1. 【1】なぜ人を殺してはいけないのか。
僕の考えを簡単に言うと、こうなります。人は自分を人間だと思っています。なぜ人間だと思っているかと言うと、自分を知っている他人が自分をそのように見て、そのように承認してくれていると確信しているからです。【2】つまり、これはへーゲルの説ですが、個人の自己の意識、オレはこういう人間だ、というアイデンティティの意識には、「他者の承認」ということが条件として
組み込まれています。そして、人間だという意識は、このアイデンティティの一番の下部構造をなしているのです。
2. 【3】ところで、人間というのは、どんなことがあっても人を殺すべきでない、と
僕達は思っています。何が起こるかわからないし、そうなれば自分がどうなるかわからない。殺人
鬼が
迫ってきて、相手がスキを見せたら、
僕でも正当防衛のためにこの殺人
鬼を
刺すかも知れません。【4】でも、とにかく、平常心では何があっても人は殺しちゃいけないと思っている。そのようにして、
僕の人間意識は成立しています。
3. ところで、その
僕が、自覚してたとえば自分の都合で、人を殺したとします。【5】すると、きっと他人は
僕を人間の
規矩を外れた存在と見るだろう、という予期が
僕には訪れます。むろん、本当のところはわかりませんよ。
誰もそんな
僕に関心を持たないかも知れません。【6】でも、他人のことは結局
誰にもわからないのですから、大事なのは、どう他人が思うか、ではなく、どう他人が思うと
僕が思うか、ということです。それが他人の像がとりあえず
僕の自己の意識に持つ意味にほかなりません。【7】
僕には、きっと他人に人間と見られないだろう、という確信が生じる。すると、どうなるか。
僕の中で、自分が人間であるという意識、アイデンティティが
揺らぎます。つまり人を殺すと、その結果として、
僕が自分で自分は人間だと思っている、その確信が
揺らぎ、
壊れてしまうのです。
4. 【8】むろん、何が起こるかわかりませんから、
僕だって人を殺すことがないとは言えません。日本で最大の宗教家の一人である
親鸞∵は、「心のよくて人を殺さずにあらず」と言っていますね。悪いから人を殺すのでもないし、人間がよいから人を殺さないのでもない。【9】どんな心の清い人間でも、ある
状況の中ではつい人を殺してしまうということもあるし、どんなに人を殺そうとしても、
状況によっては殺せないということもある。人を殺す、殺さないは、その人とその人の置かれた
状況の関係から生じると考えたほうがいい、と言うのです。【0】
5. ですが、そのことは、だから人を殺しても人は元通りに回復されるということではないのですから、人を殺してしまう場合には、その人の中で、一度
壊れた「人間」がどのようにどこまで再修復されるか、というドラマが生じることになります。
6. たとえば、ドストエフスキーの『罪と
罰』はそのようなことを
描いた小説と言えるでしょう。これは、頭脳明断な青年が、
誰からも
疎まれているような金貸しの
婆さんを、人類的な理想実現のため殺していけない理由はない、という理論を実行するため、
斧で殺す、という小説です。竹田
青嗣があるところでこの小説に
触れ、面白い個所を引いているんですが、
老婆を
斧で殺した後その青年ラスコーリニコフに変な感覚が生まれます。
彼はその後世界で一番愛している母と妹と会うのですが、話をしていても、何か落ち着かない。「その話は後でゆっくりしましょうよ!」と母との話を打ち切るんだけれども、その時、絶対に、そんな時はもう二度と来ないだろう、という感覚が
彼にやって来るのです。
7. なぜ人を殺したらいけないのか。そうすると、自分で自分を人間社会の一員だと思えなくなってしまう、人間としてのアイデンティティを失う、とさっきは言いましたが、それってどういうことなのか。自分の中で、何か大切なものが
壊れる。人間としてのアイデンティティを失うとは、
誰とも心を開いては話せなくなる、ということです。だからやはり、人を殺すのは、自分にとってまず、よくない、そういう理由があると思うんです。
8.(
加藤典洋『理解することへの
抵抗』)