長文 4.1週
1. 【1】野球で「二年目のジンクス」ということがよく言われる。一年目は好成績を残したのに、二年目はさっぱりダメという場合である。イチローのような特段に優れた選手は例外で、ほとんどが並の実力の持ち主だから、一年目は誤差でたまたまいい成績となっただけで、二年目からは平均に
戻ったと考えた方が正しいだろう。【2】にもかかわらず、スウィングが悪い、モーションが悪いと
指摘され、自分もそうではないかと
思い込んでフォームを
崩してしまい、結局大成しなかった選手が多くいる。数年間を見て実力を見極める度量が欲しいものである。
2. 【3】以上、判断の各過程におけるエラーについて述べてきたが、それらに共通する心理を整理しておこう。
3. まず、「認知的節約の原理」がある。限られた情報から欠けた部分を経験や先入観や単純な類推によって補い、効率よく事態を処理しようとする心理のことだ。【4】本人にとって負担が少ない思考法だが、そこにエラーが生じてしまうのだ。
4. 続いて、「認知的保守性の原理」を挙げよう。すでに持っているスキーマを保ち
維持しようとする
傾向で、反証を無視したり、無理にでも自分の
描像に合わせてしまう心理である。【5】自分は
一貫した考え方をしていると自認できるので心理的な安定感が得られることになる。だからこそ
間違いやすいとも言える。自分が安心できる思考法でつい安住してしまうからだ。
5. 【6】もう一つは、「主観的確証の原理」で、どちらともつかない
証拠だけでなく明らかな反証であっても、自分の予期を積極的に支持していると勝手に
解釈する心理
傾向である。「いやよいやよも好きのうち」と身勝手に
思い込んでセクシュアルハラスメントに
及ぶ人間がその典型と言える。【7】自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして
安閑としている人にお目にかかることが多いのはこのためだろう。
被疑者に対して
状況証拠しか見つかっていないのに犯人と決めつけ、すべてその仮定の下で
解釈したがる例もある。【8】犯人が見つかっていないと不安だが、強引にでも決めつけてしまえば安心するのだ。(早く安心したいという気持が底に
潜んで∵いることもある。)この心理には、思考の経済性や
一貫性なども
絡み合っている。こうなるともはや自省する気持を失ってしまう。
6. 【9】さらに付け加えるとすれば、「
偶然性を
拒否したい心理」、
言い換えれば「確固とした因果関係として説明したい心理」もある。
偶然に起こったことであっても必然だと
思い込み、それをきちんとした因果関係で説明しようとすると科学的な理由が見つからず、ついに
超常的現象だと考えてしまうケースである。【0】予知夢がテレパシーしかないと
解釈し、たまたま当たったのを
透視できたと受け取り、そのまま
信じ込んでしまうのだ。認知的エラーを自覚しない人ほど、自分の体験を絶対化して
信じ込む傾向が強い。「しょせん、体験したことがない人にはわからない」として、他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまうのだ。そして、自分の意見を強調すればするほどその信念はいっそう強くなっていき、もはや
後戻りが不可能になる。
7. むろん、人間の認知エラーが多いと言っても、私たちは日常生活において大きな支障なしに生きている。それを無意識のうちに
矯正したり、または大きな問題が起こらないので気づかないままやり過ごしている。ときには認知エラーが人間の生存にプラスにはたらいていることもあると知っておくべきだろう。あまりに気にし過ぎると
神経症を病むことになりかねないからだ。
8. ただ、
突発的な事件が起こって
即座の判断を
迫られたり、すぐに合理的な
解釈ができない事象に
遭遇したりしたとき、認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないことが
肝腎なのである。それは疑似科学に
騙されていないか自らを点検することにも通じるからだ。
9.(池内
了『疑似科学入門』による)
長文 4.2週
1. 【1】教養の危機を語るにつけて、現代人の
俗耳にもっともはいりやすい説明は、いわゆる情報化時代の
脅威であろう。その場合、問題の
焦点はおもにメディアの革命にあてられる。
2. 電子メディアの台頭によぶ活字文化の
衰退が
憂慮されるのがつねである。【2】
端的にいえば、人びとがテレビ映像に
耽溺して本を読まなくなり、関心は総合雑誌よりもインターネットの情報に向いているといった現象が、不安として
指摘される。(中略)
3. 【3】変化のポイントは、知の性質のなかで永遠性よりも新しさが価値を
占め、
脈絡よりは断片性が強められ、知がより多く時事的な
好奇心と実用性に
訴えるようになったことであった。写本の聖書よりは個人の著作のほうが、著作よりは雑誌論文や新聞記事のほうが、ときどきの移り行く関心に応え、その分だけ視野の
脈絡に欠けることは明らかだろう。【4】単行本の目次は、一つの論理の構成を示しているが、雑誌の目次や新聞のページ建ては、多様な主題を
緩やかに分類しているにすぎない。そして情報という言葉のもっとも常識的な定義が、この主題の多様性、
新鮮さと断片性、
猟奇性と実用性であることはいうまでもあるまい。【5】古い情報、役に立たない情報、論理の難解な情報などは、
誰の興味もひかないはずである。
4. ちなみに、知(knowing)を、その働きの方向によって分類すれば、情報(information)と反対の極をめざすのが、
知恵(wisdom)だと見ることができる。【6】聖書の
知恵、長老の
知恵、おばあさんの生活の
知恵という言い方が暗示するように、それは時間を
超えた真実を総合的にとらえるものとして理解されている。
知恵は深い意味で実用性を持つが、およそ新しさや多様性とは
縁がなく、それ自体が内部から自己革新を起こす性質にも欠けている。【7】
知恵は永遠であり
