長文集  6月1週  ★もしも「忘れる」という現象が(感)  nnza-06-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/16 04:10:18
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の
長文は課題の長文で す。】
 【1】一七九〇年、フランス革命政府議会
は、それまでのように人体を尺度にした、地
方ごとに違う長さの測り方をやめ、世界中同
じ単位で長さを測れるようにしようという決
議をした。【2】この時代には、グローバリ
ゼーションの震源地はアメリカではなく、フ
ランス革命政府だったのだ。
 【3】だが同様に普遍指向が強かった古代
ギリシャの生んだ哲学人プロタゴラスは、「
人間は万物の尺度なり」という、特殊指向こ
そが普遍的だという、見事な逆説的命題を吐
いた。【4】実際、人体のさまざまな部分を
規準にした尺度は、十八世紀末までは、まさ
しく普遍的に、誰もそれを怪しむことなく、
国ごと、地方ごとに用いられていたのだ。
 【5】フランスで当時用いられていた、長
さを測る単位には、アンパン(片手の指をい
っぱいに広げたときの親指の先から小指の先
まで)、クーデ(肘から伸ばした中指の先ま
で)、ピエ(足の意。ヤード・ポンド法のフ
ィート「足」に対応)、【6】プース(足の
親指の意。一ピエの十二分の一)、トワーズ
(身の丈の意。六ピ エ)、ブラス(両腕を
伸ばして広げた長さ。五ピエ。日本の尋に対
応)等があった。【7】クーデに対応する日
本の尺は、呉服尺(ごふくじゃく)、鯨尺、
曲尺(かねじゃく)でも違うが、やはり前腕
の骨の長さから来た尺度だ。【8】布などを
測るのに肘を曲げたかたちは測りやすいのか
、西アフリカのモシ社会でも、細長い帯状に
織った綿布を売るとき、曲げた肘から中指の
先までの長さを単位にして測る(カンティー
ガ、複数でカンティーセという)。【9】日
本語で前腕の小指側の骨を尺骨(しゃっこつ
)と呼ぶことからも、この測り方と前腕との
関連が窺われる。尺骨(しゃっこつ)を指す
ラテン語の解剖用語はulnaだが、これは
古代ローマでの長さの単位でもあった(三七
センチに対応するから、日本の呉服尺(ごふ
くじゃく)と鯨尺のあいだくらいの長さだ)
。【0】尺という漢字は手の親指と中指を開
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
いた象形で、日本では咫(あた)だ(掌の下
端から中指の先までともいわれる)。∵
 一七九一年、フランス革命政府は学者を招
集して、地球の北極点から赤道までの経線の
距離の一千万分の一を、世界に共通する長さ
の単位とすることを決定した。だが実際にこ
の距離を測ることはできないので、フランス
北岸のダンケルクから、地中海に面したスペ
イン領バルセロナまでを精密な三角測量で測
り、両端の地点の緯度から、北極点・赤道間
の距離を算出するという方法がとられた。
 この二地点のあいだは山岳地帯が多く、革
命直後で政情も不安定であり、測量は困難を
極めた。それでも一七九八年に測量を完了 
し、翌年には白金製のメートル原器が作られ
た。地方ごとに人間中心で作られていた尺度
を、ヒトを離れた「地球」(グローブ)の寸
法から割り出すことにしたのだから、これこ
そ語義通りの「グローバリゼーション」の先
駆けというべきだろう。
(中略)
 アメリカ合衆国は一八七五年の国際メート
ル条約の原加盟国だ が、ヤード・ポンド法
は「慣習的単位」として禁止されていないど
ころか、日常生活ではこちらの方が普通に用
いられている。しかもアメリカの影響が強い
航空・宇宙関係の国際用語では、メートル法
を採用している国も、アメリカの「慣習的単
位」に合わせざるをえない状態だ。国際線の
旅客機でも、高度や距離の表示に、メートル
とフィートが併用されていることは、よく知
られている。
 現代におけるグローバル化の中心にある米
英が、かつてのフランス主導のグローバル化
に対して、ローカルな「慣習的単位」に固執
している事実を見ても、グローバル対ローカ
ルという関係が、文化外の要素も多分に含む
