ゼニゴケ の山 1 月 3 週 (5)
★アジアには国と国との協調を(感)   池新  
 【1】アジアには国と国との協調をはかる組織が少ない。ASEANや南アジア諸国連合など存在しないことはないが、本格的な国家をこえる連合体を作ろうとする動きはみられない。EU諸国のように国境をビザなしで通り抜けることができる経験をアジアの人々はもつことができない。【2】EU諸国を旅していて、空港でEUパスポートと記された入口が設けられているのをみる度に残念な気がしてならない。ASEANもいまや活発な活動に入ったが、EUのような政治共同体や通貨統合へといった動きはみられない。
 【3】それどころか現実にはますます国と国との境は高くなっているような気がする。確かに市場開放の動きとともに、中国やベトナム、ミャンマーまでが門戸開放を行ないはじめたのは好ましい徴候だとはいえ、それはあくまでも経済活動と観光のためであって、先に触れたような連合体へ向かう動きではない。【4】ビザなしの国境移動などは考えることもできないというのが、現状ではあるまいか。それに実際のところ、毎年アジアを旅していて感じるのは、各地での国家主義の高まりである。表面は国際協調をうたうが、内実は民族主義的な国家統制が厳しくなってきている。【5】国内的にも、地域や宗教や民族の自己主張が強くなり排他的傾向を示すところが少なくない。
 私は、タイでもマレーシアでも、あるいはスリランカでもインドでも、それぞれの社会や文化のあり方に共感をもち敬意も抱くが、ナショナリズムの強制だけにはついてゆけないものを感じざるをえない。【6】どこの国でも地域でも土地の文化のあたえるものを享受するのにためらいはないのだが、国家主義や過度の自民族・自宗教・自地域中心主義には正直いってうんざりしてしまうし、その面では文化相対主義にとどまることができなくなる。
 【7】それで毎度東南アジアや南アジアをめぐってきて、ナショナリズムに疲れて香港に着くと、ほっとする経験を三〇年近く繰り返してきた。
 香港は英国の植民地であるが、少なくとも私の知るこの三〇年ほどは、まず自由港として、次に英国でも中国でもないような東西融合地点として存在してきた。 (中略)
 【8】近代のもたらしたアジアの悲劇の中心には何といっても西欧列強による植民地化があり、それに日本も加わったわけであるが、植民地からの独立はほとんどのアジア諸国の悲願であった。第二次大∵戦後多くの国は独立したが、その後の国家づくりは決して平坦なものではない。【9】近代国家のモデルである「国民国家」を作り出すことでは、敢えていわせていただくならば、ほとんどの国が失敗しているとみてよいのではないか。
 多民族、多言語、多地域の社会からなる国々では、統合された国民と国民文化と国語の形成がまず困難である。【0】中央政府の支配は国の隅々までとうてい行き届かない。官僚制も弱い。日本やタイなどの例外はあっても、韓国やベトナムは植民地後遺症としての内乱の混乱から生まれた分断国家に悩み、中国は体制の基礎づくりのために国を閉ざし、インドは統合よりも多文化共存の方向へと苦しく転換をよぎなくされた。こうした国家づくりの中で、政治権力が行なうのは国家主義の強調である。重苦しい抑圧的雰囲気が、外面の陽気さの陰にこもっている。異国を旅する者の勝手な感想にはちがいないとしても、こうした雰囲気に次第にいら立つことの多い国々の中で香港は常に息抜きとなった。
 たしかに植民地近代の落し子ではあっても、自由港には独特の気易い雰囲気がある。その文化も混合文化の性格をもつ。アジアには少なくとも三つのこうした都市国家があった。ベイルート、シンガポール、そして香港である。
 ベイルートはパレスチナ問題と中東での紛争に巻き込まれて、崩壊してしまった。私自身一度はベイルート滞在を密かに願っていたのに、それは叶わぬ夢となっている。シンガポールも独立後は発展への道を輝かしく歩み出したが、その分だけ国家主義の色彩も強まった。短期間の観光やビジネスの出入りでは世界で一番といってよい通りのよさを有してはいるが、いまやあまりにも国家規制の多いところとなった。発展とともに国家主義も強くなるのは歴史によくみられる例にちがいない。
 香港は東アジアにおける英植民地という逆説を生きてきた。それがいつの間にか東と西、南と北とを仲介する緩衝地帯の役目をはたすようになった。香港を舞台とする小説は数あるが、ジョン・∵ル・カレの「スマイリー閣下」の香港が冷戦下のエスピオナージ活動の緩衝地帯としての香港を描いて出色であった。それは英国人の眼からとらえた植民地都市ではあるが、そこに漂う雰囲気はまさしく香港である。
 香港は一般には通過する場所であって、そこに留まることを目的とすることは少ない。もちろん、香港を故郷とする中国人も英国人もいるわけだし、本拠地を香港におく内外の企業も多いが、基本的な部分でそこは「本来ない場所」との認識もあるのだ。中国に属する領土にはちがいなく、英植民地の期限も一九九七年六月三〇日には切れる。一九八〇年代初め頃に訪れると、中・英の香港返還交渉が行なわれていたときでもあり、何か将来についての思いが定まらない刹那的な気分が漂っていた。ショッピングでもホテルでもレストランでも嫌な感じをもったことがいくつかあった。すさんだ気分があふれて、香港もこれまでかと思ったこともある。
 しかし、一九八三年の秋には中国への返還交渉が妥結して、それなりに未来図が描けるようになったこともあってか、落着きを取り戻していた。勝手な話であるが、また香港の緩衝性を享受できる気になったのである。

(青木保「逆光のオリエンタリズム」による)