唯一であり、その内部にも多様化への余地を許さない統一性を保っている。そして、このように
比較すると、
普通に知識(knowledge)と呼ばれる種類の知は、∵構造と機能のどちらの面でも、この
知恵と情報の中間にあると考えられるのである。
5. 【8】知識は断片的な情報に
脈絡を
与え、できるだけ広い知の統一性を求めるとともに、できるだけ永く持続するものにしようとする。その点では、明らかに情報よりは
知恵の方向をめざしながら、しかし知識はその内部に多様な情報を組みこみ、全体としては分節性のある構造をつくりあげる。【9】全体を区切る細部があって、そのあいだに順序配列のある統一をつくるのである。知識はたえず新しい情報を受け入れて自己革新に努め、同時に古い知識との連続性を
維持しようとする。一方、内側にも外側にも複雑な
脈絡を持つ知識は、情報よりも
知恵よりもそれを理解するのに努力を必要とする。【0】さらに実用性という点から見ても、知識はこの二つに比べて効用をわかりにくくしたのが特色だといえよう。
6. こうした知識がにわかに拡大したのが十八世紀であって、自然科学を中心に
随所で神秘的な
知恵や経験的な
知恵を
駆逐して行った。青年の学ぶ新しい学問のほうが、村の長老やおばあさんの言い伝えよりも尊重されるようになったのである。だがその反面、知識は最初からたえず情報に背後を
脅かされ、体系的な統一性を試される宿命をおびていた。十八・九世紀は新発見の時代でもあって、理論的な知識は、それに合わせてたえず
組み替えを求められたからであった。知識が
増殖し視野が
分岐するにつれて、その全体を統一する中心的な価値が
揺らいだことは、先に述べた。二十世紀はこの
趨勢がさらに力を増して、ついにいっさいの求心性を欠いた情報の群れが優位を
占める時代になったのである。
7. (
山崎正和『歴史の真実と政治の正義』による)
長文 4.3週
1. 【1】ある特定の動物になる、あるいはその動物の身になったところを想像してみる、ということが文学の世界ではよくあります。
漱石の『
我輩は
猫である』やカフカの『変身』はその代表的な例です。
2. これらの作品を読んでいると、このような想像もそれほど
突飛な話ではない気がします。【2】その動物になってしまったら、自分の生活はどうなるのか、「どんな感じ」がするのか、想像することは、簡単な気がするでしょう。
3. しかし、ほんとうにそうでしょうか。精密に検討してみると、このような想像が意外に困難であり、むしろ不可能に近いことがわかってきます。【3】正確に言うと、「想像すること」自体は簡単なのですが、その
妥当性を主張することが無意味なのです。
4.
哲学者ヘーゲルは、この問題を、もっともきちんと提起した人です。
彼は、そのタイトルもずばり「コウモリになったらどんなふうか?」という論文で、その不可能さと無意味さを
指摘しています。【4】「コウモリの身になったらどんなふうか、その体験事実はコウモリだけに特異的なもののはずである。あまりにも特異的すぎて、それをわれわれ人間が想像できると主張することすら、ほとんど無意味なのだ」と
彼は言います。
5. 【5】たとえば、自分の
腕が
網状に枝分かれして、その間に
膜が張り、空を飛べるようになったら、どんなだろうとか、明け方や夕方の空を飛びながら虫を
捕まえられたらとか、一日中
洞穴や
天井裏に足でつかまって逆さ
吊りでいたら、などと想像することは、もちろんできます。【6】目がほとんど見えず、
超音波のエコロケーション(
反響定位)・システムを使って
環境世界を知覚するということも、ある程度想像することは可能だともいえます。
6. しかし、そのような想像をしている限り、それは「私がコウモリの身に
押し込められたら」という想像でしかありません。【7】飛行機にパイロットが
乗り込み操縦するように、コウモリに「私が」
乗り込み「操縦する」ことを想像したら、という特異なケースでしかないのです。(中略)
7. しかし、いまここで問うているのは、そういうことではありませ∵ん。【8】「コウモリがコウモリとして、コウモリの身で体験する世界とはどのようなものなのか」という問いなのです。その問いに答えようとして想像力を働かす
瞬間に、そこには「私」の「ヒト」としての制約が
避けがたくはたらいてしまいます。【9】この制約そのものがすでにして、ここで要求されている課題と
矛盾します。つまりどうがんばっても、想像されたものは「ヒトの身体」の経験であり、「ヒトの心」の経験でしかないのです。
8. まだ納得できないと言われる方のために、もう少しがんばってみましょうか。【0】
9. つまり、ヒトとしての「過去」、ヒトとしての「
記憶」がじゃまをしているということだろう。それなら、先ほどの「飛行機とパイロット」のような状態でも構わない、強引に(ヒトの来歴をひきずったまま)コウモリに「
乗り込んで」、コウモリのセンサー(感覚器)を使い、コウモリの
翼を使って飛び続けてみてはどうか。そうすればやがて、コウモリとしての「経験」、コウモリとしての「来歴」ができ、コウモリとしての「自我」さえ(もしそんなものがあるとすれば)芽生えるかもしれない。その分だけコウモリ自身の体験に近いものを体験できるのではないか。
10. これはかなりいい線を行っている議論だと思います。しかしこれをさらに
徹底するには、人間としての感覚能力や
記憶をすべて「失う」、あるいは「消し去る」というところまで推し進めないと
完璧ではありません。そうでないと、完全にコウモリとしての「来歴」を
獲得したことにならないのです。
11. ところがそうなったとすると、そこに存在するのは「私」ではなく、何の
変哲もないコウモリが一
匹いるだけということになりはしないでしょうか。つまり、この思考実験の前後を比べると、もとは「私」と自ら呼んでいたヒトが一人消え、コウモリが一
匹増えただけという話になるのではないでしょうか。「コウモリになったとしたときの体験をありありと想像できるか」という最初の課題も、どこかで蒸発してしまうことになるのです。
12.
