長文 4.3週
1. 【1】ある特定の動物になる、あるいはその動物の身になったところを想像してみる、ということが文学の世界ではよくあります。漱石そうせきの『我輩わがはいねこである』やカフカの『変身』はその代表的な例です。
2. これらの作品を読んでいると、このような想像もそれほど突飛とっぴな話ではない気がします。【2】その動物になってしまったら、自分の生活はどうなるのか、「どんな感じ」がするのか、想像することは、簡単な気がするでしょう。
3. しかし、ほんとうにそうでしょうか。精密に検討してみると、このような想像が意外に困難であり、むしろ不可能に近いことがわかってきます。【3】正確に言うと、「想像すること」自体は簡単なのですが、その妥当だとう性を主張することが無意味なのです。
4. 哲学てつがく者ヘーゲルは、この問題を、もっともきちんと提起した人です。かれは、そのタイトルもずばり「コウモリになったらどんなふうか?」という論文で、その不可能さと無意味さを指摘してきしています。【4】「コウモリの身になったらどんなふうか、その体験事実はコウモリだけに特異的なもののはずである。あまりにも特異的すぎて、それをわれわれ人間が想像できると主張することすら、ほとんど無意味なのだ」とかれは言います。
5. 【5】たとえば、自分のうで網状あみじょうに枝分かれして、その間にまくが張り、空を飛べるようになったら、どんなだろうとか、明け方や夕方の空を飛びながら虫を捕まえつか  られたらとか、一日中洞穴ほらあな天井てんじょう裏に足でつかまって逆さ吊りつ でいたら、などと想像することは、もちろんできます。【6】目がほとんど見えず、ちょう音波のエコロケーション(反響はんきょう定位)・システムを使って環境かんきょう世界を知覚するということも、ある程度想像することは可能だともいえます。
6. しかし、そのような想像をしている限り、それは「私がコウモリの身に押し込めお こ られたら」という想像でしかありません。【7】飛行機にパイロットが乗り込みの こ 操縦するように、コウモリに「私が」乗り込みの こ 「操縦する」ことを想像したら、という特異なケースでしかないのです。(中略)
7. しかし、いまここで問うているのは、そういうことではありませ∵ん。【8】「コウモリがコウモリとして、コウモリの身で体験する世界とはどのようなものなのか」という問いなのです。その問いに答えようとして想像力を働かす瞬間しゅんかんに、そこには「私」の「ヒト」としての制約が避けさ がたくはたらいてしまいます。【9】この制約そのものがすでにして、ここで要求されている課題と矛盾むじゅんします。つまりどうがんばっても、想像されたものは「ヒトの身体」の経験であり、「ヒトの心」の経験でしかないのです。
8. まだ納得できないと言われる方のために、もう少しがんばってみましょうか。【0】
9. つまり、ヒトとしての「過去」、ヒトとしての「記憶きおく」がじゃまをしているということだろう。それなら、先ほどの「飛行機とパイロット」のような状態でも構わない、強引に(ヒトの来歴をひきずったまま)コウモリに「乗り込んの こ で」、コウモリのセンサー(感覚器)を使い、コウモリのつばさを使って飛び続けてみてはどうか。そうすればやがて、コウモリとしての「経験」、コウモリとしての「来歴」ができ、コウモリとしての「自我」さえ(もしそんなものがあるとすれば)芽生えるかもしれない。その分だけコウモリ自身の体験に近いものを体験できるのではないか。
10. これはかなりいい線を行っている議論だと思います。しかしこれをさらに徹底てっていするには、人間としての感覚能力や記憶きおくをすべて「失う」、あるいは「消し去る」というところまで推し進めないと完璧かんぺきではありません。そうでないと、完全にコウモリとしての「来歴」を獲得かくとくしたことにならないのです。
11. ところがそうなったとすると、そこに存在するのは「私」ではなく、何の変哲へんてつもないコウモリが一ぴきいるだけということになりはしないでしょうか。つまり、この思考実験の前後を比べると、もとは「私」と自ら呼んでいたヒトが一人消え、コウモリが一ぴき増えただけという話になるのではないでしょうか。「コウモリになったとしたときの体験をありありと想像できるか」という最初の課題も、どこかで蒸発してしまうことになるのです。
12. 
13.(下條しもじょう『「意識」とは何だろうか』より)