「力関係」の上に成り立っていること、普遍
指向と特殊な慣習的価値の尊重という対立も
、状況次第、「力関 係」の都合次第でいか
に変わるものであるかがよく分かる。

(川田順造『もう一つの日本への旅』による
)∵
 【1】もしも「忘れる」という現象が境界
の融けてしまう現象であるとしたら、この「
融けてしまう」という現象の形で現れている
ものをさらに私は問わなくてはならない。と
いうのも「融けてしまう」というのは、融け
て消えてしまうというような意味では決して
ないからである。
 【2】融けるというのは、一滴のインクが
大海のなかに拡散的に融けてなくなるという
ようなものではない。そうではなくて自分を
保ちながら、ある相手と交わり、そのあいだ
の境界を融かしてしまうあり方のことをここ
では意味している。
 【3】これはある交流の形態である。私た
ちはたしかに大気や大地といつも交流し、交
感し合っている。実際私たちの生理現象(呼
吸や消化や新陳代謝等)はまさに大気や大地
との相互性そのものである。しかし問題は、
そういう相互性そのものに目をとめよ! と
いうところにあるのではない。【4】そうで
はなくて、そういう相互性を私たちは少しも
自覚していない、つまりそれを忘れていると
いう現象の方に注目しようというのである。
 生理学や生態学であれば、おそらくその相
互性そのものに諸手でとびついて、いかに生
体が環境世界と交わり合っているか、得意気
に説明しにかかるであろう。【5】素人の私
たちは、そんなにもたくさんな関係を自分た
ちは外界とむすんでいるのかと、説明される
たびに感心することになるだろう。けれども
実際のところは、そういう説明を聞いたその
十分もたたないうちに、大地の上を二本足で
歩き、空気を吸って、つねに新陳代謝してい
ることなどキレイさっぱり忘れて行動してい
るのである。これが日常の姿である。
 【6】これはどういうことなのかというと
、私たちはこの「忘れる」という形で、実際
のところキレイさっぱり大気や大地のことを
忘れ去っているのではなく、私たちと大気や
大地との関係を気にもとまらないほどに融け
合わせている、ということだったのである。
【7】つまり融け合うという形で相手と交流
し合っていたのであ る。「忘れる」とは「
失う」ような関係ではなく、もっと積極的な
相手との交流の実現の形だったのである。∵
 私はここで一気に主題の核心を取り上げて
おこうと思う。【8】それは私たちの存在様
式が、その根本において、個体としてではな
く交わりとしての存在様式である、というこ
とについてである。つまりある存在があって
それが外界と関係をもっているというのでは
なく、そもそもはじまりそのものが交わりと
してある、ということについてである。
 【9】この根源としての交わりを「忘れる
」ことによって、私たちは逆に、交わってい
ることよりか、互いに区別し合って境界をも
っていること、つまり私たちが個体であるこ
との方をより自覚してきたのである。「覚え
ている」とはまさに境界を覚えていることで
あり、覚醒とは、個体であることの自覚なの
である。【0】
 根源に交わりがある。いや根源が交わりで
ある。このことを本当に理解することは、今
日ではしごく難しいことになってきている。
なぜなら私たちは交わりということを思い浮
かべる前に、かならず個体を想定してしまう
ことに慣れているからである。出発は個体で
はなく交わりそのものである。このことの理
解がしだいにできなくなりつつある。
 「根源としての交わり」と私が呼んだもの
、それを私たちのよく知っていることばに言
い直せば、生命ということになる、と私は思
う。(中略)
 結論をさきにいえば、意識や心理や認識は
すべて個体の現象として扱える面があるのに
(むろんそれはみかけにすぎないのだが)、
生命には個体をこえる拡がりがあるかのよう
に感じられるからである。(中略)
 問題は生命なるものを日常的に問う観点が
発見されていないところにあるのではないか
。宗教用語や生物-生理学用語で記述される
生命以外に、日常用語で記述される生命がま
だないのではないか。その辺が最大の問題で
あるように私には感じられてきた。

 (村瀬学の文章に拠る)