13.(
下條信
輔『「意識」とは何だろうか』より)
長文 4.4週
1. 【1】私は『
牡丹灯籠』の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四
歳であったが、一編の眼目とする
牡丹灯籠の
怪談の件を読んでも、さのみに
怖いとも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。【2】それから半年ほどの後、円朝が近所(
麹町区山元町)の万長
亭という寄席へ出て、
彼の『
牡丹灯籠』を口演するというので、私はその
怪談の夜を選んで
聴きに行った。作り事のようであるが、あたかもその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、
怪談を
聴くには全くお
誂え向きの
宵であった。
2.【3】「お前、
怪談を
聴きに行くのかえ」と、母は
嚇すようにいった。
3.「なに、
牡丹灯籠なんか
怖くありませんよ。」
4. 速記の活版本でたかをくくっていた私は、平気で
威張って出て行った。ところが、いけない。【4】円朝がいよいよ高座にあらわれて、
燭台の前でその
怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の
妖気を感じて来た。満場の
聴衆はみな息を
嚥んで
聴きすましている。
伴蔵とその
女房の対話が進行するにしたがって、私の
頸のあたりは何だか冷たくなって来た。【5】周囲に大勢の
聴衆がぎっしりと
詰めかけているにもかかわらず、私はこの話の
舞台となっている
根津のあたりの暗い小さい古家のなかに座って、自分ひとりで
怪談を
聴かされているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日と
違って、その
頃の寄席はランプの灯が暗い。【6】高座の
蝋燭の火も
薄暗い。外には雨の音が聞こえる。それらのことも
怪談気分を作るべく
恰好の条件になっていたには
相違ないが、いずれにしても私がこの
怪談におびやかされたのは事実で、席の
刎ねたのは十時
頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を
逃げるように帰った。
5. 【7】この時に、私は円朝の話術の
妙ということをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに
凄くも
怖ろしくも感じられ∵ない
怪談が、高座に持ち出されて円朝の口に上ると、人を
悸えさせるような
凄味を帯びて来るのは、実に
偉いものだと感服した。【8】時は
欧化主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに
吹き捲くっている。学校に通う生徒などは、もちろん
怪談のたぐいを信じないように教育されている。【9】その時代にこの
怪談を売り物にして、東京中の人気を
殆ど独占していたのは、
怖い物見たさ
聴きたさが人間の本能であるとはいえ、確かに円朝の技
倆に因るものであると、今でも私は信じている。【0】(中略)
6. 前にもいう通り、話術の
妙をここに説くことは出来ないが、たとえばかの孝助が主人の
妾お国の密夫
源次郎を
突こうとして、誤って主人飯島平左衛門を傷つけ、それから
屋敷をぬけ出して、将来の
舅たるべき相川新五兵衛の
屋敷へ
駈け付けて
訴える件など、その前半は今晩の山であるから面白いに
相違ないが、後半の相川
屋敷は単に筋を売るに過ぎないであまり面白くもない所である。速記本などで読めば、軽々に看過ごされてしまう所である。ところが、それを高座で
聴かされると、息もつけぬほどに面白い。孝助が誤って主人を
突いたという話を
聴き、相手の新五兵衛が歯ぎしりして「なぜ
源次郎……と声をかけて
突かないのだ」と
叱る。文字に書けばただ一句であるが、その一句のうちに、一方には一大事
出来に
驚き、一方には孝助の不注意を責め、また一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと現れて、新五兵衛という老武士の
風貌を
躍如たらしめる所など、その息の
巧みさ、今も私の耳に残っている。団
十郎もうまい、
菊五郎もうまい。しかも俳優はその人らしい
扮装をして、その場らしい
舞台に立って演じるのであるが、円朝は単に
扇一本をもって、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の
妙を
尽くしたものといってよい。名人はおそるべきである。
7.(
岡本綺堂『
岡本綺堂随筆集』による)
長文 5.1週
1. 【1】
カーニヴァルの期間中、街の中心へと出向くための手段もまた祝祭的で意識的なものとなる。すなわち人々は、バスや市街電車のなかで歌を歌い、
踊り、サンバのリズムに身体を動かしながら目的地に向かう。【2】こうしたことが起こるのは
カーニヴァルのために急に交通手段が改善されたからではもちろんなく、乗り物の内部空間までが
カーニヴァルの空間へと変質したことによるものなのである。だから、バスや電車はもはや決められた時間に仕事場に着かねばならない労働者によって
占められてはいない。【3】そこに乗っている人々が目的地に着かないかぎり、いかなる物事も始まらないのである。人々でぎゅうぎゅう
詰めになった公共の交通機関による通勤という、都市の日常生活における
地獄のような苦痛の時間が、
カーニヴァルのあいだきわめて創造的な
瞬間に変化する。【4】この
瞬間人々は笑いや
冗談や身体の
接触を通じて、
強烈な生感覚を味わうのである。
2.
