長文 5.3週
1. 【1】なぜ人を殺してはいけないのか。ぼくの考えを簡単に言うと、こうなります。人は自分を人間だと思っています。なぜ人間だと思っているかと言うと、自分を知っている他人が自分をそのように見て、そのように承認してくれていると確信しているからです。【2】つまり、これはへーゲルの説ですが、個人の自己の意識、オレはこういう人間だ、というアイデンティティの意識には、「他者の承認」ということが条件として組み込まく こ れています。そして、人間だという意識は、このアイデンティティの一番の下部構造をなしているのです。
2. 【3】ところで、人間というのは、どんなことがあっても人を殺すべきでない、と僕達ぼくたちは思っています。何が起こるかわからないし、そうなれば自分がどうなるかわからない。殺人(迫っせま てきて、相手がスキを見せたら、ぼくでも正当防衛のためにこの殺人(刺すさ かも知れません。【4】でも、とにかく、平常心では何があっても人は殺しちゃいけないと思っている。そのようにして、ぼくの人間意識は成立しています。
3. ところで、そのぼくが、自覚してたとえば自分の都合で、人を殺したとします。【5】すると、きっと他人はぼくを人間の規矩きくを外れた存在と見るだろう、という予期がぼくには訪れます。むろん、本当のところはわかりませんよ。だれもそんなぼくに関心を持たないかも知れません。【6】でも、他人のことは結局だれにもわからないのですから、大事なのは、どう他人が思うか、ではなく、どう他人が思うとぼくが思うか、ということです。それが他人の像がとりあえずぼくの自己の意識に持つ意味にほかなりません。【7】ぼくには、きっと他人に人間と見られないだろう、という確信が生じる。すると、どうなるか。ぼくの中で、自分が人間であるという意識、アイデンティティが揺らぎゆ  ます。つまり人を殺すと、その結果として、ぼくが自分で自分は人間だと思っている、その確信が揺らぎゆ  壊れこわ てしまうのです。
4. 【8】むろん、何が起こるかわかりませんから、ぼくだって人を殺すことがないとは言えません。日本で最大の宗教家の一人である親鸞しんらん∵は、「心のよくて人を殺さずにあらず」と言っていますね。悪いから人を殺すのでもないし、人間がよいから人を殺さないのでもない。【9】どんな心の清い人間でも、ある状況じょうきょうの中ではつい人を殺してしまうということもあるし、どんなに人を殺そうとしても、状況じょうきょうによっては殺せないということもある。人を殺す、殺さないは、その人とその人の置かれた状況じょうきょうの関係から生じると考えたほうがいい、と言うのです。【0】
5. ですが、そのことは、だから人を殺しても人は元通りに回復されるということではないのですから、人を殺してしまう場合には、その人の中で、一度壊れこわ た「人間」がどのようにどこまで再修復されるか、というドラマが生じることになります。
6. たとえば、ドストエフスキーの『罪とばつ』はそのようなことを描いえが た小説と言えるでしょう。これは、頭脳明断な青年が、だれからも疎まうと れているような金貸しの婆さんばあ  を、人類的な理想実現のため殺していけない理由はない、という理論を実行するため、おので殺す、という小説です。竹田青嗣せいじがあるところでこの小説に触れふ 、面白い個所を引いているんですが、老婆ろうばおので殺した後その青年ラスコーリニコフに変な感覚が生まれます。かれはその後世界で一番愛している母と妹と会うのですが、話をしていても、何か落ち着かない。「その話は後でゆっくりしましょうよ!」と母との話を打ち切るんだけれども、その時、絶対に、そんな時はもう二度と来ないだろう、という感覚がかれにやって来るのです。
7. なぜ人を殺したらいけないのか。そうすると、自分で自分を人間社会の一員だと思えなくなってしまう、人間としてのアイデンティティを失う、とさっきは言いましたが、それってどういうことなのか。自分の中で、何か大切なものが壊れるこわ  。人間としてのアイデンティティを失うとは、だれとも心を開いては話せなくなる、ということです。だからやはり、人を殺すのは、自分にとってまず、よくない、そういう理由があると思うんです。

8.(加藤かとう典洋『理解することへの抵抗ていこう』)