ゼニゴケ の山 3 月 4 週
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○自由な題名

★清書(せいしょ)

★思考は語りとは別だという
 思考は語りとは別だという考えは、言語をもっぱら伝達の手段と見なす言語観によっても補強されよう。「きれいな夕焼けだね」と人に語るとき、まずわたしのなかに、きれいな夕焼けだという思いがあり、それを相手に伝達するために、そのような言葉を発したのだと考えられる。言語がもっぱら自分の思考を相手に伝達するための手段だとすれば、思考は語りとは別であり、語りに先だって形成されるということになろう。
 しかし、考えることは語ることと本当に別なのだろうか。語ることに先だって思考が形成され、それをたんに日常言語で表現するにすぎないのだろうか。言葉を用いて考えるとき、まさに語ることとともに、思考が形成されているようにみえる。「今日は暑いな」と語るとき、そのときはじめて今日は暑いなという思考が形成されたのであって、語ることに先だってあらかじめそのような思考が形成されていたようには思えない。もし語ることに先だって思考が形成されていたとすれば、その思考は無意識の思考ということになるだろう。わたしが今日は暑いなと意識的に考えたのは、「今日は暑いな」と語ったときである。したがって、それに先だって、今日は暑いなという思考があったとすれば、それは無意識的な思考にほかならない。
 このような無意識的な思考が存在するかどうかという問題については、ここでは紙幅の都合上、扱わない。そのような無意識的な思考が存在するとすれば、それは語りとは別だといえるかもしれない。しかし、意識的な思考については、どうであろうか。わたしが今日は暑いなと意識的に考えるのは、まさに「今日は暑いな」と語るときである。この場合ですら、思考は語りとは別なのであろうか。そうだとすれば、「今日は暑いな」と語ることとは別に、そしてそれと同時に、今日は暑いなという意識的な思考が形成されていることになる。しかし、「今日は暑いな」と語るとき、わたしの意識にのぼるのは、「キョウワアツイナ」という音声(声に出したものであれ、頭の中のものであれ)だけである。それとは別に、今日は暑いなという思考が意識に現れるわけではない。したがって、思考が語りと別だとすれば、ここでも思考は無意識的だということにならざるをえない。つまり、意識的な語りの背後に、無意識の思考が存在するということにならざるをえないのである。
 結局、意識的な思考を認めようとすれば、言葉を用いて意識的に考えるとき、思考は語りにほかならないと考えるほかないであろう。「今日は暑いな」と語るとき、そう語ることが今日は暑いなと考えることであり、それとは別にそのような思考があるわけではないのである。「きれいな夕焼けだね」と人に語るときは、たしかに∵そう語るまえに、きれいな夕焼けだという思いが形成されていよう。しかし、その思いが意識的だとすれば、それはわたしの頭のなかで「きれいな夕焼けだ」と語ること(つまり内語)によって形成されたものにほかならないだろう。そうだとすれば、この場合も、きれいな夕焼けだという思いは「きれいな夕焼けだ」という内語にほかならないのである。

 (信原幸弘「言語による思考の臨界」による。)