カーニヴァルにおいては、場所の移動という
行為自体が、高度に
遊戯化され、
儀礼化された別種のリアリティとして民衆によって生き直されていることを、こうした
指摘は示している。【5】不毛で、苦痛だけが
充満する日常的通勤
行為が、いかに祝祭的な場に変容しているかを、右の
描写は見事に伝える。(中略)∵
3. ダ・マッタも
指摘するように、ブラジルでは、
カーニヴァルのあいだにいかなることが起きようと、それは「本気」(serio)ではなく、一種の「遊び」「
冗談」であるという
一般的な
信仰のようなものがある。【6】しかしこの場合、それは
冗談だから許される、とか、真面目でないから責任がない、といった、自己弁明的な
理屈を保証するための留保ではない。むしろ逆に、ここで主張されているのは、真面目でないものこそが永続的な価値をもつ、という強固な民衆的
信仰についてである。【7】ブラジルにおいて、規則と常識と事大主義によって支配された
堅気な真面目さ=
堅苦しさ(ポルトガル語のserioに対応する一語を見つけることは難しい)を代表するのは、政府機関、政党、学校、裁判所といった公共的な組織から、【8】会社、銀行、さらには教会や社交クラブといった組織にいたるあらゆる中産階級的な法人組織であり、それらは一種の永続性のイデオロギーを所有しているものの、現実には社会のなかでつねに改変や整理の対象とされ、
驚くほど
頻繁に現われては消えるという動きを
繰り返してきた。【9】役所や
企業の
標榜する永遠性へのオプセッションは、かなわぬ理念にすぎないことを民衆はすでに
悟ってしまっている。これと対照的なのが、貧しく、地味であっても決して
廃れることも
宗旨替えすることもなく、昔ながらの熱気とともに存続してきた
カーニヴァルの地域集団なのである。【0】永遠性のイデオロギーを
戴くかにみえる制度的な法人組織が、じつははかない命しか持たず、逆説的にも、まったく自発的に生まれ組織を欠いた
カーニヴァル集団と祝祭の方が、結局は日々生きる民衆の永続性への希求をまっすぐに受けとめることができる…。このパラドックスのなかの真実に目覚めることによって、ブラジルには、真面目でないもの、中産階級に属さないものはすべて生き残る、という強固な
信仰が生まれることになったのである。
長文 5.2週
1. 【1】過去のわが国の外国語教育は、たしかに読解力と文法のみに重点を置きすぎたといえる。そのため、
哲人カーライルのような文章が書けても、話す方は
赤ん坊に等しい「教養人」が生産されてしまった。しかし、だからといって、発音の方は立派でも、内容
空疎な会話しかできないというのでは、決して国外で尊敬されることにはなるまい。【2】そう考えると、小学校レベルで外国語に親しませるというのは本当に必要だろうか。低学年では、むしろ国語を正確に読み書き話す力をつけるのが先決であり、その
基盤なしに外国語を教えても、
中途半端な根無し草的「国際人」を養成することになりかねない。(中略)
2. 【3】文法や
語彙を重視してきた反動として、近年それらを軽視し、発音や
流暢さだけを追い求める向きがあるが、これは
間違っている。格調ある言葉を使う必要は、日本語でも外国語でも同じである。発音については、あまりひどい片仮名発音は禁物であるが、発音が全く英米人のようである必要はなく、ある程度の
訛りはかまわない。
3. 【4】多少の
訛りは、話している人の文化的アイデンティティーを示しており、世界が多様であることを物語っている。長い国連生活で、私は各国の外交官や国連職員がお
国訛りの英語やフランス語で、堂々と自分の考えを述べるのを聞いてきた。【5】
流暢さより、話す内容の方が、はるかに重要なのである。現行の語学教科書には、学ぶ人の知的水準を無視したものが多く、読者の文学性や
哲学的関心をそそるような教材の使用に努めるべきだろう。
4. 【6】とはいっても、いまの日本の英語教育にもっとも欠けているのはやはり聞き取りと会話の能力であろう。会話に先天的な能力などはなく、中学生の
頃から自分をそうした
環境において、話す能力をつけていくしかあるまい。【7】また日本人の英語教師のすべてに
是非とも海外留学の機会を
与え、本場の英語に
触れさせるべきである。
5. JETプログラム(地方公共団体による外国人教師
招致事業)で英語使用国の数多くの若者が来日しているが、この人たちをもっと本格的に活用し日本人学生の外国人
恐怖心をなくしていくべきだ。∵【8】「ものいわぬは腹ふくるるわざ」だと
兼好法師がいっている。幼少から外国人の中で暮らした少数の人を除いた、多数の日本人にとって、語学習得の近道はない。
恥をかき、反復をいとわずに勉強しながらも、過度に完全主義にならないことだ。【9】なかでも、よい教師や友人にめぐりあい、
刺激をうけることが、学ぶ者にとって大事である。
6. グローバル化とアングロ・サクソン化は
違うのだが、英語を話す人口は約八億人と推定され、その数は増加する一方だ。【0】国際的取引や知的職業に属す人々の
圧倒的多数が英語を話しており、インターネットの導入がそれを加速している。
7. グローバル化にとり残されないために、我々はより効果的な英語教育に
真剣に取り組まなければならない。日本人だけの心地よい以心伝心の世界に安住することは、もはや許されない。
完璧でなくても外国語をあやつり、国境を
超える骨太の論理を
駆使して、他流試合に
挑んでいくたくましさを身につけたいものだ。
8. そのためには、東洋の島国の腹芸と自己満足を
脱却するのが必要である。とはいっても立て板に水を流すように、外国語に
雄弁である必要はない。自分なりの論理とレトリックとユーモアを使って、
訥々とでもよいから相手を説得する努力をすることが大事だ。
9. 第二次大戦後、次々と優れた工業製品を作り出すことで世界の賞賛の的になったわが国は、いま政治、社会、文化、科学など
