1. 【1】「大人」は一人前の社会人としてさまざまな権利や義務をもつが「子ども」はそうではない。「子ども」は未熟であり、大人によって社会の
荒波から
庇護され、発達に応じてそれにふさわしい教育を受けるべきである。【2】そうした子ども観は、われわれにとってはほとんど自明のものである。しかし、われわれの子ども観がどこでも通用するわけではない。社会が異なれば、さまざまに異なった子ども観があり、それによって子どもたち自身の経験も異なってくる。【3】このことをアメリカの社会学者カープとヨールズは、次のような例を挙げて示している。
2. 例えばナバホ・インディアンは子どもを自立したものと考え、部族の行事のすべてに子どもたちを参加させる。子どもは、
庇護されるべきものとも重要な責任能力がないものともみなされない。【4】子どもの言葉は大人の意見と同様に尊重され
交渉ごとで大人が子どもの代弁をすることもない。子どもが歩き出すようになっても、親が危険なものを先回りして取り除くようなことはせず子ども自身が失敗から学ぶことを期待する。【5】こうした子どもへの
信頼は、われわれの目には過度の放任とも見えるが、自分と他者の自立を尊重するナバホの文化を教えるのにもっとも有効な方法であるという。(中略)
3. 【6】今日のわれわれの子ども観、つまり「子ども」期をある
年齢幅で区切り特別な愛情と教育の対象として子どもをとらえる見方は、フランスの歴史家、フィリップ・アリエスによれば主として近代の
西欧社会で形成されたものであるという。【7】アリエスは、ヨーロッパでも中世においては、子どもは大人と
較べて身体は小さく能力は
劣るものの、いわば「小さな大人」とみなされ、ことさらに大人と
違いがあるとは考えられていなかったという。【8】子どもは「子ども
扱い」されることなく
奉公や見習い修行に出、日常のあらゆる場で大人に混じって大人と同じように働き、遊び、暮らしていた。子どもがしだいに無知で
無垢な存在とみなされて大人と明確に区別され学校や家庭に
隔離されるようになっていったのは、十七世紀から十八世紀にかけてのことである。【9】アリエスはこのプロセスを「『子供』の誕生」のなかで、子どもを
描いた絵画や子どもの服装、遊び、教会での
祈りの言葉や学校のありさまなどを
丹念に記述するこ∵とによって
浮き彫りにしている。【0】アリエスらによる近年の社会史の研究は、われわれになじみの深い子ども観も、そして、人が幼児期を過ぎ、自分で自分の身の回りの世話ができるようになってからもすぐに大人にならずに「子ども」期を過ごすというライフコースのあり方自体も、歴史的、社会的な産物であることを明らかにした。
4.
西欧では「子ども」は、社会の近代化のプロセスにおいて、近代家族と学校の長期的な発展のなかから
徐々に生み出されていった。一方、日本では、明治政府による急激な近代化政策のなかで、近代
西欧の子ども観の
影響を受けながらも、
西欧とはやや異なったプロセスで「子ども」の誕生をみることになった。
5.
明治維新まで、子どもは子どもとして大人から区別される以前に
封建社会の一員としてまず武士の子どもであり、町人の子どもであり、あるいは農民の子どもであった。さらに男女の別があり、同じ家族に生まれても男児と女児ではまったく
違った
扱いを受けた。たとえば武家の
跡取りの子どもは、いつ父親が死んでも家格相応の役人として一人前に勤め
禄を得ることができるよう早くから厳しい教育が
施されたし、農民の子どもも幼いころから親の仕事を手伝い村の子ども集団に参加して共同体の一員としての役割を担った。近世後期以降、寺子屋や郷学が農村にまで作られそこで読み書きの初歩を習うこともあったが、それはあくまで日常生活に必要な知識にとどまり労働のなかで親たちから教えられる日常知と区別されるものではなかった。子どもたちは
封建的区分のなかで、所属する階層や男女の別に応じてそれにふさわしい大人となるようしつけられた。
6. 明治五(一八七二)年の学制の公布は、そのようにそれぞれ異質な世界にあった子どもたちを、学校という均質な空間に一挙に
掬いとり、「児童」という
年齢カテゴリーに
一括した。その意味で、わが国において「子ども」はまず、建設されるべき近代国家を担う国民の育成をめざして、義務教育の対象として、制度的に生み出されたということができよう。
7. しかし、制度ができたからといって、「児童」という存在に対して当時の人びとがすぐさま今日のわれわれがもっているような「子ども」のイメージを
抱いたわけではない。社会的・文化的な意味で∵「児童」という存在にある属性が
付与され、近代的な「子ども」観が誕生するためには、学制という制度に加え、もうひとつ別の
契機が必要であった。それが文学であった、と
柄谷行人は述べている。
8.
柄谷によれば、「児童」は「風景」や「内面」とともに近代になって初めて発見された。「児童が客観的に存在していることは
誰にとっても自明のようにみえる。しかし、われわれがみているような『児童』はごく近年に発見され形成されたものでしかない」。「児童」は明治末期小川未明をはじめとする文学者たちの夢としてあるいは退行的空想として見出された。今日、未明らの
描いた「児童」は、大人によって考えられた児童であって、まだ「真の子ども」ではない、と児童文学者や教育者たちから批判されているが、実は未明らが賛美し
描いた観念的な存在によってこそ「児童」は成立したのである。その意味で、「児童」がまず、夢や空想をともなう「ある内的な
転倒によって見出されたことはたしかであるが、しかし、実は『児童』なるものはそのようにして見出されたのであって、『現実の子ども』や『真の子ども』なるものはそのあとで見出されたにすぎない」(「日本近代文学の起源」)。いわば、近代になって人びとの子どもに対する認知の構図が変化したため、新しい
輪郭をもった「子ども」という存在が
浮かび上がってきた。
柄谷は、文学という制度のなかにこの重大な認知の図式の変化が生じたと考え、「児童」はまず文学者のロマン主義的観念として生まれたと主張するのである。