に重みをかけぬこと。悲愴ひそうな口調でさらに高くと叫ぶさけ のは無用である。ただ、これだけでよい。
5. 大地に重みをかけぬこと。(一九五一年・日付不明)
6.【8】「大地に重みをかけぬこと」とは、言いかえれば自己放棄ほうきつまりおのれを空しくすることを意味する。この自己放棄ほうき(ないしは自己滅却めっきゃく)という言葉はしばしば日記の中で用いられており、ハマーショルドの思想的中心点の一つだと言ってよい。【9】それは夾雑きょうざつ物に惑わさまど  れたり、自分自身にのみ拘泥こうでいしたりせぬことである。こうしてかれは、精神の高みに飛翔ひしょうする瞬間しゅんかんのために準備を続けた。【0】∵まさにたましい彫琢ちょうたくとでも呼ぶほかはない。
7. 何がこれほどまでに、かれたましい彫琢ちょうたく駆り立てか た たのだろうか。この人の「憧れあこが 」は何であったのか。ここで私たちは、「よき死のための成熟」という一つの答えに出会う。
8.「死はおまえから生に捧げるささ  決定的な贈物おくりものたるべきであり、生に対する裏切りであってはならない」(一九五一年・日付不明)、そうかれは自分に語りかけている。そこに見られるのは、漠然とばくぜん した死への恐怖きょうふなどではなく、躍動やくどうする生の営みの果てに積極的に死を迎え入れよむか い  うという、確固たる姿勢である。みずから命を絶つあきらめでもなければ、他人の生を踏みしだくふ    傲慢ごうまんさでもない。
9. 死を「生に対する贈物おくりもの」にすべくかれが求めてやまなかったのは、「成熟」ということだった。一九五三年四月七日、国連事務総長に就任した日の日記には、くり返しそれへの渇望かつぼうが書かれている。たとえば、「成熟なかんずく、子供が仲間と遊んでいるときのように、現在の瞬間しゅんかんに明るく澄んす だ無心さで遊び、仲間と心がひとつになりきってかげひとつささぬ境地」。遊びほうける幼子との結びつけが意表を衝くつ が、この「無心さ」が、実は自己滅却めっきゃくと同じものであると考えるならさほど不思議はない。こうしてかれは、国連事務総長という、「世界で最も不可能な仕事」(初代事務総長T・リー)を、気負いもたかぶりもせずに、成熟と自己滅却めっきゃくという自分自身の原則を静かに再確認することだけで始めたのだった。

10.(最上敏樹『国境なき平和に』による)∵
11. 【1】劇は、つねに宗教的な秘のうちに、その起原を置いている。ギリシア劇においては、そのことが明瞭めいりょうに看取される。その宗教的背景が、シェイクスピア劇では、一見うしなわれているかのように見えるのだ。(中略)
12. 【2】もちろん、かれの詩的天才を疑うものはいない。またやや通俗つうぞく的ではあるが、その作品の劇的効果は否定しえない。それにしても、近代的な合理主義からいえば、かれの作劇術は、あまりにも粗雑そざつにすぎ、実証的な写実主義からいえば、心理的リアリティを欠いている。【3】その精神や思想にいたっては、私たちはシェイクスピアのなかに一個の人間である作者の像をみとめることができない。つまり、かれは近代的な意味における芸術家ではない。ひとびとはいうであろう、ハムレットやリアの主張を読みとることができても、作者の主張はどこにも読みとれない。作者はどこにいるのか、と。
13. 【4】そういうひとたちに、私は答える。すでにいったように、私は個人の主張などというものに、もはやなんの興味も感じない。個性や心理の、いかに微細びさい分析ぶんせきも、いまの私にはなんら新鮮しんせんな、驚異きょういや喜びを与えあた ない。【5】すべてはわかりきったことだ。それらは季節に開花する路傍ろぼうの花ほどにも、私の眼を惹かひ ぬであろう。が、作者の思想と現実の分析ぶんせきとがなくして、現代文学はなりたたぬ。問題は、それが路傍ろぼうの花にどう道を通じているかである。【6】私ばかりではあるまい。私たちが求めるのは博物学でも博物学者でもなく、生きた花なのではないか。シェイクスピアから私たちが受けとるものは、作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。【7】シェイクスピアは私たちになにかを与えよあた  うとしているのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとしているのである。それが、劇というものなのだ。それが、人間の生きかたというものなのだ。
14. 【8】宗教的な秘は、つねにそのことを目的としていた。見ることを許された特定のひとたちを、眼前に「おこなわれていること」の世界に引きずりこむのが秘の目的である。いわば路傍ろぼうの花が私たちを季節のなかに引きずりこむように、奥儀おうぎ啓示けいじされるのである。(中略)【9】サルトルが「嘔吐おうと」のなかで女にいわせている「∵完璧かんぺき瞬間しゅんかん」というのも、じつはそういうものを背景にしなければ成りたたぬのである。対象とのあいだに、違和感いわかんを見ず、自己も対象も部分のままでありながら、全体に抱きいだ かかえられている瞬間しゅんかん、それを女は欲した。そして失敗した。【0】相手の男が協力しなかったからである。ということは、女は男のまえで、路傍ろぼうの花にたいするようにすなおに自分の違和感いわかん棄てす さることができなかったということだ。のみならず、女は相手にそれを棄てるす  ことを求めていたのである。いいかえれば、自分が主役を演じうるように、相手がふるまうことを期待していたのである。もし、個人が、個人の手で全体性を造りあげようとすれば、自分がその中心になり、相手を自分のまえに跪かひざまず せるまでは、とどまることを知らぬのである。「嘔吐おうと」のなかの女は、たとえ受身の端役はやくにおいても、主役を批判し制御せいぎょしようとしているではないか。
15. 対象を路傍ろぼうの花にかぎれば、それは逃避とうひにしかならぬ。が、自然のみを対象とすることも、今日ではすでに逃避とうひである。天災と戦おうとする科学は、私たちの自然にたいする支配よくの現れかもしれぬが、その裏で、もし私たちが自然との調和だけを心がけるとしたなら、やはりそれは逃避とうひであろう。同様に、階級や戦争の悪を根絶しようとする試みも、私たちのあいだにあっては、容易に逃避とうひに転化しうるのだ。

16.(福田恆存つねあり「人間・この劇的なるもの」)