幅広いソフトウエアの分野において、国際的な対話と共同作業に活発に参加することを求められている。外国語、とりわけ英語は、それを行うため
避けて通れない手段なのである。手段にすぎないとはいえ、それが
不如意なため、わが国の
潜在的能力が過小に評価され、世界の知的潮流に
充分に
貢献できないという結果をもたらしている。思いつきでない
大胆な解決策が、言語教育において
焦眉の急であることは明らかである。
10.(明石康「地球を読む一日本人の英語力」『読売新聞』)
長文 5.3週
1. 【1】なぜ人を殺してはいけないのか。
僕の考えを簡単に言うと、こうなります。人は自分を人間だと思っています。なぜ人間だと思っているかと言うと、自分を知っている他人が自分をそのように見て、そのように承認してくれていると確信しているからです。【2】つまり、これはへーゲルの説ですが、個人の自己の意識、オレはこういう人間だ、というアイデンティティの意識には、「他者の承認」ということが条件として
組み込まれています。そして、人間だという意識は、このアイデンティティの一番の下部構造をなしているのです。
2. 【3】ところで、人間というのは、どんなことがあっても人を殺すべきでない、と
僕達は思っています。何が起こるかわからないし、そうなれば自分がどうなるかわからない。殺人
鬼が
迫ってきて、相手がスキを見せたら、
僕でも正当防衛のためにこの殺人
鬼を
刺すかも知れません。【4】でも、とにかく、平常心では何があっても人は殺しちゃいけないと思っている。そのようにして、
僕の人間意識は成立しています。
3. ところで、その
僕が、自覚してたとえば自分の都合で、人を殺したとします。【5】すると、きっと他人は
僕を人間の
規矩を外れた存在と見るだろう、という予期が
僕には訪れます。むろん、本当のところはわかりませんよ。
誰もそんな
僕に関心を持たないかも知れません。【6】でも、他人のことは結局
誰にもわからないのですから、大事なのは、どう他人が思うか、ではなく、どう他人が思うと
僕が思うか、ということです。それが他人の像がとりあえず
僕の自己の意識に持つ意味にほかなりません。【7】
僕には、きっと他人に人間と見られないだろう、という確信が生じる。すると、どうなるか。
僕の中で、自分が人間であるという意識、アイデンティティが
揺らぎます。つまり人を殺すと、その結果として、
僕が自分で自分は人間だと思っている、その確信が
揺らぎ、
壊れてしまうのです。
4. 【8】むろん、何が起こるかわかりませんから、
僕だって人を殺すことがないとは言えません。日本で最大の宗教家の一人である
親鸞∵は、「心のよくて人を殺さずにあらず」と言っていますね。悪いから人を殺すのでもないし、人間がよいから人を殺さないのでもない。【9】どんな心の清い人間でも、ある
状況の中ではつい人を殺してしまうということもあるし、どんなに人を殺そうとしても、
状況によっては殺せないということもある。人を殺す、殺さないは、その人とその人の置かれた
状況の関係から生じると考えたほうがいい、と言うのです。【0】
5. ですが、そのことは、だから人を殺しても人は元通りに回復されるということではないのですから、人を殺してしまう場合には、その人の中で、一度
壊れた「人間」がどのようにどこまで再修復されるか、というドラマが生じることになります。
6. たとえば、ドストエフスキーの『罪と
罰』はそのようなことを
描いた小説と言えるでしょう。これは、頭脳明断な青年が、
誰からも
疎まれているような金貸しの
婆さんを、人類的な理想実現のため殺していけない理由はない、という理論を実行するため、
斧で殺す、という小説です。竹田
青嗣があるところでこの小説に
触れ、面白い個所を引いているんですが、
老婆を
斧で殺した後その青年ラスコーリニコフに変な感覚が生まれます。
彼はその後世界で一番愛している母と妹と会うのですが、話をしていても、何か落ち着かない。「その話は後でゆっくりしましょうよ!」と母との話を打ち切るんだけれども、その時、絶対に、そんな時はもう二度と来ないだろう、という感覚が
彼にやって来るのです。
7. なぜ人を殺したらいけないのか。そうすると、自分で自分を人間社会の一員だと思えなくなってしまう、人間としてのアイデンティティを失う、とさっきは言いましたが、それってどういうことなのか。自分の中で、何か大切なものが
壊れる。人間としてのアイデンティティを失うとは、
誰とも心を開いては話せなくなる、ということです。だからやはり、人を殺すのは、自分にとってまず、よくない、そういう理由があると思うんです。
8.(
加藤典洋『理解することへの
抵抗』)
長文 5.4週
1. 【1】「日本人は、
奈良時代には梅が好きだった。ところが平安時代から好みが変って、桜を愛するようになった」
2. と、こんなことを教室で教えられたり、本で読んだりしたことは、ないだろうか。少くとも私はそうだった。こう書いてある本も、いっぱいある。
3. 【2】しかし、そんな事実はない。太古以来、日本人は桜を愛してきたのである。
4. それでは、どうしてこんな
間違いがおこったのか。じつは
奈良時代にできた『万葉集』という歌集でいちばんたくさん
詠まれた花は、梅である。
5. だから、みんな、梅が好きだったと思った。
6. 【3】ところが、これは当時の中国好みの貴族
趣味によるもので、ある歌人などは梅見に人びとを招集し、みんなでいっせいに四十首ほどの梅の歌を作った。おまけに、後からこの時をしのんで梅の歌を作った人もある。
7. こうなるといっきょに梅の歌の数がふえてしまう。【4】その数を、歌の性質を
吟味しないで数えたから、個人やごく少数の人の好みを、
一般の人の好みと
勘ちがいしてしまったのである。
8. 反対に、単純に桜の歌を数えると、数は梅に
及ばない。しかし桜が民衆的には
熱烈に愛されていることがわかる。
9. 【5】また、平安時代になっても、ごく初期のころには、宮中の
正殿の前に、梅と
橘が植えられていた。それが火事で焼けて、その後桜と
橘に変った。そこでまた、人びとは梅から桜へと
趣味が移ったと誤解するのだが、最初は万事中国好みの
宮廷だったから、梅を植えたのである。【6】やがては素直に、日本
趣味にしたがって桜を植えた。
10. そこで、今後は若い世代にも「日本人はずっと桜を愛してきた」と、言おうではないか。
11. しかし、そうなると日本人はどうしてこうも、長い間桜を愛しつづけるのだろうという疑問がわく。【7】もう桜は、遺伝子の中に組みこまれてしまった記号だろうか。(中略)
12. もう桜は、日本人の遺伝子の問題である。
13. ではどんな遺伝子なのだろう。∵
14. 先ほど『万葉集』について述べたが、その中に、次のような一首がある。
15. 桜花 時は過ぎねど 見る人の
恋の盛りと 今し散るらむ
16. 【8】桜の花はどうして散るのか、作者は推測する。「この桜の花は次のように思って散るのではないか」と。つまり桜は「私を見ている人は、いまが一番私を愛してくれている」と思う。だから桜はしおれるのを待たないで散ろうと思う。
17. そう、作者は桜の落花を納得した。
18. 【9】人間にいいかえてみると、
恋人がいま、一番私を愛してくれている。だから自殺をしよう――そう思うことになる。
19. そんな人がいたら、盛りの命の死を
惜しまない人はいない。
20. もっと生きつづけて永遠の愛に生きればよかったのに、とやや批判をする人もいるだろう。【0】しかし反面、長くは生きられない命だから、花の盛りに死んでよかった、と賛成する人もいるだろう。
21. いずれにしても、これらは時間の中で命を見ていることに変りはない。
22. 命は時間の力を、まぬがれがたい。
23. このもっとも根元的な命の課題を、死からもっとも遠い花の絶頂期に考えることの、
衝撃力は強い。
24. 万葉の歌の作者は、桜の花をじっと見ることによって、無意識に体の中にたたえられていた命のうつろいが
誘い出され、花の姿がわが命の代行者として映ったのだろう。人間の死の想いを
誘い出したものは、花のあまりもの美しさだったことになる。
25.(中西進の文章による)
長文 6.1週
1. 【1】そもそも、食べることに強い関心を
抱いたのには、
遅飯コンプレックスばかりでなく、もう十年もイタリアと日本を行き来するような暮らしの中で感じてきたひとつの思いがある。スローフードという言葉が、私の中の
曖味
模糊とした思いに、あるくっきりとした
輪郭を
与えてくれた様な気がした。
2. 【2】たとえば、数百年も前の
史跡と呼んで差し支えない石造りの家屋に人が今でも住んでいるフィレンツェのような都市では、
新鮮な素材を納得のいく値段で買い、おいしいものを作ることはしごくたやすい。
3. 【3】肉は肉屋、生パスタなら製
麺屋、野菜は八百屋、パンはパン屋とそれぞれ昔ながらの専門店ががんばっている。でなければ、大きな中央市場まで足を運べば、野菜や果物もそれは色とりどりそろっていて、チーズも
塊で買えるし、無農薬野菜の店もある。
4. 【4】取材の合間に
暇ができれば、料理に
腕を奮い、そんな日にはかならず友を招く。週末や日曜の昼には、食事に招き、また招かれる。夕食時まで仕事に
捧げる人は
稀で、日本のようにノミニケーションなどといって職場の面々と飲みながら過ごすことは
滅多にしない。【5】何はさておき家族で食事である。そんなことをしているからイタリア人男性は妻に管理されっぱなしだという人もいるが、それは当てにならない。
彼らはよく外食も楽しむ。それにしたって、前菜に、パスタやリゾット、肉か魚のメインディッシュに野菜のつけあわせ、
甘い物にカフェ。【6】人によってはチーズに食後酒までいただくものだから、ゆうに三時間はかかる。
5. 日本へ帰れば、そうは問屋が
卸さない。
6. まず友人たちを食事に招きたくとも、みんな何かと
忙しい。招かれた
途端に、帰りの電車の時間を心配しはじめ、
腕時計を
覗きこんでいたりする。
7. 【7】おそらく、日本というより東京といった方がいいのかもしれないが、町が肥大化し過ぎているのだろう。
共稼ぎの友人はといえば、残業だらけでぐったりで、とてもではないが平日は夕食の買い物すらできないといって
嘆く。【8】その働く女性、
忙しい母親たち―∵―もちろん、父親だっていいわけだが――の暮らしの救世主のごとき面持ちで
巷に
溢れ返っているのが、レンジでチンするだけの
冷凍食品、お湯に投げこむだけのレトルト食品お湯を注ぐだけのカップ
麺、コンビニエンス・ストアのお弁当、デパートのお
惣菜売り場に、よりどり見取りのファーストフード・チエーン店である。
8. 【9】ところが、それだけ急いで食べる時間まで節約しておきながら、
誰もが「
忙しい、時間がない」と口にしているのはどういうことなんだろう。家族が一日に一度さえ顔を合わせる時間もなければ、愛情の証だったはずの料理に手間
暇をかける時間もない。【0】
9. 私たち日本人は、いったいいつから、ゆっくりと食事をすることもままならなくなってしまったのだろう。
10. 四割を
越える子供たちのアトピー、若者にまで増えている
骨粗鬆症や動脈
硬化、サラリーマンの過労死、
環境ホルモン、ダイオキシン、名前をもたない現代病……、すでに社会に深刻な黒い
影を落としている現象の根っこに、
狂った食生活があることに
誰もが気づいているはずだ。
11. この国は、これで
大丈夫なのだろうか?
12. 私には、スローフードという言葉が、その
暗澹たる思いに一条の光を
投げ込んだかのように思えた。
13. スローフード運動を推進する者たちは、単にファーストフード反対運動というような
了見の
狭いところに留まらない。スローフーダーの真の敵は、ファーストライフという名の世界的
狂気であり、それは、もっと複雑な現代社会の機構の中に
妖しく蠢くなにかなのだという。
14. それはいったい何なんだろう?
15. そんな疑問に
腰を
押されるようにして、九六年のある日、ふいに思い立った私は、ファーストライフ
症候群の
巣窟である日本の大都市を
離れ、スローフード協会の本部があるという北イタリアの町へと旅立った。
彼らの言い分に耳を
傾け、イタリア人たちの
食卓をゆっくり見つめ直してみたくなった。
長文 6.2週
1. 【1】かつて日本が貧しかった時代、日本人は――
殊に青年は人生について社会について自分自身について本気で考えたものだった。なぜ働きたいのに仕事がないのか、なぜ働けど働けど貧しいのか、なぜ権力はこのように強大なのか、なぜ自分の命を戦場へ捨てに行くのか……。【2】どれも
素朴なしかし切実な疑問だった。若者は社会の
矛盾に気づき、
闘うか
妥協するか、全体のために生きるか、個人の幸福を優先させるかを迷い、考え、
憤った。己れの無力
卑小を
嘆き、思うに委せぬ現実に
切歯扼腕して苦しみ、そして考えた。
2. 【3】だが経済大国になった日本の社会は、自由と豊かさによって「考えない日本人」を作り出した。いかに生きるかについて考えなくても、「フツー」にしていれば生きていけるのである。【4】青年が考えるとしたら大学受験と就職を考えればよいのである。
壮年が考えることはいかに社会の流れと
妥協して得をするかということであり、老人はいかに老後を楽しみ、いかに安楽にうまく死ぬかということを考える。
3. 【5】男子大学生に向って「万一、日本が軍事
攻撃を受けた場合、どうするか」というアンケートを取ったところ、「戦う」にマルをつけたのは100人中ただ一人で、あとの99人は「安全な場所を
捜して
逃げる」にマルをつけたという。【6】その話をした人は、若者から勇気や愛国心が
欠如したことを
嘆きたいようだったが、私は
彼らはただ「何も考えない」だけなのだろうと思う。多分
彼らは反射的に答を出しただけなのだ。
彼らは考えない。すべてアドリブでことをすませてしまう。【7】考えるのは
面倒だから考えないというよりも、考える習慣がなくなっているのにちがいない。
4. 「人間は一
茎の
葦のように弱いものだが、しかし人間は考えることを知っている」とパスカルはいった。「我々の品位は思考の中にのみ存在する。正しく考えるようにつとめよう」と。
5. 【8】だが今、人は考える
葦ではなくなった。我々は宇宙に乗り出し、
怖れを知らずにそれを利用しつつある。科学の力で命を産み出し、死さえ遠ざけることが出来ると思っている。「考える」ことを捨てたのだ。【9】私は
貧乏な若者が好きである。若者の燃え
熾るエネ∵ルギーと
貧乏が、固く
握ったゲンコツのようにがっちりと組み合さって
不如意と
闘う姿が好きである。【0】
6. 「本郷西片町より高台の方を
仰ぎ見れば、並びなせる下宿屋の
楼上
楼下、無数の窓我に向いてもの言うが
如く灯明らかにともされたり、
此の多くの窓の中の何れかの窓より未来の
偉人傑士出る事ならんと思えば一層に
懐かしき心地す、と同時に
此の窓の中に
有為の材を以て空しく一生
朽ち果つべき運命を有するものもあらんかと思えば胸
潰るる
許りなり」
7. これは私の父の明治38年春の日記の一節である。並んでいる下宿屋の無数の窓に明々とともされた灯の下、貧しい学生たちが一心に書物を読んでいる姿を想像して胸を打たれた父の、その青年への想いが私の胸にも熱く伝わってくる。日本が貧しく
矛盾に満ちていた時代、刻苦
勉励という言葉が生きていた時代だ。
8. 貧しさ故に若者は考えた。
鬱屈して考えるが故に広大な未来があった。可能性に満ちた洋々たる
前途、夢があった。それが若者の貧しい青春に
輝きを
与えていた。今、豊かさのみを追って考えることをやめた我々にどんな未来があるのだろう。若者たちを
含めた我々は何に向って生きようとしているのか、
更なる豊かさと安住に向って?
9. だがいったいそこにある希望とはどんなものなのだろう?
10.(
佐藤愛子『われわれが「考える
葦」でなくなったこと』より。一部改変。)
長文 6.3週
1. 【1】子供の
躾は、社会の圧力によって
為されるが、感化はそうではない。感化院というのがあるけれども、人を
監禁して行なうことを感化とは言えまい。感化は受ける者が自由に受け
与える者の意図を
超えて
与えられる。これが原則である。
躾は、そうはいかない。【2】
躾には、強制と
罰とが
伴う。それを喜んで受ける者はないだろう。そこで、
躾の義務を合理的に説明する道徳教育が必要になる。しかし、
躾を可能にさせるものは、道徳教育ではない。社会の圧力である。態と感化とのこうした関係は、反対から見ることもできる。【3】
躾は、ある社会なり共同体なりが任意の基準で強制するけれども、受ける者はそれに
反抗したり、無感覚になったりすることが可能である。感化のほうは、そういうわけにはいかない。感化には、どこか不自由になる喜びがあり、この喜びに
反抗しようとする者はいないだろう。【4】
躾は任意になされ、感化は否応なく起こる。
躾と感化とは子供が教育される時の
切り離せない二つの側面になる。個々の人間が、自然の群れのなかではなく、社会のなかに産み落とされる限り、教育のこれら二つの側面は、必要なものだと思われる。【5】社会が複雑になるほど、
躾は種々の共同体のなかで多様化し、分業化する。私が尊敬してやまないトンカツ屋のおやじは、修業時代には、ずいぶん厳しい
躾を受けたに
違いない。」の
躾は、
彼が志した職業上の技術の習得と一体になったものであり、習得に欠かせない生活条件だったとも言える。【6】
躾を欠いたままの技術教育は、まことに非効率なものである。逆に、技術教育の裏づけがない
躾は、まことに不安定なものであり、すぐに
馬鹿馬鹿しい頽廃をみる。
2. しかし、この技術教育がほんとうの素質を育て上げるには、感化が要る。【7】
模倣への欲求を
掻き立てる一人の人物が要るのである。すぐれた料理人を育てる調理場には、必ず
模倣の対象となるようなすぐれた料理人がいる。このような人物は、単に技術がすぐれているだけではない。他人の内に
模倣への欲求を
掻き立てる何かが、そ∵の技術を根底から作り出すものになっているのである。【8】
彼は意図せずして、他人に感化を
与える。意図して
為される教育は、意図せずして引き起こされる感化なしには、決して実を結ばない。
3. もちろん、これは技術教育の現場では至る所にある事例だが、学校教育では極めて少ない事例である。先生たちが悪いのではない。【9】学校で教えられている
事柄の本来の暖味さが、つまらなさが、学校での
躾と感化とをほとんど不可能にしているのである。テレビドラマに出てくる先生は、
躾抜きにいきなり感化を
与えるが、
誰にとってもあれが無理なことに見えるのは、そうした感化に不自然を感じるからである。【0】学校には具体的な
躾を必要とする技術教育がなく、尊敬される技術のないところに感化は起こらない。(中略)
4.
言い換えれば、人間の技術とは、
躾と感化とを
必須の条件として
磨かれる何かでなくてはならない。少なくとも、技術という言葉の意味をそんなふうに
扱うことは、子供の教育にとってよいことだ。受験技術という言葉がある。高級な勉強とは別に、低級な技術があり、いやでもそれを
呑み込んでいないことには、受験に失敗する、それは必要悪だ、そんな意味合いがこの言葉にある。技術という言葉が、こんなふうに
貶められているところに、子供を奮い立たせる教育などあるはずがない。
5. 「技術」という漢語は二つに
離して、「技」とか「術」とか言ったほうがいいのかもしれない。学問は、料理同様、社会のなかでひたすら
磨かれる一種の技である。学校で教わる「教科」は、そうした技にまっすぐつながっていなければ、これはもう殺人的につまらないものだろう。このつまらなさが、子供から成長する力を
奪う。感化される能力さえ
奪う。高校がつまらなければ、さっさとやめてトンカツ屋の修業に行けばよい。このことは、効率の上でも、
倫理の上でも、まったく正当に言える。
6.(前田英樹『
倫理という力』)
長文 6.4週
1. 【1】今の世の中、
孤独という言葉は、なぜか悪いイメージで
塗り固められている。いつからそうなったのか、私は知らない。いつの
頃からか、引きこもりという言葉が、現代の若者や子どもたちの、社会や学校に出られないで家にこもり切りになる
特殊な状態を指すようになってから、
孤独のイメージはすっかり悪くなった。【2】
言い換えるなら、引きこもりの若者や子どもたちが何万、何十万という数になってから、いよいよ
孤独のイメージは、社会的に手を差しのべてあげなければならないもの、
克服しなければならないもの、といった否定的なものになってしまったのだ。
2. 【3】もちろん、集中的ないじめを受けたり、心の病になったりして、まともに対人関係を保てなくなった場合には、周囲からの何らかのサポートが必要であることは言うまでもない。そういう場合の
孤独と、人間ひとりが生きていくうえで本来的にまつわりつく
孤独とでは、本質において
違うもののはずだ。両者の間に明確な線引きはできないにしても。
3. 【4】ところが、両者をいっしょくたにして、すべて
孤独はあってはならないものであるかのような風潮になっているところに問題がある。子どもには子どもなりに、心の成長や考える力をつけるためには、
孤独な時間はとても大事なのに、今の社会はそのゆとりを持たせようとしない。【5】ミヒャエル・エンデの『モモ』に
描かれた「時間
貯蓄銀行」の銀行員のように、何もしないでいると、たとえば、「あなたはきょうは、二時間三十一分四十七秒
無駄にした。一生は六十六万六千四百三十二時間二十五分四十八秒しかないのだから、時間をそんなに
無駄にしてはいけない。【6】一分一秒でも何もしない時間は私どもに預けなさい」といったぐあいに
迫るのだ。
4. やれ
塾に、やれ
お稽古に、やれ宿題に、と
迫られることに
耐えられない子どもたちは、ゲームやケータイやパソコンに
没入する。【7】大人たちは
奇妙なことに、ちゃーんとゲームやケータイやパソコンを大量生産して、子どもたちがどんどんその世界に入るのを
誘っている。そういうものをどんどん子どもに
与えるのは、「
麻薬∵を
与えるに等しい」と言ったのは、
医療少年院に勤務する精神科医・
岡田尊司氏だ。
5. 【8】ダブルバインド(二重
拘束)という精神医学用語を
紹介したことがある。社会学や人類学などマルチな才能を持つベイトソンという学者が作った、人間の心の領域にかかわる用語だ。ベイトソンが
紹介している
象徴的な
症例はわかりやすい。母親が精神病院に入院中の息子に面会に行く。【9】息子と並んで座った母親は、口では「あなたを愛してるのよ」と言うが、内心では息子を
恐れている。息子は言葉をそのまま受けとめ、
嬉しくなって母親にキスをしようとする。ところが、母親は
一瞬だがピクッと顔をこわばらせ、キスされるのを
避けるように身をそらす。【0】内心が身体に表れたのだ。息子は
鋭く母親の二面性を読み取り、病室に
駆け戻る。母親が帰った後、息子は暴れまくり、保護室に入れられてしまう。
6. 親が二律背反のことを同時に子どもに言うと、子どもはどちらを選んでいいかわからなくなり、精神的に混乱したり、身動きができなくなったりする。そういう親に育てられた子は、心の発達にゆがみが生じるおそれがある。これがダブルバインドとその結末だ。
7.(
柳田邦男の文章による。一部省略がある。)